五 落日の天(2)

「お久しゅうございます、光明院様」


 南殿に植えられた橘は寒風の吹き始めた秋にあっても、ますます艶めかしい。若者らしいみどりの衣をばさりと返して叩頭した葛ヶ原領主を、光明院は目を細めて見つめた。


「橘の常葉様ですよ」

「見てわかるわ。こと、起こしてくれ。常葉、近う」


 箏姫がそっと腕を差し出して、光明院を支える。身を起こしたはずみに軽く噎せると、慣れた手つきで背をさすられた。火桶でちろちろと炭が燃えている。今年の秋はことさら風が冷たく、老身にはこたえた。


「おやおや、覇気がございませんね。院」

「うるさい。この悪たれが」

「常葉様がいらっしゃると、このように若ぶるのですよ」

「そなたまで言うか。こと」


 くすくすと濃茶の眸を弓なりに細めて、常葉が微笑んだ。容姿は母譲りであるが、性根のまるさは東の地で培われたものらしい。常葉がわらうと春風が立つ、とことは言う。春風は存外荒いぞ、と光明院などは水を差す。

 院が甥の皇子に譲位をして久しい。

 今はその甥も退位し、院はしばしの住まいとした光明殿からかつての乳母屋敷に隠居していた。御年六十二。もう十分なじじである。そのくせこのじじを訪ねて、ことあるごとに甥子やら何やらがやってくるので人気ばかりは絶えない。身の回りの世話をする者は減ったが、そのぶん箏姫が甲斐甲斐しくあれこれと立ち回ってくれている。箏姫は未だ、むすめごのように美しかった。


「また子が生まれたそうだな」

「おのこが生まれました。すばしこい子で。風也と名付けました」

「ふうや、とな。よい名じゃ」


 かつて、橘の苗を持って走ってきた常葉も二十八になる。娶った百川の姫は多産のたちで、ふたりの間にはすでに三人の子どもが生まれていた。折りしも、今上帝の初子も晩夏に生まれたところである。常葉はその祝いに、都にのぼってきたのだった。


「華雨はどうしておる」


 一昨年、即位礼に訪れたときには、相変わらず刀を振り回して孫に稽古をつけているのだと苦笑交じりに話していた。

 常葉は居住まいを正すと、口を開いた。


「そのことで今日は参上しました次第です」

「いかがした」

「母は亡くなりました。今年の初めでございます。刀を担いで出て行ったところを倒れ、そのまま二日ばかり床におりましたが、三日目の朝私が目を覚ますと、冷たくなっておりました」


 しばらく院は口を閉ざした。

 箏姫の手が噎せたときにするように背をさする。それでようやく、「……今年の初めとな」と息を吐いた。どこか恨みがましい言い方になった。


「葬儀はいらん、蜷もうるさい。ゆえ、しばし秘匿しておけとの母の遺言でありましたので」

「俺にもか」

「ええ。院に『告げ口』するでないぞ、とそれはもう口を酸っぱく」

「常葉」

「はい」

「死に顔はどうだった」

「鬼のようでございました」

「……左様か」

「目を見開き、頬を強張らせ、口も開け放し、今にも身を起こして走ってゆくのではないかと思ったくらいです」

「華雨らしいな。ふふ」


 少し、院はわらった。常葉の眸が柔らかに細まる。


「母からひとつ言付けられてございます。それを届けに、私は参上しました」

「申せ」

 

 *


 ひいら、ひいら、と花が散る。

 虚ろな眼窩に落ちる花を見つめながら、まだ少年の東雲は懐刀を握り締めてじっとひとを待っていた。都の送り野辺、骸の捨て場である。待ちびとである男が夜明け方、骸の身ぐるみをあさりにくるのを東雲は知っていた。

 東雲の生母は、東雲が十のときに死んだ。

 もとは、身分の低い妓女上がりの側女である。身体を悪くして里へ帰る道すがら、万葉山にはびこる山賊に輿を襲われ、身ぐるみを剥がれて死んだ。東雲が駆け付けたとき、母は股を丸出しにして死んでいた。妓女上がりの母は、襲の合わせや香にことのほか心を尽くすひとであったが、かように裸になっているのが悲しかった。

 東雲は、山賊の頭をかち割ってやろうと決めた。

 もとより、皇子に生まれついたとはいえ、妓女を母に持つ、爪弾き者である。宮の外にも内にも、東雲に安息はなかった。

 東雲は、刀を研いだ。都のあちらこちらへ足を運び、山賊のあじとを突き止め、送り野辺にたびたびやってくることを知った。ひとりではとても太刀打ちできなかろうが、野辺で油断したところをひと突きするなら俺でもできる、と東雲は考えた。

 夜明け方、万葉山のふもとでは、ありあけの月が照っている。ひとりで抜け出すつもりだったが、玉津がついてきてしまった。仕方なくだまくらかして樹のうろにふくふくとした腹を押し込めると、自分は屍の山に身をひそめた。ろくに扱ったこともない懐刀を構え、山賊がやってくるのを待つ。


(死ぬな、俺は)


 手の皮が引き攣れるほどきつく柄を握り締めていると、ふいとそのような念が頭をもたげた。


(ここで、死ぬ)

(死にたいのか、俺は)


 それもどこか違うような気がした。

 東雲には、己の進むべき道が見えぬ。だから、行く場所も死ぬ場所もわからぬ。己のうちに燃え盛る炎を持て余し、途方に暮れてしまっている。


(だからこのように、試してみたりなどする)


 やがて日がのぼったが、待っていた山賊は来なかった。偶然やもしれぬ。東雲が読み違えたのかもしれぬ。されど、来なかった。どこか呆けた心地で天を仰ぐと、風もないのに花ばかりが舞っていた。


『うわああああん』


 泣き声を聞きつけたのはそのときだ。最初は獣の声かと思った。しかし屍をより分け、取り出してみればひとの子である。薄汚れて、冷え切ってしまっているが、そのくせ獣が吼えるがごとくわんわんと喚いている。


『泣くでない』


 懐刀を落としたことも忘れて、東雲は赤子をあやした。だが、大口を開けるばかりでちっとも泣き止まぬ。


『泣くでないと言うておるに』


 あやしているうちに、ぐぅと腹の虫が鳴いた。思えば、もうずいぶんのこと、ろくに物を口にしていなかったと気付く。ああ、と東雲は愁眉を開いた。


『おまえもか』


 赤子は、泣いている。泣くたび、風がごう、と唸って、嵐のようである。花が舞っていた。空が明るんでいく。己のうちの血潮が熱く燃え立つのを感じて、東雲は吼えた。


『玉津! 来い、赤子だ! 赤子が泣いておる!』


 それから、朝の大路を駆け出した。



「――――まだまだぞ、東雲」



 常葉は言った。


「勝負はまだまだここからぞ。と、母は申しておりました」

「左様か」


 目を伏せる院の口元には笑みが湛えられている。


「左様か」


 もう一度、噛み締めるように院は言った。


 こののち十年、光明院は生きた。隠居を決め込んでいたのをあっさりやめて、西へ東へ駆けずり回った。この頃の院はまるで青年に戻ったようでございました、とは周囲の言である。最後の十年、院が拓いた鞠ノ井の湊は今も西大陸との交易の要となり、栄えている。

 光明院はその生涯を、紫苑の乳母屋敷で閉じた。

 秋であった。黄金の光が庭に茂った橘の葉からこぼれていた。床からそれを見上げていた翠の眸がふいに何かを見つけてまろぶ。


「橙の実がもう、」


 これが滄海にぷかりと浮かぶ島国の西と東を統一し、国にひとときの栄華をもたらした光明帝の最期の言葉となった。

 遺言のとおり、院の遺骸は燃され、万葉山におさめられた。正室、箏姫は共に棺に入り、燃されて果てた。また、生涯その忠実な臣であり続けた北の庄白雨は、主の死を見届けた翌年にひっそりと世を去っている。

 しばらくのちに都を訪れた橘常葉は、満開の花を見上げると、ようやく花が咲きましてございますよ、と誰ともなしに微笑んだ。


 ・

 ・


 それも、今は二百年前の出来事である。

 水の滴る音に、時の皇太子・朱鷺ときはうっすら目を開いた。こん、と咳をすると、女官のばばが背をさすって、額に濡れた手巾をあてがう。

 朱鷺は生まれつき身体が弱かった。こたびも床からもうひと月も離れられず、周囲にはこの冬を越せるかどうか、と噂されている。


「おれは死ぬのか。さよ」


 さよ、と呼ばれた女官は「そのような」と眉根を寄せたが、目がそう言っていなかった。朱鷺は女官に背を向けると、眠り込んだふりをした。水を代えるためにか、さよが立ち上がる。離れていく足音を褥に頬をくっつけて聞いた。また幾度も噎せる。涙が溢れた。

 朱鷺は立ち上がった。

 しばらく臥せっていたため、足がよろけたものの、何とか這い出ると、外へ下りた。沓もないゆえ、裸足である。春が近かったが、外は昨晩にわかに降った淡雪が薄く積もっていた。突き刺さるような冷たさが足裏を貫く。それでも、何かに突き動かされる心地がして、朱鷺は走った。

 やがて、雪の中、ぽつんとたたずむ橘の樹が現れる。昔から南殿に植えられているという橘は痩せて、葉つきもまばらだ。対となる桜に比すると、取り立てて見どころもない、つまらぬ樹であった。それを少年がひとり、無心に見上げている。まだ童といってよい年頃で、手足もうんと細く、一人前に袴などをつけているのが余計、たどたどしい。


「誰ぞ」


 朱鷺は尋ねた。

 童が振り返る。とたん強い風が立って、橘の痩せた葉がさざめいた。


「おまえこそ、だれだ」


 こちらを眇め見る濃茶の眸には、しかし子どもらしくない沈着さがある。名を問うたはずが反対に訊き返されてしまい、朱鷺は惑った。だが、生来の勝気さか、それで名乗るのも癪に障り、「ここで、何をしておる」と別のことを訊く。


「橘をみてた」

「この痩せっぽちの樹を?」

「葛ヶ原の橘とちがって、さっぱりげんきがない」

「もう、ずっとそうさ。葛ヶ原と言ったか」


 東の最果て、葛ヶ原を治める一族の名も、そういえば橘だった。光明帝の御代、西大陸にまで馳せた栄華もいまはむかし、傾きかけたこの島国にあって、未だ春を待つ木々のようにしたたかに領地を守っていると聞く。

 そうか、と朱鷺はうなずき、童の隣に並んで老いた橘のひょろ長い幹を見上げた。


「おまえ、この樹をどう思う?」

「どうって?」

「橘はみどりの葉を年中さなりと茂らせていると聞く。そうなのか」

「すくなくとも、俺の故郷ではそうだよ」


 童の返事はすげなかったが、朱鷺の胸は高鳴った。何より、この子どもは朱鷺の知らない外の世界を知っている。それが羨ましかった。勢い込んで話を続けようとして、はずみに噎せる。かすれるような咳をしてむせぶ朱鷺をちらりと見つめ、童は首を傾けた。


「おまえ、びょうきなの」

「この冬は越せんらしい。侍医が言うておった」

「ふうん」

「橘は、命を長らえさせる妙薬だとも聞いた。そなた、東に根付くのだという橘を俺に持ってきてはくれんか」

「いやだよ、おれは」


 冗談のつもりで言ったのだが、顔をしかめる童があまりに素直なので、朱鷺はわらってしまった。


「いやか」

「いやだ。……だけども、あれをくれるっていうんなら、考えてやってもいい」


 そう言って童が指したのは、痩せた枝にひとつだけなった橙の実だった。まばらな葉の中で、そればかりが陽のように明るい。ほう、とうなずいて、朱鷺は物言いよりもずっと幼い童の横顔を見つめる。先ほどから何を一心に見つめているのかと思えば、と考えておかしくなった。


「そうか。この実がほしいか」

「うん」

「強欲な。痩せた樹になったひとつきりの実ぞ」

「だから、ほしいんだ」

「そうか。ふふ」


 朱鷺は雪片まじりの童の髪をくしゃりとかき回すと、袖をまくって樹を守る柵に手をかける。橙の甘酸っぱい芳香がよぎるかのようだった。心の臓が脈打ち、かじかんだ指先に血が通う。


(いきている)

(おれは、いきている)


 朱鷺は目を細め、橙色をしたその実を今、手に取る。


 *


 いまはむかし。

 西と東に己が天じゃ、と称する帝が立ち、争いの絶えない時分である。

 これをおさめたは、のちの光明帝、名を東雲。

 皇子の愛した獣の名を、橘華雨という。



 【完】

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