1.「夜、森の中で」
亜人と人の凄惨極まる戦争が終わってから、二十年余り。
それでもなお人は、まだ戦っていた。敵は、魔物と呼ばれるもの。人智を超えた怪物たち。 幾多の犠牲を払いながらも、一進一退の攻防を互いに繰り広げていた。
やがて『大災禍』が発生し、人類は一転して劣勢に追い込まれた。だが、戦火の最中にあって、英雄たちはその産声をあげた。彼らの奮戦もあって、人類はつかの間の勝利と、生存領域として大陸の半分の確保に成功する。
時は移ろい六年後。舞台は魔物との戦い、その前哨にある都市アザレア。そこに住む人々は薄氷の平和の上で笑い、しかし実にたくましく生きていた。
───しかし、闇の手はすぐそこまで迫っていた。
蠢く闇の中。まだ黎明のきざはしすら見えない中。それでも松明をかかげ、暗闇へと立ち向かうものたちがいた。
人は彼らを、こう呼んだ。
『冒険者』と。
*
ヘンリーは薄暮の中、野営の準備をしていた。陽はすでに地平線に没しかけ、森の中にはなんとも言えない静寂が張り詰めている。
慣れない手つきで枯れ枝を集め、火を起こす準備を整える。本来であれば今日中に《アザレア》には戻れるはずであったが、目的のはぐれ
今から街道に戻ろうとすれば、夜の森を強行軍しなくてはいけない。そうなれば魔物だけではなく、狼や熊などの獣の類とも一戦を交える可能性がある。
それを鑑みるに、少しキツイかもしれないが、火を焚いて不寝番をする方が賢明だと、そう判断した。
だが、一つ誤算があるとすれば、だ。如何せんヘンリーに野営は荷が勝ちすぎていると言わざるをえないことだ。先ほどは間違えて生木を燃やして、あやうく窒息しかけるという有様だった。
一事が万事こんな調子だったので、遅々として準備は進まない。
拙い手つきで火打石を扱い、ようやっと集めた枯れ木の枝に火をつけることに成功する。
全てが終わるころには日輪はとっくに見えなくなっていて、黄昏の余韻すらも空に残ってはいない。代わりに、茫漠とした空には青い月がぽつねんと一つ、浮かんでいた。
ようやっと一息がつける。作業の熱で浮いた汗で張り付いた、自分の金髪を手の甲で乱雑に拭い、炎に薪をくべていく。
ここまでくれば、大丈夫だろう。
木の根にどっかり腰を下ろし、
鬱蒼と立ち並ぶ、背の高い木々に炎の赤が移ろっていく。パチリパチリと火の粉が弾ける度、ヘンリーの影が歪む。疲れもあって、それをただ無感情に見続ける時間が、しばし続いた。
そうして幾ばくか。
ゆらゆらと立ち上る煙に沿って空を見上げると、背の高い木々の隙間から、満天の星が煌々と輝いているのが見てとれる。
それらは全てが例外なく、
故郷では青の
感慨にふけりながら、炎と空を交互に見やる。今回の獲物は《はぐれ》が三匹。楽な依頼のはずだった。
実際、ゴブリン自体は楽に倒せた。しかし、帰りの道中に完全に道を見失ってしまった。
植生に乏しいここらには目印となるものがない。ましてや流れ者であるヘンリーには、見渡せど同じようなブナの木が乱立している森を抜けるのは困難そのものだった。
結果として、
そんなことを考えていると、
──ぱきり、と。何かが枝を踏み砕いた音が聞こえてきた。
惚けていた意識が、冷水をかけられたように急速に引き戻される。
腰に下げていた剣に手を置き、いつでも抜剣できるように構えておく。
油断なく目を光らせ、木々の隙間からこちらを伺うものはいないか確認する。だが、いかんせん月明かりと焚き火だけでは、森の深くを人の目で確認するのは不可能だ。
張り詰めた緊張ががどれほど続いただろうか。時間にしてみれば、ほんの数分かもしれない。しかし、孤独な青の月明かりが照らしこむ森の中、ヘンリーにはそれが永遠にも感じられた。
ふと、真っ直ぐに伸びたブナの木から、怪物の牙を連想してしまった。胸にある一抹の不気味さと、今の自分の状況を照らし合わせてしまう。自分は今、なにか得体の知れない怪物の懐の中にいるのではないか。
突飛ではあったが、一度そう思ってしまうと、恐怖が徐々に足元から身体を包み込まんとしてくる。
「───誰だっ!!」
もちろん、返事はなかった。
粘り着くような、森の臭気の中。動物の糞や朽葉によって構成された臭い。新品の剣や胸当てを構え、火を焚いているヘンリーの存在は浮きだっていると言っていい。野生動物も、魔物も、近くにいれば容易にヘンリーを見つけてしまうだろう。
だが、ここは街道のすぐ近くにある森なのだ。人間の生存領域に、魔物はおいそれと踏み入らない。どこかで聞き
不意に、茂みが揺れた。
小柄なそれは飛び出すやいなや、一瞬でヘンリーの足元を過ぎて行き、森の奥へと消えてしまう。
おおかた、
力を抜き、息を吐き出す。
なんともくだらない。自分は何を恐れていたのか。初依頼ということで肩肘を張りすぎていたのかもしれやい。
そう安堵して、木の根に再度腰を下ろそうとした。
───そして、それと目があった。
緑の肌に、曲がった
ああ、見間違うはずもない。
その醜悪な外見。
───ゴブリンだ。
ゴブリンはヘンリーを見つけると、にいっと笑った。口角を吊り上げ、醜い顔をさらに歪める。
ともすれば、悪戯をしようという子供の顔にも見えなくない。だが、こいつらにとっての遊びとは、人間狩りにほかならない。
「───ギッ───イィィッ!」
ゴブリンは天を仰ぎ、耳を割くように絶叫した。そして、宝物を見つけた子供のように何回もその場で飛び跳ねた。その度に緑の面貌に醜い笑みを浮かべる。
一種異様な光景に、ヘンリーは身震いした。とはいえ、目の前にはゴブリン一匹。すぐさまにでもかかるのが正着手だった。
しかし、曲がりなりにも貴族であったヘンリーにとって、魔物を襲うことはあっても、
その逡巡と戸惑いが、致命的な隙になった。
ようやっと呆けていた心が、自らの掌に収まっている剣に向いたとき。事態はすでに手遅れな方向へと向かい始めていた。
暗がりの中、視界の端で何かが煌めいた。
次いで、大腿部に激痛。何かを
それが何かは直ぐに分かった。
「っ、ああっ!」
耐え難い異物感と痛み。
それは挙動と対応を遅らせる。
痛みに喘いでいるヘンリーなど気にもとめぬと、目の前にいたゴブリンが襲いかかってくる。
手には刃渡り三十センチほどの剣鉈。ろくな手入れが施されていないのか錆びていて、切れ味もよろしくはなさそうだ。
それは敵の一撃では死なない、或いはそうそうには死ねないということを意味していた。
それだけは御免だ。
そこまで考えて、思考を放棄する。これ以上は無駄だといわんばかりに。
剣術を習って十年近く。その訓練の賜物は未だに活きている。考えるより、身体は先に動いた。
多少の手傷を負いはしたものの、それでもゴブリン程度に負けるほどの鍛え方はしていないという自負があった。
振り下ろされた刃をすかさず受け太刀。多少はふらついたものの、
流した勢いそのままに、返す刃で斬りつけるが───浅い。痛みのせいか踏み込みきれなかった。かといえ、手を緩めるわけにもいかない。
苛烈に、果敢に攻めたてる。一撃で殺そうなどとは考えてはいない。相手に反撃の余地など与えずに、このまま削いで殺す。剣筋はいつもより鈍いが、この程度の相手であれば十分だ。
じりじりと追い詰め、そのまま
そのまま相手の剣を絡め取って、天高く飛ばす。
丸腰になった相手の首に、そのまま剣を捻りこんだ。硬い、骨の感触が剣先から伝わる。
もちろん相手も足掻いた。短い腕で剣をつかんで、口膣から血混じりの涎を吐きながらも必死に抵抗する。しかし、この状況では圧倒的にこちらが有利だ。
ぐいぐいと押し込めば、ガリガリと骨に当たる感触が手に響く。次第に抵抗は弱まっていく。
最後に掠れるような声を絞り出したかと思うと、ゴブリンの手がだらんと垂れた。
やっと死んだ。死んでくれた。
だが、一息つく間などない。
少なくとも一匹、或いはそれ以上の敵がまだ潜伏しているのは明白だ。そしてその相手は、飛び道具を持っている。
すかさず剣を死体から引き抜く。そのまま足蹴にして遠くへ飛ばし、足元が空いた木の幹へ背中をつけた。
荒ぐ息を必死に抑える。
歯を食いしばり、矢を無理やりに引き抜く。叫ぶような無様な真似はしなかったものの、正直なところは泣き出したいほどに痛かった。
そろりと、敵の場所だけでも確認しようと木々の間から矢の飛んできた方向を覗いた。
───目の前に広がっていたのは、絶望だった。
木々の隙間からこちらを覗く双眸。それは十や二十では効かない、波濤のごとき魔物の群れ。無数の瞳が月明かりを反射して、金色に煌めいた。
絶望が、今か今かと大口を開け、こちらを待ち構えていた。
その中に一匹、他のゴブリンよりも一際大きく、華美な剣と鎧を身に纏った個体の姿があった。それは群れの先頭に立ち、剣を虚空へと向け、叫んだ。
『───ニガスナ。ワレラノ、
群れの
その声に呼応するように、無数の剣が天に掲げられる。それらは、月光を浴びて鈍色に煌めいた。
そして一匹、また一匹と、続いて雄たけびを上げていく。
ああ、これはもう。
矢傷で痛む足の中、逃げおおせるのも、あの群れを突破するのも不可能だ。
死ぬ。
自分は死ぬのだ。
今、今死ぬ。
とてもではないが、そのことに対して現実感など湧きそうになかった。
ヘンリーが冒険者になってから二日目。その初依頼で、ゴブリンに、呆気なく。
剣を握る手が、どうしようもなく震えた。慌ててもう一方で押さえつけようとするも、治る気配などない。
ついには剣を取り落としてしまう。
自然と早くなっていく呼吸を自覚しながら、かがんでそれを拾おうとする。
「ユケ!」
そう叫ぶ声が聞こえた。
その声に充てられて、敵がわらわらと矢も盾もたまらずといったように殺到してくる。各々が獲物を構えて酷薄な笑みを浮かべ、こちらへ。
錆びた鉈が、ぎらつく瞳が。さあ解体してやるぞと謳う。
そんな、こんなところで。
こんな、情けない───
「いやっ、いやだ。私は───」
これから起こる惨劇を、痛みを予想して、思わず目を瞑り、叫ぶ。
いつ、いつだ? この身が剣で刻まれるのは。矢が打ち込まれるのは。
果たして。
しかし、覚悟していたような痛みも、衝撃も、いつまで経っても訪れない。
代わりに、水の入った皮袋を押し潰したような、びちゃりという音が響いた。
何の音かはわからなかった。もちろん、何が起こっているのかも。しかし、その音が鳴ったのを皮切りに、また空気が変わったことを理解した。
ゴブリンの吠える音が、少し遠ざかっていく。その声に含まれているのは喜悦などではなく、もっと原始的な───敵に対する威嚇に近いものをヘンリーは感じた。
震える身体を懸命に起こし、事態を把握しようと目を開いた。
押し開いた視界の先。
夜闇と静謐に包まれた森の中に光る、無数の魔物たちの瞳と、うずくまるヘンリーの間に。
その暗がりの中、青い月明かりに照らされて、
それを見て、ヘンリーは伝え聞く
まず、そいつは大きい。体長は二メートル近く。だが、それ以上に巨大な、まるで威容とも言うべきものを放っている。
こちらを庇うようにゴブリンに対峙している点からも鑑みるに、味方であり、人間であるのは間違いなさそうだ。
だが、素直に助かったとは思えなかった。
あの数を相手に、果たしてこいつが勝てるのか、などという疑問からではない。もっと根本的な掛け違えをしているような感覚。喉元に、ナイフを突きつけられているような。
そんな得体の知れない悪寒が、背筋で蠢く。
そもそも目の前に立っているのは、本当に人間なのか。ゴブリンなんかよりも、目の前の存在の方がよほど恐ろしい。何故か理由もわからないが、『バケモノ』という言葉が脳裏をよぎった。
そいつの顔は紫黒の三度笠で覆われていて、こちらからはうかがい知ることが出来ない。なぜか身体には笠と同色の法衣のようなものを纏っており、その上に鎧を身につけている。
炎がそいつの影を伸ばし、風を受けてたなびく外套が映し出されたその姿は、何か得体の知れない怪物を想起させた。
もちろん、そんなことを考えてしまうのには理由があった。
ソイツの両腕に嵌められている山付き形の手甲。それが赤黒く汚れ、粘つくような澪を引き、ぴちゃりと粘性の雫を垂らしているのだ。
恐らくは、ゴブリンの血。
足元に転がっている、原型も留めぬ程に潰された肉塊。わずかに見えた緑の皮膚が、先ほどまでヘンリーを恐怖させていたはずのゴブリンのものであると、静かに物語っていた。
「ギィィィッ!」仲間を目の前で殺されたことに怒ったのだろうか。群れの一匹が矢も盾もたまらずと行った様相で、単独で飛び出した。刃を逆手に構え、仇を討つために飛びかかる。
その結果は無残なものだった。逃げ場のない中空に躍り出た身体を、容赦なく掴まれる。
背骨が砕かれ、飛び出した白い肋骨や背骨が赤黒い肉や臓器と混ざり合い、グロテスクな色彩を描いた。絹を裂くようなゴブリンの断末魔が森に響く。
それに思わず耳を塞いでしまう。
だのに目は閉じなかった。いや、閉じれなかった。
これから起こる暴力に、ヘンリーはただ魅入られたのだ。
悠々と、それこそ街中ですれ違った友人へ挨拶するように、群れの方へとそいつは歩み寄った。ヘンリーも、ゴブリンですらも反応できずに呆然と立ち尽くしている。
ある程度寄ると、そいつは近くにいた手頃な小鬼の頭を大きな掌でむんずと掴む。まさかとは思ったが、そのまま腐った果実のように、あっさりと頭を身につけていた兜ごと握り潰した。今度は、悲鳴をあげる暇すらなく死んだ。
『ナニヲシテル! コロセッ! ソイツ───」
激昂してそう叫んだ群れのリーダーは、二の句を告げることすら許されなかった。腕が振り上げられたかと思うと、手甲に覆われた拳が一瞬で股下までを通り過ぎた。
踏み潰されたヒキガエルのような醜い遺骸が残った。
統率を失った群れは、抑えがきかなくなっていく。逃げ出そうとするもの、襲いかかる者。連携なんてあったものではない。
これでは只の烏合の衆だ。
そして、その
吠え、立ち向かう者。彼らは勇敢だった。だが、それはどうしようもないほどの蛮勇でもあった。
奴が拳を振り上げる。鮮血と臓物が舞う。振るった拳はいともたやすく、ゴブリンの肉を潰し、骨を砕いた。残ったのは勇猛だった
ゴブリンが逃げようと背を向けた。同胞も、何もかもを見捨てて逃げた。だが、それも賢明とは言い難かった。
奴は向かってきた相手の首根っこを掴んで
地を揺らすかのような轟音。跡には2匹分の、醜く潰れた肉塊。
目の前で繰り広げられた光景は、まさしく蹂躙そのものだった。
やつが腕を一薙ぎする度、死体が増える。
砕き、潰し、捻る。その一挙一動は緩慢かつ遅々としたものであったが、全てが致命的なまでに重い。それが直撃した瞬間、冗談みたいにゴブリンの四肢がはじけ飛び、身体が四散する。
逃げる者を追い立て殺し、立ち向かう者は容赦なく捻りつぶす。───まるで戦車だ。
見るもおぞましい
気がつけば、もう動くものはなくなっていた。辺りには、むせかえるような血の匂い。
死体はその全てが、原型を留めていない。これほどの凄絶極まる光景を、ヘンリーはかつて見たことがなかった。
そしてそれを為した悪鬼は、人形のように静止した状態で、ヘンリーを見ていた。無論、顔は笠で覆われているため、その双眸や容姿は伺えない。
ただ、わかるのだ。
じいっ、と。ヘンリーを見据え続けていることが。
月明かりが差し込む森の中に、またひと時のしじまが訪れた。その静けさは刃のような鋭さと、無機質な冷たさを纏っていた。
叫び出したい、逃げ出したいという感情を意志の力で押さえつける。かといって、友好的に握手をし、肩を抱き合うなんてことはできない。できるわけがない。
どうしようもない。相手の行動を待つしかないのだ。
お互いに立ち往生し、にらみ合う状態がしばし続いた。結局、先に動いたのはヘンリーだった。いや、動かざるを得なかったと言うべきか。
ふらり、と。身体が傾いた。足に力が入らない。どうやら、血を流しすぎていたらしい。
意識が遠のいていくのが分かる。
薄れ行く思考の中、最後に見たのはこちらに向かって悠然と歩いてくる悪魔の姿だった。
「───どうすれば、いいんだ。これ」
最後に、そんな間の抜けた声を聞いた気がした。
*
その夜を、その出会いを境に、運命の車輪はたしかに動き出した。
からからと、ゆっくりと。しかし、確実に。
もう、止められない。止まらない。
たとえ向かう先が、血塗れの未来だったとしても。動き出した
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