二 うたわぬ鳥

 かなりあを買った。

 煤けたみどり色の羽をふくりと膨らませた雌鳥である。

 に歌くらべの趣味はないが、竹ひごの中で羽を膨らませて震えている小鳥を見つけたら、つい鳥売りを呼び止めてしまった。

 梅雨だった。雨が車軸をくだすがごとく降り、竹ひごをいくつもぶら下げた鳥売りの雨合羽も、かなりあの羽も濡れていた。


「長雨でございますな」


 侍女のえんが首のあたりをさすって呟く。この季節、えんは肩凝りがいっそう重くなるらしい。漬物石を詰めたようでございます、と嘆息するえんに、ことは目を伏せて微笑った。

 雨の時期は箏の音も鈍る。調絃のため、音をつぶさに探っていると、外でかなりあの啼く声がした。気付いたえんが、御簾を引き上げて外をのぞく。奥に並んだ淡竹が騒々しくさざめいたかと思えば、急に静まった。人影は見当たらないが、山梔子の下に踏み荒らされた痕がある。


「また、いつものが来ていたようですよ」


 かなりあを籠ごと吊り具から降ろして、えんが言った。

 いつもの、と言う。近頃、ことの暮らす屋敷には獣が一匹、寄りついている。人馴れをしないたちらしく、ことやえんが気付けばすぐに逃げ、しかしそのまま放りおけばまた恐る恐る近寄ってくる。


「傘を置いておやり」


 からりん、と爪弾き、ことは言った。


 *


 てんで商才のない男であった。

 ことを生んだ人形師で、名を蝉丸せみまるという。

 ことは夜伽人形である。人形とは、屍に魂を込めて作られるもので、蝉丸たち人形師は、生み出した人形に伽を仕込んで貴人に献上し、銭を稼ぐ。普通、夜伽といえば、性技を仕込み、髪を丹念にくしけずり、膚に香を擦り込み、そのようにして売りに出すというのに、蝉丸ときたら、おまえはこれを弾けと言い、箏を一面持ってきた。

 よい箏だった。まず、木目がきれいでみずみずしく、触れれば、桐のよい薫りがする。それに、象牙の爪をひと揃え。ことは言葉を知るより早く譜を繰り、ひとと口を利く前に箏を奏でた。


「おまえがもらわれるのは、そこらの貴人ではない。帝ぞ」


 蝉丸は折りにつけ、ことに説いて聞かせた。

 水を足して薄めた酒を舐め、虱の湧いた頭をかきしだき、そのくせ眸だけはぎらぎらと精気を帯びて星のようである。この話をするとき、決まって蝉丸の唇はにぃと吊り上った。


「よいな、帝ぞ。ふふ、夜伽の身で妃となれ。ことよ」


 そうして、薄い瞼を閉じる。

 蝉丸は夢の中を生きる男であった。人形師を名乗るが、こと以外の人形は作らず、妻帯も持たず、ちり紙拾いや似顔絵描きといったもので日銭を稼ぎ、それも皆、その日の酒代に使ってしまう。蝉丸がどこからこのような箏を買ってきたのか、ことは聞かされていない。どこかから騙し取ったのだろうとは察しがついている。しかし、ことは何も訊かぬ。咎めもせぬ。蝉丸が夢の中を生きるように、ことも譜と音の中でのみ生きていたから、他のことはどうとでもよかった。


「妃ぞ、こと」


 蝉丸は言った。


「おまえの箏なら、つかめる」

 

 それから十年以上の月日が流れた。

 ことは人形の身ゆえ歳を取らないが、不思議と蝉丸もいつまでも若かった。

 その蝉丸が、ある日吼えた。


「こと、聞け! 皇子ぞ!」


 いよいよ蓄えが尽きてくると、蝉丸は箏を担いで大路に向かい、貴人から幾許かの投げ銭をもらって帰ってくる。触れるものがないので、そういったとき、ことは裏長屋の虫食い柱に身をもたせ、譜を繰っている。すでにどれも覚え込んでいたが、よい曲というのは譜の並びも美しく、なぞっていると、雨音がぽつんぽつんと染み入るように胸に心地よい波紋を広げた。

 雨の日の裏長屋は静かだ。


 てん、てん、てん、とん、さぁらりん、かぁらりん


 雨垂れを拍子に、畳の目を弾き、浮かんだ音を口ずさむ。


 しゃ、しゃ、てん、てん、とん、とん


 少し鈍くなった糸の、かすれた爪弾きすらも聞こえるようだった。目を伏せてまどろんでいると、蝉丸が長屋の油障子を踏み倒さんばかりに鳴らして戻った。


「こと、聞け! 皇子ぞ! 皇子がおまえをもらうと俺に言った!」


 蝉丸の口調は熱を帯びて激しい。じれったげに腕を引き上げられ、ことは首をそらした。油障子から、腰をかがめて見知らぬ男が顔をのぞかせる。外は未だ雨が降っているらしい。肩にかかった雨雫をさりげなく払う仕草が、蝉丸とちがった。


「箏と一緒に、おまえももらうと約束を取り付けた。喜べ、こと! おまえを召し上げるのは皇子ぞ!」

「……左様ですか」


 蝉丸が担いだ箏へ一瞥をやり、ことは顎を引いた。

 これがのちの光明帝、当時はくるいの君と呼ばれた西方帝が第五皇子東雲とことの出会いだった。箏一面と象牙の爪、箏柱と数多の譜を共にして、ことは東雲へ献上された。銭一枚の払いもない。蝉丸はまこと、商才のない男であった。


「俺はそこの箏が昔乳母の持っていたものに似ていたゆえ、見せてはくれんかと言っただけなんだが」


 褥に腰を下ろすや、東雲が困った風に呟いた。

 くるいの君、つまはじき者とは申せ、皇子は皇子である。連れて行かれた屋敷は裏長屋一棟よりなお広く、天井も高い。そばで絵蝋燭を燃した褥に、ぽつん、とことは座した。しばらくしてやってきた東雲は開口一番そのように言って、わらった。


「どういうわけか、そなたも一緒についてきよった。奇妙な縁だな」


 歳の頃は二十過ぎと聞いたが、わらうと元服したての少年のように幼い顔になる。

 ことは口を開かなかった。俯き、膝の上に重ねた己の両手のひらをじっと見つめている。東雲はしばらく何かを言っていたが、ことの反応が返らぬのを見て取ると、まぁよいか、と勝手に納得をして、褥へことを押し倒した。手首を捕え、衿うちを探る。ことは目をそらしたが、東雲は無関心だった。


(商才どころか、ひとを見る目もなかった)


 目を瞑り、ことは瞼裏によぎった蝉丸に言った。

 妃はおろか、一晩きりでことは飽きられよう。東雲はそういう顔をしている。夜伽が物珍しかったゆえ連れ帰った、ただそれだけのことなのだろう。

 蝉丸が憐れだと思った。

 数十年、焦がれた夢であるのに、一晩で終わるという。


 とん、てん、とん、てん


(はかない)


 てん、てん、てん、とん、かぁらりん


 はかない、とことは思った。



 夜が明けた。

 その晩は始終雨音が絶えず、空が白んでもまた細々と雨が降った。熱のこもった褥から抜け出したことは、しばらく御簾のかたわらに座し、山梔子の葉を叩く雨を見つめていたが、やがて立ち上がった。箏、と思い至ったのだった。

 昨晩、東雲の侍従の少年の手によって運び込まれた箏は畳の上に平らかに置いてある。箏柱はすべて下ろされていたが、額を擦ると、小舟のかたちをした桐の箱からは常と変わらぬ淡い香りがした。胸が苦しくなってしまって、ことは童のように額を桐に擦りつけた。


「なにをしておる?」


 ことはゆるりと目を開いた。

 声は背後からしている。東雲だった。

 そのままうつ伏しているわけにもゆかず、身を起こしこそしたが、ことは口を閉ざす。東雲は呆れたらしかった。


「そなたはちらとも喋らんな。昔、ねんごろだった夜鷹女は、乞うと夜明け方まであれこれと故郷の話を聞かせてくれたものだが」


 話しながら東雲が近づいてくる。

 衣裾を握り締め、ことは俯いた。


「……何故、喋らぬ? 俺を恐れているのか」


 衣擦れの音を立てて無遠慮にことをのぞきこんだ東雲は、ふと口をつぐんだ。翠の眸につかの間驚き、困惑する色がよぎった。


「この子は」


 ことは口を開いた。蚊の鳴くような声だった。


「この子は、いずこへ持ってゆかれるのですか」


 桐の木肌を撫ぜながら呟く。

 東雲の話だと、箏の元の持ち主は東雲の乳母らしい。もともと蝉丸が盗んできたものにちがいないから、こうなった以上、元の持ち主へ返されるか、そうでなくとも東雲が持ち去るのが道理だとはわかる。それでも、訊かずにはいられなかった。生まれたときからずっと共にいた。箏と離れることがただかなしかった。


「何ゆえ、それを訊く?」


 問われて、ことは目を伏せる。

 沈黙に先に根負けしたのは東雲だった。

 大きく嘆息して、「やらぬ」と言う。


「やらんよ。どこへもやらん。ゆえ、そう泣くでない。あの人形師め、何が夜伽じゃ。夜伽というのはこうも、寝覚めを悪くするものなのか」


 舌打ちし、「だから、泣くでないというに」と心底嫌そうな顔をして、頬に手を差し伸べる。しとど濡れた頬をこすって、涙のたまった眦を二度三度指先で拭った。楽でも奏でそうなたおやかな指先であるのに、何とも雑な拭い方である。


「そなた、名はなんという」

「こと、と」

「ことか。ままだな」


 口端に笑みを乗せ、東雲はかたわらに揃えてあった象牙の爪を取った。手のうちで転がしたそれらを無造作にことの前に投げる。


「弾いてみせよ」


 東雲は言った。


「こやつはどこへもやらん。やらんが、俺のものだ。だが、俺は箏が弾けぬ。代わりにそなたが弾いてみせよ」

「ここで弾くのですか」

「ああ。弾けぬか」

「いいえ」


 ことは散らばった爪を手の上に拾い上げた。


「何にいたしましょう」


 尋ねたのは曲目のことである。


「何でもよい」


 あくびをしながら東雲がこたえた。


「そなたの好む曲なら、何でも」

「左様ですか」


 うなずき、ことは箏柱を寄せた。糸を弾いて音を探る。調子を合わせてしまうと、ことはおそらく出会ってからはじめて、東雲に正面から向き合った。

 ためされているのだろうか、とふいに思いつく。

 くるいの君。都でそう呼ばれる皇子は、退屈そうな目をしてことの手元を見つめている。はたから見れば、ただの奇矯で箏と夜伽を手にしたぼんくらである。こうして向かい合ってみても、東雲の言は軽々しく、まるで芯がない。

 されど、ことにはわかった。

 東雲という男の本質は、炎である。時が来れば、あたりを焼き尽くす炎である。

 ことは、少しわらった。何やら、おかしくなってきたのだった。

 蝉丸と夢の中を生きていた月日がひどく遠く、懐かしいもののように思えた。あの日々はすでに過去だ。惜しい、とどこかで思う自分がいたが、反して胸のうちは澄み渡っていた。雨上がりにも似た静けさである。


『おまえの箏なら、つかめる』


 蝉丸の声がした。

 糸は張りつめている。

 その一糸を押した。てん、とん、と待ちわびていたかのように箏が囀った。




 東雲は、ことに屋敷を与えた。

 それに身の周りの世話をする侍女をひとり。えんである。

 与えたきり東雲はおとないをやめたが、一年ほど経ったのち、またふらりとやってきた。聞けば、侍従の少年と南のほうを旅していたのだという。

 ご冗談を、とえんは笑ったが、東雲の衣からは都とは異なる潮の香りがした。

 夜、えんを下がらせると、東雲はことの袖を引いた。

 その晩も、雨が降っていた。東雲は雨男なのではないかと、ことは思う。二度目に嗅いだ男の膚からは、やはり汗と雨のにおいがした。


「南で雨に降られたとき、ふいとことの音を思い出したのだ」


 花絵の描かれた蝋燭をひとつ灯して、ことは箏を鳴らしている。そうしていると、まどろんでいると思った東雲がもぞりと身じろぎをして嘯いた。ことは袖を口元へやって、わらった。


「何故わらうか。嘘など言うておらんぞ」

「左様でしたか」

「うむ。急に思い出してな。そうしたら、ことに会いたくなった」


 一年も捨て置いた挙句、急に現れたと思えば、そのように真顔でのたまう。

 左様ですか、と首を傾げ、ことはひとつ音を鳴らす。その音も、雨音に吸い込まれていく。


「なあ、こと」


 うつ伏した東雲が呟いた。


「なんという曲なのじゃ、それは」


 てん、てん、と糸を弾くだけで、ことは答えなかった。

 忌々しい女よ、と東雲は悪態をついた。



 藍の甍を叩く雨垂れに交じって、間延びしたいびきがしている。

 それでもしばらくかき鳴らしていたが、蝋燭が短くなってきたため、ことは手を置いた。枕箱に頬をもたせて、東雲は眠っている。衣擦れをさせないよう気を払ってかがみ、その背に打掛をかけた。東雲が散らかした譜を片付けようと離れかけ、思い直して、男の頬へそっと額を触れさせる。眠る男の膚はぬくい。額、鼻梁、頬を順々に擦って、最後に唇に触れてみた。


(とん、てん、とん、てん、)


 二度である。


(てん、てん、てん、とん、かぁらりん、)


 東雲のおとないはただの二度きりである。

 それなのに、もうこれきりであればよいのに、と思う。

 次のおとないまではきっと長い。長い、と感じてしまう予感があった。


(てん、てん、てん、とん、)


 蝉丸の夢の隣で生きていたとき、ことは幸福な籠の鳥だった。音と譜だけでかたちづくられたうつくしい籠。それを東雲は焼き払った。まさしく炎である。ことは、炎に魅せられた愚かな鳥である。いつか、芯まで焼かれて地に落ちる。


(かぁらりん、さぁらりん、)


 それでも、胸に心地よい風が吹いているのは何故だろう。


 *


「近頃、獣が訪ねてくるそうではないか」


 しばらくぶりにおとなった東雲は、北の土産を持ってきた。

 訊けば、南海地方へ回ろうとしていたところ、娘の裳着のために一度西都へ戻ることにしたのだという。はなが裳着などさみしゅうてたまらん、とふてくされる東雲を、ことは苦笑交じりに見つめた。

 西都に戻ると、東雲は決まってことのもとへと顔を出す。おとないは途中で数えるのをやめたので、幾度めになるのかわからぬ。


「そなたの箏を聞けば、獣とて爪を畳んで居眠りを始めるんじゃないか」

「さあ、そうも互いにゆきませぬ」


 東雲が土産だと言って持ってきた菓子にあわせて茶を点てる。先ほどまでは青天であったのに、しばらくするとむくむくと紫の雲が膨らみ、夕立が降り始めた。やはりそういう男なのだ、とおかしくなる。

 茶を出すより前に菓子を摘まんでいた東雲は、「えんが鳥を買ったと言っていた」と縁に置かれた竹ひごを見つけて言った。止まり木の上で、かなりあは毛づくろいをしている。


「囀るのか」

「いいえ。雌の子ですので」


 かなりあの雌はときどき低く啼くだけで、雄のようには囀らぬ。美しい歌声を持つのは雄のほうで、鳥売りがぶら下げた鳥籠に雌の子だけが残っていたのもこのようなわけだった。雌鳥は交配のためにしか使われぬ。


「そなた、雄も飼っておらんだろ。何故雌だけなのだ」

「わたしも囀れませぬ」


 箏柱を寄せながら、ことは言った。


「似ている、と思いましたので」

「……相変わらず妙なことを言う女じゃ」


 東雲は竹ひごからかなりあを出した。首のあたりをくすぐると、目を細めて甘噛みする。幸福そうだった。


「おまえにも箏をやるか。うん? ことはそれはうまく弾くぞ。たったひと弾きでこの俺を捕まえおった。西方いっとうの箏弾き姫ぞ」


 おたわむれを、とことは微笑んだ。



 *



 ことが即位した東雲皇子、のちの光明帝の正妃として立つのは、この十数年後の話である。狂喜したであろう人形師蝉丸は、しかしその数年前に人知れず世を去っている。酔いどれて橋から足を滑らせた末の頓死だった。

 東雲が召し上げたこの箏弾き姫の名は、蝉丸が夢見たとおり後世までひとびとに語り継がれた。

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