8.「怪物」
はじめは、ただの大きな岩かと思っていた。
だが、それは明らかに拍動を打っている。つまりは、生きている。
岩石質の皮膚から伸びる、円環状に連なった蚯蚓のような無数の触腕。そしてそれらは、一つの巨大な丸い本体へと繋がっていく。
今まで、血が原因だと思っていた酷い臭いも、今となってはこいつが原因だとわかる。まるで腐乱した卵のような───少なくともこれまでの人生で、最悪だとまで言い切れるレベルのものだ。
こいつは一体、何だ。
魔物と呼ぶことすら憚られるようなそれは。
───それは異形で、異常だった。それこそ英雄譚に出てくるような神代の怪物そのものだ。
どくん、どくんと。心の臓が全身に血液を運ぶ音がする。その脈動が、こいつをおとぎ話の存在などではく、現実にいるということを知らしめている。
ヘンリーはこれに見入ってしまい、動かない。
いや、動けない。
こんな怪物が現実にいるなんて。もしこいつが起きて、動き出せば。ヘンリーなんて触腕の一振りで叩き潰されるだろう。
「やっぱり、か」
タルパがそう小さく呟いたのが、微かに聞こえた。
そしてタルパは、これを見ても落ち着き払った雰囲気だった。
やっぱり、何かを知っているのだ。
「それ、はどういう───」
「今、話してる、時間は、ない。こいつが、いるなら、どこかに、いるはず。助けに、来たんだろ?」
そう言われれば、黙るしかない。
しかし、タルパも、ルバートも、これのことを知っていたのは間違いない。あくまで憶測でしかないが、全ての“謎”はこいつに繋がっている。そんな気がした。
ドーナツのように円形状にくり抜かれた地下の広間を、壁伝いにゆっくりと周る。
用心して歩いているものの、やつが動き出す気配は今のところなかった。
さらに進んで、あれと対面した丁度真後ろ。
そこにさらに奥へと続く穴があった。
「うん? これは?」
慎重に覗き込む。
微かだが、何者かの息遣いを感じる。
ゴブリンのものではない。今にも消え入りそうなこれは───
「タルパ。こっちに、誰かいる」
「わかっ、た」
中は怪物の鎮座していた広間ほどではないが、そこそこの広さがあった。そして、
───煙?
ぷうんと、甘い香りが鼻腔に届く。
辺りは薄く紫がかっており、霞のごとく煙が立ち込めている。
その発生源は、部屋の中心部に置かれた香炉によるもの───まずまちがいない、毒だ。
慌ててポーチから布を取り出し、口にあてがう。
霞漂う中、注意して人がいないか探す。
松明に照らされた、タルパとヘンリーを除く四つの影。その一つはともかく、他の三人は見知った顔だった。
ジェイド、ベアトリーチェ、アレッサンドロ。
彼らは、静かに地べたに、それこそ死んだように横たわっていた。
タルパはゆっくりと彼らに近寄り、仰向けに起こす。すると、腹部が微かに、だが確かに上下しているのが見えた。どうやら息の緒はあるようだ。
良かった、生きている。
ほっと胸をなでおろした。
しかし、数が少な過ぎる。他の場所に監禁されているのか、あるいは。
タルパもさっさと四人をそのまま一纏めにして、巻藁のように担ぎ始めた。相変わらずの馬鹿力だ。
促されるまま、出ようとする。ヘンリーだってこんなところには一分一秒たりともいたくない。
だけど、少しだけ違和感を覚えた。
そう、違和感。引っかかりだ。
不意に、かつての教えが脳裏に蘇った。
『 いいか、 “ ” 。お前がもしこれから先も剣を握り続けるなら、これだけは覚えておけ。
戦いというのはな、とどのつまり相手の先を読む奴が勝つ。そして忘れるなよ、どんな悪人や魔物であろうと、剣を握るものはみな同じだ。同じように相手の一手先を読もうとする。
いついかなる時でも、心に剣を持ち続けろ。つねに考えることは辞めるな。それができないなら、死ぬだけだ』
何でいきなり、この言葉を思い出したのかはわからない。
でもこれは、ヘンリーの師が遺した言葉で、常に頭の片隅には置いておくように心がけていたものだ。
ヘンリーはこの手の直感を、どちらかといえば信じている方だった。思考には必ずの意味があると。もっと言えば、ものごとには因果があると。
なら、考えるべきだ。
いま自分たちは、仲間を助け出した。
タルパを見た。ジェイドたちを担いでいるせいで、彼の足元は少し覚束ない。
そして今、自分たちは『助け出せた』という事実に少し気が大きくなっている。それはタルパだって例外じゃないだろう。
もし自分なら、その間隙を突く。
幸いなことにこの場所は靄がかっており、たとえ何かが紛れていたとしても、気付くのは困難だ。
音もなく、剣を抜いた。
「どう───」
タルパが何かを言いかけたが、それも耳に入らなかった。
抜刀した剣を、構えもとらずに振り下ろす。『
腑を零しながら、そのまま力なくゴブリンは崩れ落ちる。
───成る程、煙と同系色の外套を纏っていたというわけか。どうりで、気付かないはずだ。しかし、短剣を向けたのが仇になった。わずかに煌めいたそれを、ヘンリーが見逃すはずがない。
タルパはというと。珍しくびっくり顔で、死体とヘンリーとを交互に見ていた。
「さっ、行こう」
「あっ、ああ」
*
結局ジェイドたち(それと見ず知らずの男が一人)は洞窟を抜けても、意識は胡乱なままだった。
仕方なしに一纏めにしてそのままタルパが担いだが、何というかこう、酷い絵面だった。
しかもそのまま森を走破したのだから、大概なんでもアリだ。
とはいえ、時間はあまりなかった。陽はすでにだいぶ傾いており、地平を夕映えが照らし出さんとしている。
結局のところ、助け出せたのはほんの四人。他に関しての安否は探したものの、あそこにはいなかった。結局は不明なままということだ。
それに、あの怪物の正体もわからず仕舞いだ。タルパは何か知っていそうな反応を見せたが、それを今聞くだけの気力はなかった。助け出せたのは立ったの四人と、無力感でいっぱいだったからだ。
しばらく森を歩くと、街道に出た。
二人の間にやはり会話はないが、時折担いだ四人の呻く声が代わりに聞こえてくる。
アザレアの近くまで来ると、警邏と思しき連中が、いつもより明らかに多く門の前に立っていた。
さすがに昨日の今日でこれだけの行方不明者が出て、領主も警戒しているらしい。
そのままアザレアへ向かおうとすると、後ろからどさり、という重たい何かを下ろす音が聞こえて来る。
「───タルパ? どうしたんだ、疲れたのか?」
「違、う」
当然の行動にとまどっていると、一拍おいてさらにタルパは続ける。
「ヘンリー、街、戻れ。俺は、やり残したこと、ある」
そう言うやいなや、こちらに何かを放り投げて来る。すると、そのまま彼は森へときびすを返すように戻り始めた。
寄越されたそれは、鍵だった。それも、タルパの部屋の。
意味も、意図もわからない。
「ちょっ、これはどういう───」
「俺のこと、誰にも、話すな。自分が、助けた、そう言え。後は、ルバートたちに、任せろ」
最後に、そう言って。
彼は夕闇の森の中へ、溶けるように消えていった。
ヘンリーと、助け出した四人を残して。
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