6.「鉄輪の王」
どこかで、鳥が鳴いた。
馬のいななきのような、しかし高いその声は駒鳥のものだった。
目の前に鬱蒼と立ち並ぶブナの樹林は、歩けど歩けど代わり映えのしない景色を、ヘンリーの瞳に写し続けた。
木々の葉から漏れ出た陽の光は、淡い円になって足元を照らしている。
タルパとヘンリーは、いつかの夜に野営した森の、その近くにいた。
『───待ってください。僕も、同行します』
そう言ったとき、どこかわかっていたような表情で、ルバートと受付嬢はこちらを見た。ついで諭すように口を開きかけたが、
『いいんじゃ、ないか。人手は、あるに、越したことはない』
助け舟を出したのは、タルパだった。
別段、何事もないように。悩んだそぶりすらなければ、
だが、その口利きもあって、ヘンリーはいまこの場にいた。
隣を歩くタルパを見ても、紫黒の傘で顔の上半分は隠されており、下から覗ける限りは変わらぬ仏頂面だ。
だが、何故だろう。そこに頼もしさすら感じてしまっている。
出会って二日だ。そのたった二日で、どうにもこの男を信用している自分がいる。
その証拠に、今から自分たちはたったの二人でゴブリンの巣を叩きに行こうというのに、いつかの初陣のような不安はない。
やはりその理由はヘンリーをもってしても分からない。
自分たちは今から死地に赴くのだ。だがそれも、隣を歩いているコイツとなら、という思いがある。
ゴブリンは、いわゆる弱い魔物だ。
こいつを倒せるかが、冒険者でいうところの十等級から九等級への昇級の条件になる。入会した時から腕に覚えがあれば、試験官と闘い、ゴブリンを倒せるくらいの実力があると認められると、最初から飛び級ができるわけだ。
腕力は体格通りの子供ほど。知能はその子供以下。最初の関門とすらいえない、倒したところで利用できる部位がないから
だからといって、決して侮っていい魔物ではなかった。
魔物如何に関わらず、生き物は弱ければ弱いほどに、生存戦略として知恵と工夫を凝らす。
実際に奴らは簡易ではあるが火や罠を扱い、死んだ獲物から弓矢や剣を奪い取り、武器とする程度の知能はある。
そして何より、ほかのどの魔物よりも数が多い。
人間だって、強い生き物ではない。
腕力では
それでも、この大陸の半分を支配しているのは事実として人間だ。それは当然、数が他のどの種族よりも多いからに他ならない。
多数とは、それだけで他の何を補ってもあまりあるほどの武器だ。
実際に冒険者の死亡原因の一位は、
やはり、
ゴブリンの巣の規模はわからない。しかし、一昨日遭遇したあの群れが単なる斥候だとしたら、相当な数を抱えてるとみて間違いないだろう。
タルパの実力に、疑いはない。二等級で、そして
足手まといになるとすれば、まず間違いなくヘンリーの方だ。
ヘンリーには、ある目的がある。その目的のためにも、死ぬわけにはいかない。そして、こんなところで足踏みしている場合でもない。
だけど、放っておくことはできなかった。
かつて祖国で、今は亡き母から寝物語に聞かされた、高潔なる騎士たちのお話。今は廃れて久しい、騎士道精神とでも呼ぶべきものが、ヘンリーの中に息づいている。
草木を分け入り、木の根に足をとられながら、ヘンリーは進む。
胸の内にあるその剣は、硬い。
二人がそうして無言で森の中を進み続けて、どれほど経っただろうか。
徐々に地面の勾配は激しくなり、木の根だけではなく、蔓や
中天にあった陽は少し傾き始めており、刻限が迫っていることを無情にも告げてくる。
焦りが、首にまわされた縄のように、ゆっくりと締まり始める。
不安と焦燥が、じりじりと。
もう少し、探し方を変えてみるべきではないのか。あるいは、二手に別れるとか。そのことをタルパに伝えようと、口を開く。
「なぁ、」
「───待、て」
そう、手でこちらを遮るように制すると、顎静かに彼方を指差す。
指された方向を見ると、細くはあるが、けもの道がそこにはあった。暗い森に呑まれるように、それは先まで続いている。
だが、それが何だと言うのか。
杣道を辿ったところで、あるのは鹿やらの寝床か水場だ。
対して自分たちが探しているのは、ゴブリンたちのねぐらだ。今ここで寄り道している暇などない。
タルパの意図を図りかねていると、
「見ろ。これは獣の、足跡、じゃない」
「そう、なのか? 僕にはまったく見分けがつかないが」
「ああ。狼なら、爪の跡、が。鹿なら、もっと、深く押し込んだ跡になる」
「じゃあ、これを辿れば?」
「可能性は、ある」
やっと光明が見えてきた。
それにしても、
法衣を着ているところを見ると、まず間違い無くどこかの神殿に仕える
果たしてそんなもの、説明の時に聞いただろうか?
もっとも、すぐにその思考は打ち切った。今度、タルパ本人に聞けばいいことだ。
慎重深く足跡をたどっていくと、やがてひらけた場所にたどり着いた。
そこは薄暗い森の中より開放的で、今が緊迫した状況でもなければ、燦然と照らされた日光の下でおもいっきり伸びをすれば気持ちいいかもしれない。
心地よい葉擦れの音と、さわさわと流れる水音が耳に届く。さわやかな、それこそ新涼と呼ぶにふさわしい日だった。
だが、そんなことはどうでもいいのだ。
自分たちは、手がかりを探さないといけない。
何かしなければ。
そうしなければ、自分が付いて来た意味がない。今のところ、自分は何の役にも立っていない。
「見つ、けた」
そう意気込んだヘンリーを尻目に、タルパはずしずしと、川と呼ぶには細く頼りない沢へ近寄る。
なにを見つけたというのか。
だが、今度もヘンリーの目には何の変哲も無い、小さな川があるようにしか見えなかった。
「ゴブリンは、水辺に、巣をつくる。やつらは、腕力がないから、たくさん水を運べない。だから、ここらへんに」
巣があるはず、ということか。
つまり、もういつ奴らと接敵してもおかしくはないということだ。
より慎重に、慎重に足跡をたどっていく。
しばらく、歩いた。すると、
小高い山。その麓。
せり上がって、露出した壁面。禿げ上がって、めくれた岩盤。
そこに、やつらはいた。
見張りと思しきそいつらは、槍に粗末な鎧を持っている。たるみ、だらけきった表情を隠そうともせず、大欠伸をかいている。
タルパの読みは当たっていた。
その背後には、巣である洞穴。
だのに、見張りであるゴブリンたちはときおり皮袋に入った水を煽っては、ゆったりと手ごろな岩に腰掛けていた。
油断、している?
横を見ると、タルパがあごでしゃくりあげるように、向こうを指した。
こちらも頷き、剣を抜く。
ゆっくり、ゆっくりと、藪や木の影に紛れて近づいていく。
しかし、やつらも異音に気づき始めたらしい。長い耳をぴくぴくとさせ、しきりに辺りを警戒し始めた。
タルパに合図をおくり、一斉に飛び出す。
もちろん、相手にもこちらの姿はとっくに見えたはずだ。槍を構え直し、叫ぼうとする。
───もう遅い
抜きはなった剣を、そのまま首に刺すやいなや、一瞬で後方に下がる。
敵は果たして、声をあげることすら出来ずに絶命した。
いつかの夜は醜態を晒したが、万全であれば当然こちらが勝つ。返り血一つ浴びずに、そのまま剣を鞘に納める。
しかし、鍔鳴りの音がしたその瞬間。
「──ィ────ギィ──ッ!」
突如として、身を裂くような絶叫が辺りに響いた。
「なにを、してるんだ?」
見ると、タルパは何故かゴブリンを殺し切らずに生かしたままにしていた。いや、生きていると形容したが、果たしてそれが正しいのかさえ分からないような、惨憺たる有様だったが。
武器を構えることも、逃げることもできないように丁寧に腕と足をねじ切られ、結果生まれた芋虫のようなそれを、生きていると言えるのならば。
あらんかぎりの、臓腑を絞り出すような悲鳴をあげると、そいつはこと切れた。
なぜ。
なぜ、そんな、いたぶるような殺し方をしたのか?
なぜ、このままでは、気づいたゴブリンたちに襲われてしまう。
いくつもの疑問が湧き上がるが、どれも言葉に詰まった。
返り血を浴びて、鈍く輝く三度笠の下にある顔は、窺い知れない。
「さが、れ」
やはり短く。
そう、伝えるだけだった。
「ああっ、もう! あとでちゃんと説明してもらうからな!」
しばらくすると、やはり洞穴から複数の足音が聞こえてくる。それは地鳴りのように、空気さえも震わせながら。
自然と、剣を握る手に力がこもる。
タルパはやはり、目の前に立って動かない。
不動を崩さない彼の胸元に向かって、一本の矢が。きりもみながら飛来したそれを、こともなげに手甲ではたき落とす。
それが
ゴブリンが、わらわと穴から蟻のように這い出てくる。いっそ壮観だと思ってしまうくらいに。
その数は数十を優に超える。
各々がその手に、斧に、槍に、弓に、短剣に。そして、ギラついた殺意を瞳に湛えながら。
タルパはやはり、動かない。
───さあ、戦いが始まる
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます