五 落日の天(1)

 幼い頃、橙の実をねだられた。

 乳母屋敷の橘は冬になると、橙の実をたわわに実らせる。色褪せることのない葉をさなりと茂らせた橘は、雪中にあってますますみどりを深めるかのようだ。


「しののめ、しののめ」


 女童がざんばら髪に雪片をくっつけて駆けてくる。


「しののめ、あれを取って」


 袖を引いて指差す先を見つめて、東雲はわらった。

 冬の陽を浴びて、橙の実は豊かにひかり輝いている。


 *


 西方帝二〇九年、時の西方帝の皇子・東雲は西都にて即位した。御年三十五。後世に名高い光明帝の誕生である。

 ここにおいて長く西と東に分かれていた国は統一され、頂に立つのは光明帝ただひとりとなった。帝はまず西都を紫苑しぞのと改め、改暦を行った。以降を『風詠ふうえい』と称す。風詠元年、光明帝は度重なる戦で焼け野となった土地の復興を目指し、諸国へ令を発した。


「百川が普請を渋っておると?」


 脇息から身を起こし、光明帝は尋ねた。

 東征の際、最後まで東都を守った瓦山の百川は、東半分の領地を召し上げられ、当時の主立った家臣も軒並み領外追放や蟄居に処せられていたが、未だ西方へ反発する者も多い。


「網代が、ならばケン攻めをやらせてはいかがかと申しておりまする」

「蜷の棟梁は、先年代替わりしたのだったか」

「今代の棟梁はまだ若く、南下の意思ありと聞きます。東では森を挟んでの小競り合いが絶えないのだとか。百川も近隣ゆえ、馬と兵を出させてみてはどうかと」

「それで普請にかえるか。南の王め。相変わらず抜け目ないな」


 光明帝は袖うちで忍びわらう。「どう思う」とそばに控えた玉津たまつに問えば、さあれば流浪になった百川一味にも兵団を作り向かわせよう、という意見が出た。


「問題は、かような烏合の衆を橘がまとめきれるかでございますが……」

「それなら案じずともよい」


 同じことを訊けば、鼻でわらい、馬鹿にしているのか、と言い返すだろう。華雨とは、そんな女である。

 一昨年、華雨は屑ノ原の地でおのこを産み落とした。常葉ときわと名付けたと風の噂で聞いた。東に幼名の風習はない。常葉は戦場で生まれ、屍を積み上げる母に負ぶわれ、すくすくと育っていると聞く。


「そういえば、近頃都に花が根付かぬらしいのです」


 朝議を終えたあと、書記役をしていた稲城いなぎが硯を片付けながら言った。「花が?」と白湯をすすって光明帝は聞き返す。


「種は蒔いておるのですが。灰で土が悪くなったのではないかと庭師が申しておりました。桜も近頃は、花つきが悪いようで」

「ほう?」

「南殿の橘も具合がよろしくないようですね」

「あれは昔からだ。ひよわ者が植えたゆえ、うまく根付いてくれんのさ。……そうか。花がな」


 樹木医ならば諸国を回っていた折、いくつか顔見知りができた。一度診させてみるか、と考えながら、――あるいは天罰か、と考えたりもする。信心深い者ならば、のたまいそうなことだった。光明帝は、東を焼いた。数多の武将の首を上げ、民を殺めた挙句、今もなお、己が養い子にしゃれこうべの山を作らせている。木々が泣いている。花が恨みつらんでおる。西に新たな草木が芽吹かぬは、その身から流れた穢れゆえぞ。


「ふん」


 光明帝は鼻を鳴らした。

 稲城を下がらせたあと、外に出て、高欄から庭を見渡す。季節はちょうど秋である。小姓が清め忘れたか、折り重なった枯葉に木々の合間から落日が射す。黄金であった。木枯らしにしなった枝から離れた葉がかさりと足元に落ちた。


「ここも寂しくなったものだ」


 目を細めて、光明帝は呟いた。




 しかれども、蜷攻めは半ばで頓挫した。

 風詠五年、夏。その夏は例年にない長雨だった。衣川は水量を増し、たびたび氾濫を繰り返す。灰を払い、土を盛り、万葉山の木を伐って建てた家は皆川に流され、多くの者が住む場所を失った。加えて、日嗣の皇子として育てられていた帝の末弟がはやり病で世を去ると、宮中ではまことしやかにこれは祟りじゃと囁かれるようになった。東を下す際、今上帝は東方帝につく数多の領主の首級を上げ、まつろわぬ邑々を焼いた。その恨みつらみが帝を祟っておるのだと。

 これに、今は北の狗島に流されていた東方帝が乗じた。


「西の『偽帝』を追討せよ」


 ひそかに手引きする者の力を借り、狗島を脱すると、東方帝は未だ各地に散らばる東方の領主に内々に追討令を発した。そして、同年十月。淡津田での暴動を鎮めるため、篝将軍らが都を離れた隙をつき、東の一党が万葉山へ詣でていた帝を襲った。都も近頃では落ち着きつつあった矢先である。光明帝をはじめとした西方は、まったく虚をつかれた形になった。

 このとき、あわやというところで駆け付けたのが北の庄の白雨だった。東征のあと、病に臥せった弟に代わり故郷の北の庄で執政をしていた白雨であったが、大禍の星が出たことを案じ、ひそかに西都へ舞い戻っていた。帝を救った白雨は、わずかな手勢とともに北の庄へと逃れた。

 都は、東に落ちた。

 悔しさのあまり、光明帝がつけたとされる刀傷が白雨屋敷には今も残っている。


 *


 東雲は走っていた。

 今は昔、十三の時分である。

 西都の裏路は食いはぐれの博打打ちに酔っ払い、夜鷹の客引きに加え、花見の客まで繰り出して、昼夜の別なくたいそうやかましい。怒声の飛び交う裏路を押し分けへし分け抜け出して、東雲は駆ける。近習の玉津がふくふくとした腹を揺らして追いかけてくるが、東雲の足のほうがずっと速い。


『すまぬ!』


 まだ夜は冷たい風が万葉山から吹き下りるこの時分、花見のために掘っ建てられた小屋の並ぶ大路には、そこかしこにひとや馬の死体が転がっている。よけようとして、物乞いのばばにぶつかった。すまぬな、と肩を叩いて離れ、はずみに落ちかけた腕の中のものを抱きなおす。

 目指すは、大路門を越した先にある乳母屋敷。春の西都は花が舞い、塀から伸び出た橘すら、みどりの葉に花びらを纏わせて春めかしい。門衛がおらぬのをよいことに乳母屋敷の裏戸をくぐった東雲は、中を見回し、また走った。


『とめ! いるか、とめ! 赤子だ!』


 東雲は叫んだ。

 陽のあたる濡れ縁で糸車を回していた乳母が目を丸くさせて東雲を見上げる。


『東雲様? 今日はおとないの日でございましたか』

『いいや、知らせておらぬ。とめ。そなたのところによい乳を出すおなごがおったろう。連れてこい。腹をすかせておるのだ』

『千代のことでございますか』

『うん、そのちよだ。はよ連れてこい』

『ですが、千代の乳では東雲様は少し……』

『たわけ。腹をすかせているのは俺ではない。こやつだ』

『こやつ?』

『だから、赤子じゃよ。拾ったと言うておる』


 東雲は当然のことのように言ったが、とめには初耳だった。東雲の腕の中で赤子は死んだように目を瞑っている。案じた東雲が頬のあたりをつつくと、がぶりと指を噛んだ。


『まぁ、恐ろしい。このような荒くれ者、どこで拾われたのです』

『花の下で泣いておった。送り野辺のあたりの。ちよはどこだ』

『厨におります。呼んで参りましょう』


 観念して、とめが腰を上げた。

 連れられてきた女はまだ妙齢で、女童をひとり連れていた。とめから話は聞いたらしく、慣れた手つきで東雲の腕から赤子を取り上げ、己の乳房にいざなう。はじめこそぼんやりしていた赤子であったが、乳のにおいに惹かれたか、唇をあててやるとあとは無心に吸い始めた。その間も東雲の指を握って離さない。器用な子じゃ、と東雲はわらった。


『眉が太うて。顔つきがおのこでございますな』

『いや、おなごさ。ほれ』


 赤子をくるんでいた被衣を開く。この赤子、裸のまま花の下に捨てられていたので、拾い上げたとき東雲がくるんでやったのだった。

 送り野辺の花の下には、引き取り手のいない屍が積まれて山を作っている。薄紅の花びらばかりが、物言わぬ骸たちへの弔いだった。赤子は、骸の下で泣いていた。


『何故そのような場所へ足を運ばれたのです?』

『それは言えん。はなと俺だけの秘密であるから』

『はな?』


 いぶかしげな顔をしたとめに、「はな。自分でそう名乗ったのさ」と東雲はうなずいた。戯れだと思ったらしい。女たちは笑ったが、東雲は真面目な顔つきをして、己の指を握り締めるはなの小さなこぶしを見つめた。


(あつい)


 はなの手は、熱のかたまりのようだ。触れたところから血が通っていく心地がして、東雲は目を瞑った。どうしてか、目頭が熱くなった。腹の底から、歓喜とも悲しみともつかない感情が湧き上がり、奥歯を噛み締めていないと喉が震えた。しこうして、そのあと続けた東雲の言葉に、女たちはおろか、都中が度肝を抜かれることとなる。

 いわく、はなを俺の子にすると。

 齢十三にして、女の胎もなしに東雲は子を作った。


 *


「葛ヶ原にて、東方帝の首級が上がったとの由」


 報せは、風詠五年を明けた初春にもたらされた。

 東方帝が、身を隠していた鞠ノ井から東に降り立ち、かつての東都へ入る道中であった。屑ノ原、もとい今は葛ヶ原と名を変えた土地に泊まった。領主橘華雨はすでに先年、瓦山の百川を通じて東方帝へ恭順の意を示していた。

 華雨は女だてらの領主である。歳も二十八とまだ若い。さらには光明帝の養い子だという。興味を抱いた東方帝へ屋敷を供し、歓待の宴を催したあと、華雨は愛刀でその首をぶった切った。悲鳴を聞いた近習が駆けつけたとき、東方帝は裸のまま褥に転がり、未だ流れる生温かな血が華雨の白い乳房を濡らしていた。


「何事ぞ!」


 蒼白になり問うた近習に、華雨は嗤った。


「何を騒ぐ。この橘華雨が『逆賊』を始末したまでさ」


 その近習も、直後胴と首が離れた。

 獣である。華雨は獣である。刃向かう者はすべて食いちぎる強い獣である。

 一晩にして、泊まっていた東方帝一党を始末してしまうと、その首を掲げ、華雨は東側の領主をねじ伏せた。本来、葛ヶ原の背後から襲ってしかるべき百川はこれを静観し、動かなかった。百川の姫は、華雨の子、常葉の許嫁として葛ヶ原に送られている。表向きはこのためと言い張ったが、蜷との小競り合いに悩まされる百川から西と争う気はそがれていた。


「偽帝は斃れり」


 宣言し、光明帝は西に戻った。


 その道中について、ひとつ、こんな話が残されている。

 北の庄から紫苑に戻る際、一行は進路を東に取り、葛ヶ原に立ち寄った。ひとつに東方帝の首級をあらためるためである。今ひとつは、華雨だった。

 道中の守りを務めていた白雨は先に馬を出し、帝がお泊まりになるゆえ仕度をせよとの触れをした。

 しかし、華雨は葛ヶ原の門を開けなかった。

 東方帝の首の入った桶を先触れの馬に持たせ、返したのみである。


「門を開けよ!」


 近衛兵が叱咤するも、葛ヶ原方の門衛は、領主様からきつく言いつけられておりまして、と答えるばかりで埒が明かぬ。痺れを切らした白雨が兵を使って門を壊そうとすると、まだ童といってよい少年が通用の小戸からひょこりと顔を出した。金とも昏ともつかない眸をした子どもで、寒さゆえか、頬は上気して林檎色をしている。


「おまえがしののめか!」


 近衛兵の間をすばしこく抜けた少年は、だしぬけに帝の召す輿をのぞきこんだ。周囲の者が目を剥く。すぐに数多の手が伸び、少年を引き離そうとしたが、「待て」と輿にかかった御簾をのけ、光明帝が言った。ましろの手のひらが少年の赤らんだ頬に触れ、髪にかかった雪を払う。


「常葉だな」


 光明帝は微笑んだ。ひとり白雨だけが人知れず目を瞠った。


「華雨にそっくりだ。して、そなたの母はこの木偶を怒っておったか」

「まっかになって。ははうえはこわいんだ。しののめのばかにはこれでもわたしておけと、もたされた」


 常葉の小さな手が腕に抱いていたものを差し出す。橘だった。艶やかな葉をさなりと茂らせた橘の若木が常葉の腕の中に抱えられていた。


「……そうか」


 うなずき、光明帝は常葉から橘の苗を受け取る。引き寄せると、橘の葉の馨りが微かにした。帝は宿泊地を毬ノ井へ変える旨を白雨に伝えた。心得た白雨が兵らにそれを言い渡す。輿から離れる際、白雨のかたわらを常葉がりすのように跳ねて走って行った。その腰に、子どもらしからぬ小刀が佩いてあるのを見つけて、白雨は思わず口を開いた。


「それは、どこでもらった」

「かたなのことか? ははうえだよ。ちいさいのがおれ、おおきいほうはははうえがもっている。おそろいなんだ」


 大事そうに鞘を撫でた常葉の手を白雨は目を細めて見つめる。刀だこばかりの小さな手のひらは、記憶の中の少女と似ていた。

 胎に常葉を身ごもった華雨は白雨の大刀と小刀を持ち去って、都を発った。東征の折、渡したものである。使わなかったとあとから聞いたが、気に入ったゆえくれ、と華雨が言うので、くれてやった。華雨が白雨に何かをねだったのははじめてだった。火鉢の炭が静まった濡れ縁で、華雨はあのとき、少女のように頬を染めて刀を抱き締めていた。


「常葉」

「なんだ?」

「つよくなって、ははうえを守れよ」

「ああ」


 冬の陽にあたる常葉の小さな背を白雨はしばらく眺めていたが、やがて口端に笑みを乗せ、きびすを返した。生涯一度きりの父子の邂逅だった。

 こののち、紫苑を中心に据えた小さな島国は、光明帝のもとでひとときの栄華を迎える。

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