鉄輪のタルパ

@pechi344

第一章 鉄輪の王

プロローグ


 聖暦アンノ・エルサル271年。


 少年は、戦火の中にいた。

 あちこちでぼうぼうと火が燃え盛り、家や草はら、畜舎を燃やしていく。呼吸をするたびに、喉を焼けるような熱さが襲う。

 時刻は夜半だというのに、まるで昼間のように明るく夜空を炎が照らしていた。


 あちこちで大人たちの、悲鳴混じりの怒号が聞こえてくる。

『くそ! 正規軍は何をしてるんだ!?』『とっくにやられたよ』『嫌よ、死にたくない……』


 少年にとっては、その全てがどうでもよかった。

 少年は生まれてこの方、自由とは無縁に生きてきた。母は奴隷身分であり、当然その腹から産まれた彼も奴隷だった。


 ものごころついたころから、少年の首には鉄枷が嵌められていた。犬や畜生同然の暮らしをしてきた彼は、いつしか全てを諦めるようになった。

 最初は鞭に打たれて泣くこともあった。冷たい床の上で眠れぬ夜が何度も続いた。だが、人とは得てして慣れるいきものである。諦めてしまえば、全てが楽だ。それに気づくのに、さほどの時間はかからなかった。


 母は流行病をわずらって死別した。

 しかし、涙は出なかった。


 どれだけ叩こうと、あまつさえ母の死にも涙を流さない少年を、商人たちは不気味がった。安く売り飛ばされ、売られた先の顧客にも愛想が悪いと戻され、また別の商人に買い叩かれる。そんな日々が、ずっと続いた。


 いま、この状況に至ってもそうだ。

 少年は諦観してしまっている。自分の命も、尊厳も、自由も、他者の命すらも。


 ずっと、首にはめられた枷と鎖と共に生きてきた。

 しかし、今はそれをたぐるものなどいないし、少年は真に自由を得たのかもしれない。とはいえ、まな板の上に放り込まれた具材の自由に如何程の価値があるのか。

 少年は戦奴としてここに連れてこられたが、ついぞいくさ場に立つことはなかった。

 少年を飼っていた奴隷商人はとっくに馬車を走らせ、彼方へと消えた。死んだだろうか、生きているだろうか。考えるだけ無駄か。


 どちらにせよ敵はもう、すぐそこまで迫っていた。


 ほら、向こうを見れば。

 夜闇に紛れて、蠢く影たち。

 大地を揺るがすような巨人に、羽の生えた悪魔。豚の面相を持つものや、緑の肌の醜い小人。

 それらが一つの波濤はとうの如きうねりとなって、地平の果てまでを覆い打ち寄せる。

 邪悪なる軍勢。或いは魔物とも呼ばれる奴らは、目の前に立ちはだかる障害物その全てを一切の例外なく平らげ、ここまでやって来た。趨勢すうせいは、誰の目にも明らかだった。


 皆が悲鳴をあげ、逃げ惑う。

 嫌だ、と。死にたくない、と。

 無駄だというのに。どうせみんな死ぬのに、なんで抵抗をするのだろう。馬鹿らしい。


 ほら、隣にいた奴隷が矢で射られたぞ。

 こちらでは珍しい、鮮やかな金髪が特徴だった彼は、新参者である少年に良くしてくれた。ひたすらに俯き、黙ったままだった少年に根気よく話しかけてくれた。


 ほら、いの一番に逃げ出した奴隷は狼の形をした魔物に頭をかじられた。

 まったくもって喋らない少年を、仲間と共に虐めていた黒褐色の肌を持った彼は脳漿のうしょうを飛び散らせながら、間抜けな死に顔を晒していた。


 ほら、また死んだぞ。

『いやぁぁぁ! 死にたくない! 死にたくない!』

 ほら、ほら、ほら。

『くそ! ふざけんな! こっち来んなよ、来んな!』

 知った顔も、知らない顔も、皆一様に死んでいく。

 男も。女も。子供も。青年も。妊婦も。老人も。奴隷も。傭兵も。軍人も。

 みな臓物を撒き散らし、自分の血に浸かりながら死んでいく。

 むせかえるような死の匂いと、悲鳴。

 炎が死体を包み、炭へと変えていく。

 ああ、人が燃える匂いとは、なぜ。

 なぜ、こんなにも鼻につくのだろう。

 怒りも、悲しみも、怖れも、何も。

 何も、湧いてはこない。


 生と死が撹拌され、混じり合う。

 大地は血と死体で埋め尽くされている。これには死神も、蒐集すべき魂の多さにてんてこ舞いだろう。


 ───まさにここは、地獄だった。


 不意に、肩口が熱を持った。そして、それはすぐに耐え難い異物感と激痛に変わる。

 ゆっくりと自分の身体を見ると、肩から矢が生えていた。

 どうやら背中から射られたらしい。

 次いで、腹にも熱さを感じる。

 顔を戻すと目の前には、嬉しそうに顔を歪ませるゴブリンの顔。腹に剣を突き立て、獲物を討ち取ったと、高らかに吠えあげる。


 ゆっくりと、世界がかしいでいく。

 取り止めようもなく溢れ出ていく血。身体から命がこぼれていく。霞む視界の中、自分のはらわたが引きずりだされたのが見えた。

 やっと、やっとだ。やっとこのくびきから、地獄から、解放される。

 頰が熱い。炎が身体を舐めていくのがわかる。しかし不思議と、冷えていく身体にはそれが心地よい。

 ゆっくりと重たくなるまぶた。

 最後に視界に捉えたのは、無数に蠢く魔物の群れ。各々が武器を、爪を、牙を、血に染めている。


 やがて瞳は、完全に閉じた。

 死ぬ。もう、死ねる。

 痛みが遠ざかり、次第に熱も感じなくなり始めたころ。


 不意に、耳元で何かがささやいた。


『───御使いよ。未だ目覚めざるものよ。時は来たれり、星辰はここに満ちたり。いざ、いざや目覚めよ。───まだお前が、人であるそのうちに』


 不思議な声だった。老若男女、その全てが入り混じり、煩雑としたような声。


 その後のことは、よく覚えていなかった。


 死んだと思ったはずの少年は、どこかの昏い神殿で目を覚ました。

 目の前には見たことのない、異国の装いをした女がまなじりに涙をためながら、こちらを覗き込んでいた。

 彼女は少年が目を覚ますと、嗚咽混じりではあるものの笑顔を見せ、笑いかけてくる。

 そして、意味のわからない異国の言葉を何度も投げかけてくる。多分、よかったとか、嬉しい、とかそういう意味だったのだろう。


 なぜ彼女は、泣きながら笑っていたのか。

 この時の少年には、その理由を理解できるはずもない。


 少年は、地獄の中にいた。多くの同胞がその骸を奈落に晒していった中で、少年だけが生き残った。少年しか、生き残れなかった。でも、彼女はそれを喜んだ。


 少年はいつか、無数の英雄たちと邂逅する。

 大地を鳴動させ、山河を打ち砕く力を持つ『賢者』。

 幾千幾万の敵を屠り、屍山血河を築きし『剣聖』。

 あまねく人々を束ね、いかなる敵を前にしても決して剣を離さない『勇者』。

 だが、少年が憧れる英雄は、常に一人。

 あの地獄から、炎の中から、救いあげてくれた彼女だけ。


 記録にも残らない、この出会いが。

 語られることのない、この物語が。

 運命が始まった、その最初のわだち

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