8 感じられない。

 目覚まし時計のアラームを止める。一度あくびをして体を起こす。


 一昨日、枕元に置いたばかりの、手触りのいいモフモフしたものを撫でる。今日一日頑張れそうな気持ちと、何も考えたくないという想いが、同時に押し寄せる。


 母さんの、スリッパで忙しそうに動いている足音が聞こえる。膝を叩いてベッドから立ち上がる。窓のカーテンを開ける。さわやかな青い空が見える。


 部屋を出て台所へ。テーブルには焼き鮭と海苔が置いてあった。


「お味噌汁あるからよそって。あと、ヨーグルト忘れずに食べなさいね。じゃ、お母さん、もう行くから」


 あわただしくしゃべって、薄化粧の母さんは出かけて行った。


 毎日忙しいのに、ちゃんと朝飯を作ってくれる母さんには感謝だ。具だくさんな味噌汁と白いご飯をよそって席につく。飯を口の中に入れる。


 感謝しているし、母さんの飯は昔からうまかった。それなのに最近あまり味を感じない。

 母さんは悪くない。うちに飯を作りに来る頻度が、昔に比べてかなり減った五十鈴の飯を食えば、味覚は元に戻るのだ。


 “友達”でしかいられない五十鈴に会えない日が増えて、どんだけ寂しいんだ俺は。


 それ以上は何も考えないようにして、飯をかきこむ。

 食器を洗って、身支度をして、外に出て鍵をかける。


 隣の家を見る。五十鈴の出勤時間はもっと早いから、昔みたいに鉢合わせることもなくなった。

 一昨日の誕生日に会ったばっかだし、会ったら会ったで苦しいくせに、こんなに会いたいってなんだよ。


 気持ちが鬱屈してくるが、振り払って学校に向けて歩く。


 宮原は朝も一緒に登校したがっていたが、断っていた。朝はマイペースで行きたいから、と理由を言うと聞き分けてくれた。


 本当の理由は……朝は今日みたいに、味のない飯を食って五十鈴を思い出して、隣の家を見て五十鈴を思い出して、それで落ち込んで、顔に出ることがあるから見られたくない……なのだけど。


 学校の校門をくぐる。人の流れの中に、イチャイチャしながら登校するカップルがいる。自分も付き合ってる女がいるクセに、いいなぁ、と思ってしまう。好き同士なんだろうな、いいな……。


「テメーっ!」


 カップルをぼんやり見ていたら、唐突に肩に衝撃があって、肩が重くなった。なんだと思ったら、昨日会った南田司とやらが無理矢理、肩を組んで来ていた。


「昨日の帰りにさぁ、目立つカップルがいるなーと思ったらおめぇじゃねぇかよ! せつねぇ片想いしてんのかと思ったら、なんじゃそりゃ!」

「は? いきなりなんだよ」

「あまりにも美男美女すぎてなんでか逆に笑ったわー。おっ! 保美ー」


 南田は俺から離れたかと思うと、手を振りながらポニーテールの女に向かって走っていく。女は南田に話しかけられ、なんだかオロオロしているように見えた。嫌われているのに話しかけているのかと思ったが、やがて女は安心したような柔らかい笑顔を浮かべた。


 あれ? でもヤスミって……。


 南田が笑顔で俺の方に戻ってくる。


「でさ、なんであんな美人と付き合っててあんなせつない顔するかなー?」


 南田のどうでもいい質問は無視して訊く。


「おまえ、あの保美って女、昨日告白してた女だろ? なんで明るく話しかけてる」

「ん? 明るく話しかけたかったから」


 は?

 明るく話しかけたかった……?


 いや、普通気まずいだろ。苦しいだろ。自分の気持ちを知ってて、自分を好きじゃないって知ってる相手に話しかけるなんて。


 俺はいまだに苦しいのに……。


 そうまくし立てそうになったが、踏みとどまる。こんなの誰にも話したことないのに、昨日会ったばっかりの変な男に話すなんてしたくない。

 南田は笑顔で話をしている。どうでもいい話だったので頭に入ってこない。ただ、なんでそんなことができるんだ、というのが頭の中をぐるぐるする。


 理解できないけど、うらやましいと思ってしまった。俺も五十鈴にあんな笑顔で話しかけたい……――



    * * * *



 部屋の中に湿った音が響く。俺の口の中で蠢く、俺のじゃない舌がたててるエロい水音。


 軽いキスは結構してるけど、ディープなのはそんなに回数を経験していない。まだぎこちない動きで、彼女の動きに応える。


 親が帰ってこないから、と呼ばれた宮原の家のリビングの、ソファの上で。


 お茶を出してもらって、少し話をして、そうしていたら何の前触れもなく、宮原は俺の膝の上に乗ってきた。チュッと音を立ててキスしてきた彼女は、しばらくソフトなキスで俺の唇を堪能していた。そして顔を離したかと思ったら『あーん、して』と言って、俺が口を開けると、今度は舌を堪能し始めた。


 宮原の、この慣れているような積極的なキスで、俺が初めての相手ではないんだろうなと想像する。別に初めてかどうかにこだわりはないから、どうでもいいんだけど。


 こだわりがないなら、太ももがチラ見えしているミニスカートの美少女が、膝の上に乗って激しくキスしてくるなんてのは、たぶん興奮するシチュエーションだと思う。


 でもどこかで冷静な自分がいる。


 初めてキスしたときも何も感じなかった。レモンの味とか甘酸っぱいとか、よく聞くけど、味のない豆腐みたいだった。

 原因は、味のしない飯と同じなんだろうと思うと、うんざりする。


 宮原が、ゆっくりと唇を離す。お互いの口から糸が引いて、宮原がそれを舐めとる。とても慣れてる感じがする。中学生のくせに経験豊富って何者だよ、と心の中で思うが、別に質問するほど興味はない。

 宮原は顔が近いままで、囁く。


「いいんだよ、篠原君。あたしと、好きな人のこと重ねて」

「え……?」

「あたし、篠原君なら、好きな人と重ねられてもいい。あたしをあたしとして好きじゃなくても、いい」

「……は?」


 一瞬、彼女が言った意味が分からなかった。徐々に頭に侵透していって、驚く。


「宮原……おまえ、何で知って……」

「あたしと一緒にいても、いっつも他の誰かのこと考えてるの、知ってるよ。篠原君って、すぐ顔に出るから」

「……え……ぃや……ごめ……!」


 反射的に謝ろうとして、唇に人差し指を当てられる。


「謝らなくていいから。目、つぶって、その人のこと考えて」


 それは、とても申し訳ないことに感じて一瞬躊躇ったけど、彼女の「ほら」という声に促され、目を閉じる。五十鈴の笑顔を思い浮かべた。


「その人に、なんて呼ばれてた?」


 晩飯を作ってるところを思い浮かべた。

 真剣な顔でゲームをしているところを思い浮かべた。

 泣いてるところを思い浮かべた。

 もう一度笑顔を思い浮かべた。


 うん。やっぱり、笑顔が一番好きだ。


「……シュンちゃん」

「シュンちゃん」


 女の愛しそうな声が俺を呼んで、胸が暖かくなる。


 シュンちゃん……シュンちゃん……シュンちゃん……。


 その言葉が、頭に、心に侵透していく。同時に、柔らかい暖かさが唇に触れてくる。


 体をゾクゾクとした何かが駆け巡っていく。自分でなにをどうしたいのかわからないのに、いてもたってもいられなくなる。


 初めて、自分から彼女の唇を舐めた。応えるように彼女の唇が開く。そこに自分の舌を滑り込ませる。

 どう動かせばいいかわからないまま、彼女の舌に自分の物を絡めていく。


「…………ん…………んんっ……っ……」


 彼女の吐息が、色っぽくていやらしい。愛してる、という言葉が浮かぶ。


 抱きしめたくて――あの頃みたいに抱きしめてほしくて、唇を離す。女の声がクスリと笑う。


「シュンちゃん、おっきい……」


 不意打ちのそんな言葉に、死ぬほど体が熱くなる。


「そんなん……男だからしょうがねぇじゃねぇかよ」


 お前だからそうなるんだ、とも思ったが、泣きそうなほどに恥ずかしくなって言えなかった。


 その赤面した顔を隠すように、彼女の胸に顔をうずめる。

 あの頃より少し小さい気もするけど、気にしないことにする。彼女は、あの頃みたいに抱きしめてくれた。


「なぁ……。こうやって、無防備に抱きしめてくれるのは、俺のこと……ガキだと思ってるから……?」


 ずっと考えていて、いつの間にか答えを確信していた疑問を、初めて口にした。抱きしめてくれている手が、ぎゅーっと強くなる。


「ううん。シュンちゃんのことが、大好きだから」


 関西弁じゃないことも、気にしないことにする。『シュンちゃん』と呼んでくれて、確信していた答えと違う答えを返してくれる、そのことだけに意識を集中する。


 あの頃は、五十鈴と対等なのだと思っていた。歳は離れていても、友達として対等なのだと思っていた。でもガキだと思っているから……恋愛対象じゃないから……無防備に抱きしめてくれるんだと気づいたら、早く大人にならなきゃ、と思った。


 なにが大人の基準なのかなんてわからないけど、五十鈴は仲良くあの男と夜を過ごしているのかと思うと、また遠い存在になった気がした。


 胸から顔を離して、唇を重ねる。離して、目を開いて見えた顔が――顔すらも、もう彼女なのか彼女でないのか、わからなくなってきている。


「なぁ。俺を……大人にして、くれる……?」

「うん」


 彼女が俺の手を取り、ブレザーの胸のボタンに導いた。震える指で、外していく。


 白い膨らみを包んでいるそれがあらわになった。

 心拍数がハンパない。白で、可愛かった。


 ぎこちない手で、それを外すのに四苦八苦する。そんな俺を彼女は穏やかな表情で見ていた。


 彼女の上半身からすべてを取り去った。初めて見た女性の膨らみの、その先端に、興奮で理性が吹っ飛びそうになる。

 両手で触れようとして、手を伸ばした。なのに、そのすぐ手前で、手が動かなくなる。


「…………くん……しのはらくん……! だいじょうぶ?」


 どこか遠くから宮原の声がした。いや、目の前からだ。『大丈夫?』って、なにがだよ。


 ……あれ?


 泣いてる自分に気づく。なんだこれ。はぁ?


「ごめんね、あたし、男の子はこういうこと、怖くないんだと思ってた。でも、あたし急ぎ過ぎてたよね。篠原君、好きな人いるのに、あたし、強引だったよね」


 宮原が、泣きながら謝ってくれる。そうだろうか、怖かったから止まったのだろうかと自問する。一瞬考えたが、口が自然と「ちがう……」と呟いていた。


「ちがう……。違うんだ。大人になるってこういうことじゃないと思ったんだ。あいつと対等になるって、こういうことじゃないと……思ったんだ。だから宮原はなんにも悪いことなくて……俺が……俺が情けない奴な、だけで……っ!」


 だんだん涙でしゃべれなくなってくる。女に恥かかせたクセに泣いてるってなんだよと思ったら、余計に涙が止まらなくなる。

 が、抱きしめてくれる。


 肩に宮原の顎が乗って、優しく背中をさすってくれる。


 そんな宮原に甘えて、彼女を抱きしめて涙が流れるのに任せる。


 宮原は、こんなに優しい奴だったんだ。俺が他に好きな奴がいるのに、俺のこと好きでいてくれて、こんなに受け入れてくれるんだ……。


 初めて、彼女がそんな人間なのだと気がついた。


 気づいた途端、絶望する。


 それでも俺は、彼女のことが好きじゃない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る