三 薊の棘 (2)

 箏姫屋敷は、西都の郊外に近い万葉山のふもとにある。

 夏の日差しに目を眇めつつ衣川沿いの道をのぼっていると、水茶屋の萌黄色ののぼり旗のあたりでひとだかりができていた。「やれ!」だの、「かかれ!」だのまるで見世物小屋のような騒ぎで、聞けば喧嘩らしい。のんだくれか、と一瞥して離れようとした白雨は、人山のあいまに見え隠れする小柄な影に気付いて、足を止めた。俊敏な獣を思わせる動きは、そう他にいるものではない。それに、はなは風を纏っているから、すぐわかる。

 中をのぞくと、すでに五人の男が打ちのめされたあとであった。

 ひとり、水茶屋の下働きらしい少女がはなの背で震えているのを見つけて、めずらしい、と白雨は思った。はなは人助けといったことを好んでしない。面構えが気に食わなかったからとか、俺にケチをつけたからとか、そういったくだらぬ理由で喧嘩をするのがはなという娘だった。少しばかり感慨めいたものを覚えた白雨をよそに、少女の腕を引っ張ったはなが吼える。


「この娘に先に声をかけたのは俺だぞ!」

「いいや、俺だ!」


 相手も負けじと叫び、再び引っ張り合いを始める。

 ――やはり、くだらなかった。

 疼いてきたこめかみを押し、白雨は東雲から預かったものを汚さないようその場から離れようとする。そのとき、男の腰のあたりで光るものに目が留まった。


「おい、はな」


 娘のざんばら髪を引っ張る。気配には聡い娘であったが、白雨には気付いていなかったらしい。ぎゃっ、と獣のように鳴いて、はなは頭を振り上げた。


「なんだ白雨。邪魔するんじゃない。俺は今取り込んでいるんだ」

「そうか。東雲が呼んでいる。帰るぞ」


 東雲は、はなの急所だ。名を持ち出したとたん、それまで敵愾心をむき出しにしていた琥珀の眸が揺らいだ。不可解そうにうかがう男を振り返り、白雨ははなの頭をつかむ。


「この娘が粗相をした。まだ犬のようなものゆえ、ゆるせ」

「誰が犬だ! おまえ、俺をおちょくるのもいい加減にしろよ」

「いくぞ」

「白雨!」


 食い下がるはなの腕をつかんで、人山を抜ける。白雨の物言いが気に食わなかったようで、はなはひとしきりがなっていたが、やがてひとが減り、衣川のさらさらとした流れしか聞こえなくなると押し黙った。


「……しののめが、俺を呼んだのか?」

「ああ言わんと、おまえは引かんだろ。東雲なら、今頃兄皇子と膝を突き合わせて茶を啜っているさ」

「お節介な奴」

「何とでも言え」


 離せ、と手首を振って、はなが呟く。確かにもう必要はなかったので、離した。はなの手は刀だこだらけで、握っていてもごつごつと固く、気持ちのよいものじゃない。

 空になった手のひらで軽くこぶしを作ると、白雨は小さくなった萌黄色ののぼり旗へ目をやった。


「あいつ、……得物を持っていただろ」

「だから、どうした」


 切り返すはなは喧嘩腰である。


「言わんとわからないのか」

「俺が、あんな酔っ払いごときに遅れをとるって? 相変わらず、坊ちゃんだなあ白雨」

「違う。うずうずと血に飢えた顔をしやがって、獣が。まるわかりなんだよ」


 化粧道具の話をする東雲が瞼裏をよぎり、白雨は目を眇めた。


「あまり、東雲に心配をかけるな」


 白雨は気付いている。

 はなは、血に飢えている。

 この娘は獣だ。ほとばしる激情の御し方を知らない。ただ飢えに任せてこぶしを振るい、倒した相手の喉元に噛み付きたくて、うずうずとしている。もしもさっき、男が腰にためた刀を振りかざしていれば、はなは嬉々として男に襲いかかり、その首を掻っ切っていただろう。じゃじゃ馬なんてものじゃない。これはもう、ただの狂犬だ。

 白雨は息をつく。


「そんなに、裳着が嫌か」

「ちがう」

「じゃあ、箏姫か」


 次は間があいた。

 ちがう、とはなは先細るような声でかぶりを振った。


「ちがうよ」

「……諦めろ。東雲はあのようだから、他に女は持たん」

「ちがうと言っている。しつこいぞ、白雨」


 声だけは威勢よく、はなが言った。俯けた頬が朱に染まっていた。

 はなという娘はもう何年も、叶わぬ恋をしている。

 獣のくせに、おのこが恋しいのだという。娘であるのに、養父を愛しているのだという。東雲がいとしいのだという。はなは、近頃ますます血に飢えている。こぶしを振るうことでしかこれを発散する術を知らない。白雨にはとんと解せない、恋慕の情というものだった。


「どこへ行くんだ、白雨」

「箏姫の屋敷さ。土産を持たされたから」


 ふうんとうなずいて、はなは白雨の手に抱えられたものを見た。衣川の水量の減った川面がぎらぎらと光っている。まぶしい、と白雨は目を細めた。

 はなは文をつかんで、川へ放った。

 すばやかった。白雨が止めるまでもなかった。一時川面をたゆとうた文は、見る間に溶けて、なくなった。はなの目がそれを見ている。思わず息をひそめるほど、思いつめた横顔だった。


「ふん。ざまぁみろ」


 川面から視線を解くと、はなはどっかと草原に腰を下ろした。これもいつの間にか奪っていた包みを開いて、中の飴をひとつ口に放り込む。


「自分の足で届けんからだ。馬鹿なしののめ。だから、俺なんぞに奪われる」


 ふふん、とはなはひとりで嗤った。琥珀の睫毛が伏せられる。ふふん、とはなはもう一度言ったが、やがて抱えた膝に顔をうずめた。


「……だめになってしまえばいいんだ」


 白雨ははなのほうを見た。


「そうしたら、わたしがしののめを愛すのに。あの木偶をうまく愛してやるのに。なんでしののめのいちばんは、わたしじゃないの」


 はなの手が所在無く草をむしって、遅咲きの薊を取り上げる。節くれだった指先が棘を潰すのを白雨は見ていた。こごった息を吐き出したくなって、娘の手のひらをつかむ。ただ、つかんだ。


「仕方ないだろ」

「うるさい」

「東雲はおまえを愛している」

「知ってる」

「それで十分だろ。獣め」

「うるさいよ」


 小さな背をこごめ、やがてはなは唸るように嗚咽し始めた。

 初夏の爽やかな風が、はなと白雨の頭上に吹いている。


 *


 こののち、はなは裳着を済ませた。

 腰帯の結い役は、乳母の親類のじじがやり、化粧は箏姫がやった。はなの化粧はそれはよい出来で、いつもは獣だのなんだのと嘲る者たちも、揃ってほうと息を漏らした。はなが己を厭うているのを薄々察している箏姫は、常はこれといってはなの世話を焼くことはないが、化粧だけは自分がするといって譲らなかったらしい。

 裳着の間中、はなはしかめ面をしていた。

 まるで獲物をうかがう獣のように、張りつめた気配を崩さない。何をしでかすかわからず、白雨は幾度か刀の柄を握り締めたが、しかし、儀式のしまいに東雲が成名を与えると、目を伏せて、ようやくわらった。

 以降、華雨はなさめと名乗る。



 夏の夜明けは早い。

 しろじろとした天を仰ぎ、白雨は鼻を鳴らした平太に鞍を乗せた。少し前に飼葉とたっぷりの水を与え、毛づくろいも済ませた平太はご機嫌だった。これから湊まで半日ほど走らねばならない。頼むぞ、というつもりで鬣を撫ぜると、平太はさして立派ではない胸をそびやかした。

 東雲も、昨晩のうちに箏姫と別れを済ませたらしい。馬を連れ出し、乳母たちとはなの裳着の話をしている。


「おい」


 荷をくくりつけていた白雨は、頭上からした声に眉をひそめた。庭に一本きりの百日紅に少女が腰掛けている。華雨だった。


「裳着を済ませても、獣は獣のままか」

「悪いか。……近頃都が騒がしい。しののめを頼むぞ、坊ちゃん」

「白雨、だ」


 頬を歪め、ひとつふたつ言い返してやろうと娘を見上げたところで、百日紅の滑らかな木肌にかかる肉刺だらけの両手を見つけた。手当というものを忘れるこの娘は、潰した肉刺痕や刀だこのせいで手の皮がいつも固く変色してしまっている。ふと、あのとき潰した薊の刺し傷はあるのだろうかと探して、白雨は首を振る。考えても栓のないことだった。言うべきことは言って満足したのか、あくびをしていた娘は、「なんだよ」と白雨の視線に気付いて尋ねた。


「いや」

「さよか」

「……箏姫の屋敷を訪ねていたろう、おまえ」


 きびすを返そうとして、されど今一度とどまり、呟く。


『近頃、屋敷に獣が寄りついておりまして』


 箏姫屋敷を訪ねたとき、侍女のえんが首をさすりながら言った。白雨はすぐに思い当たった。はなである。はなが茂みに身をひそめ、箏姫の白い喉元を狙っている姿がたやすく思い浮かんだ。

 その光景には、覚えがあった。

 かつて、白雨もまた、夕闇にまぎれるようにして叔母の屋敷を抜け出し、母と弟の姿を見に行った。叔母の屋敷から母と弟の住まう領主屋敷までは、枸橘に囲まれた急坂がある。幼い足で何度も転げ落ちそうになりながら走った。枸橘には鋭い棘がある。腕を擦り、衣もところどころ破れ、ようやくたどりついた垣根から母の膝に抱かれた弟を盗み見た。額をつけあって母と弟がわらう。それを日が暮れるまで、見ていた。自分というものの輪郭が、夜の翳りに消え入ってしまう気すら感じながら、それでもしがみつかずにはいられなかった。あのとき枸橘の棘を握り締め、胸に抱いたもの。


(おれは、かけている)


 羨望。

 否。羨望では、なかったのだろう。


(かけているゆえ、欲する)

(欲しくて、欲しくて、どうにもならないくらいに欲しくて、たまらぬのだ、おれは)


 もしもあのとき東雲が現れなかったら、白雨は死ぬまで空のこぶしに枸橘の棘を握り締めていなければならなかっただろう。


「……いかなかったよ。わたしは」


 呟かれた声に、白雨は顔を上げる。いつの間にか近くの枝まで下りていた少女が、白雨の頬を引き寄せた。


「いかなかった」


 吐息がこぼれる。かすめて離れる唇を白雨は見つめた。あたりに鬱蒼と茂った橘の翳りのせいで、華雨の顔は見えない。左様か、と手の甲で口を拭って、白雨は平太を呼んだ。それ以上言及するつもりはもとよりなかった。もしも、東雲に同じことを問われたら、いかなかった、と白雨もまた答えたにちがいないから。

 

 *


 西方帝一九八年は東雲にとって最後の漫遊となった。

 このあと、長く父帝を支えていた兄皇子が病に倒れ、東雲は兄皇子たっての願いで都に戻ることとなる。西と東に分かれた天を統一し、即位に至るまでの十年余。幼い白雨のした占のとおり、東雲は北の庄よりも広い土地を焼き払い、屍の山をいくつも作った。華雨は、刀を握った。乳母のばばが世話した縁談を踏み倒し、刀ひとふりを担いで東雲のもとへ駆けて行った。

 のちに、戦のあとの焼き場にてこの女と話した。

 燃した屍からのぼる煙を背に、ひっそり生えた花を見つめているので、摘まぬのか、と尋ねると、もう摘まん、と女は言った。どこか張りつめた女の横顔から目をそらし、白雨は風に揺れる遅咲きの薊に触れる。とたん、指先に細い棘が刺さった。刺し傷から血の粒が膨らむのを見て、ああ、これは長く抜けん、とわらう。たちの悪い。たちの悪い女に触れてしまったものである。


『ばかばかしくて、わらえるよ』


 まったく、遅咲きの花であった。

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