鉄輪のタルパ
@pechi344
第一章 鉄輪の王
プロローグ
少年は、戦火の中にいた。
あちこちでぼうぼうと火が燃え盛り、家や草はら、畜舎を燃やしていく。呼吸をするたびに、喉を焼けるような熱さが襲う。
時刻は夜半だというのに、まるで昼間のように明るく夜空を炎が照らしていた。
あちこちで大人たちの、悲鳴混じりの怒号が聞こえてくる。
『くそ! 正規軍は何をしてるんだ!?』『とっくにやられたよ』『嫌よ、死にたくない……』
少年にとっては、その全てがどうでもよかった。
少年は生まれてこの方、自由とは無縁に生きてきた。母は奴隷身分であり、当然その腹から産まれた彼も奴隷だった。
ものごころついたころから、少年の首には鉄枷が嵌められていた。犬や畜生同然の暮らしをしてきた彼は、いつしか全てを諦めるようになった。
最初は鞭に打たれて泣くこともあった。冷たい床の上で眠れぬ夜が何度も続いた。だが、人とは得てして慣れるいきものである。諦めてしまえば、全てが楽だ。それに気づくのに、さほどの時間はかからなかった。
母は流行病を
しかし、涙は出なかった。
どれだけ叩こうと、あまつさえ母の死にも涙を流さない少年を、商人たちは不気味がった。安く売り飛ばされ、売られた先の顧客にも愛想が悪いと戻され、また別の商人に買い叩かれる。そんな日々が、ずっと続いた。
いま、この状況に至ってもそうだ。
少年は諦観してしまっている。自分の命も、尊厳も、自由も、他者の命すらも。
ずっと、首にはめられた枷と鎖と共に生きてきた。
しかし、今はそれをたぐるものなどいないし、少年は真に自由を得たのかもしれない。とはいえ、まな板の上に放り込まれた具材の自由に如何程の価値があるのか。
少年は戦奴としてここに連れてこられたが、ついぞいくさ場に立つことはなかった。
少年を飼っていた奴隷商人はとっくに馬車を走らせ、彼方へと消えた。死んだだろうか、生きているだろうか。考えるだけ無駄か。
どちらにせよ敵はもう、すぐそこまで迫っていた。
ほら、向こうを見れば。
夜闇に紛れて、蠢く影たち。
大地を揺るがすような巨人に、羽の生えた悪魔。豚の面相を持つものや、緑の肌の醜い小人。
それらが一つの
邪悪なる軍勢。或いは魔物とも呼ばれる奴らは、目の前に立ちはだかる障害物その全てを一切の例外なく平らげ、ここまでやって来た。
皆が悲鳴をあげ、逃げ惑う。
嫌だ、と。死にたくない、と。
無駄だというのに。どうせみんな死ぬのに、なんで抵抗をするのだろう。馬鹿らしい。
ほら、隣にいた奴隷が矢で射られたぞ。
こちらでは珍しい、鮮やかな金髪が特徴だった彼は、新参者である少年に良くしてくれた。ひたすらに俯き、黙ったままだった少年に根気よく話しかけてくれた。
ほら、いの一番に逃げ出した奴隷は狼の形をした魔物に頭を
まったくもって喋らない少年を、仲間と共に虐めていた黒褐色の肌を持った彼は
ほら、また死んだぞ。
『いやぁぁぁ! 死にたくない! 死にたくない!』
ほら、ほら、ほら。
『くそ! ふざけんな! こっち来んなよ、来んな!』
知った顔も、知らない顔も、皆一様に死んでいく。
男も。女も。子供も。青年も。妊婦も。老人も。奴隷も。傭兵も。軍人も。
みな臓物を撒き散らし、自分の血に浸かりながら死んでいく。
むせかえるような死の匂いと、悲鳴。
炎が死体を包み、炭へと変えていく。
ああ、人が燃える匂いとは、なぜ。
なぜ、こんなにも鼻につくのだろう。
怒りも、悲しみも、怖れも、何も。
何も、湧いてはこない。
生と死が撹拌され、混じり合う。
大地は血と死体で埋め尽くされている。これには死神も、蒐集すべき魂の多さにてんてこ舞いだろう。
───まさにここは、地獄だった。
不意に、肩口が熱を持った。そして、それはすぐに耐え難い異物感と激痛に変わる。
ゆっくりと自分の身体を見ると、肩から矢が生えていた。
どうやら背中から射られたらしい。
次いで、腹にも熱さを感じる。
顔を戻すと目の前には、嬉しそうに顔を歪ませるゴブリンの顔。腹に剣を突き立て、獲物を討ち取ったと、高らかに吠えあげる。
ゆっくりと、世界が
取り止めようもなく溢れ出ていく血。身体から命がこぼれていく。霞む視界の中、自分のはらわたが引きずりだされたのが見えた。
やっと、やっとだ。やっとこのくびきから、地獄から、解放される。
頰が熱い。炎が身体を舐めていくのがわかる。しかし不思議と、冷えていく身体にはそれが心地よい。
ゆっくりと重たくなるまぶた。
最後に視界に捉えたのは、無数に蠢く魔物の群れ。各々が武器を、爪を、牙を、血に染めている。
やがて瞳は、完全に閉じた。
死ぬ。もう、死ねる。
痛みが遠ざかり、次第に熱も感じなくなり始めたころ。
不意に、耳元で何かが
『───御使いよ。未だ目覚めざるものよ。時は来たれり、星辰はここに満ちたり。いざ、いざや目覚めよ。───まだお前が、人であるそのうちに』
不思議な声だった。老若男女、その全てが入り混じり、煩雑としたような声。
その後のことは、よく覚えていなかった。
死んだと思ったはずの少年は、どこかの昏い神殿で目を覚ました。
目の前には見たことのない、異国の装いをした女がまなじりに涙をためながら、こちらを覗き込んでいた。
彼女は少年が目を覚ますと、嗚咽混じりではあるものの笑顔を見せ、笑いかけてくる。
そして、意味のわからない異国の言葉を何度も投げかけてくる。多分、よかったとか、嬉しい、とかそういう意味だったのだろう。
なぜ彼女は、泣きながら笑っていたのか。
この時の少年には、その理由を理解できるはずもない。
少年は、地獄の中にいた。多くの同胞がその骸を奈落に晒していった中で、少年だけが生き残った。少年しか、生き残れなかった。でも、彼女はそれを喜んだ。
少年はいつか、無数の英雄たちと邂逅する。
大地を鳴動させ、山河を打ち砕く力を持つ『賢者』。
幾千幾万の敵を屠り、屍山血河を築きし『剣聖』。
だが、少年が憧れる英雄は、常に一人。
あの地獄から、炎の中から、救いあげてくれた彼女だけ。
記録にも残らない、この出会いが。
語られることのない、この物語が。
運命が始まった、その最初の
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