4 ウソだと思った気持ちを、大切にしたくなる。

 あれ以来、五十鈴の顔を見るだけで体が熱くなる。これが自分の体なのか、自分の心なのかと思ってしまうほどに、俺の意思とは関係なく。


 前みたいに一緒に笑えなくなった。訳が分からないほどに緊張する。

 五十鈴に対してどうしたらいいのかわからなくて、口数が少なくなる。五十鈴に『最近調子悪いん?』と心配された。心配させてしまった。


 こんなのが恋だっていうのか。意味が分からない。絶対に、前の方が俺は五十鈴のことが『好き』だった。なんで五十鈴を避けるようなことをしなければならない。


 こういう感情に振り回されたのだろうか。桜木美緒や、親父も。

 だったらやっぱり、俺は恋なんてしたくない。



    * * * *



 学校の廊下で、この間ぶつかった女子がいた。彼女はなんだか挙動不審だった。

 姿勢をかがめて半泣きの表情で、床を見回しながら歩いている。

 何かを落として探しているのだろうか。


 その明らかに困っている彼女を見て、周りの奴らはにやにや哂っていた。困っているやつを見て面白がるなんて、そいつらの方が困った頭の持ち主だと思った。


 そう思ったが、声をかけて手伝おうとは思えなかった。

 疲れていた。どうしようもなく疲れていて、めんどくさいと感じてしまった。


 それに、いじめられてる俺なんかが話しかけたら、彼女はさらに哂われるのではないか、と妙に弱気になっていた。


 困ってる人おったら助けたらなあかん。

 そんな風に五十鈴に怒られるような気がする。気持ちが、浮いているのか沈んでいるのかよくわからない落ち着かない感じがして、気持ち悪い。


 なんですぐに五十鈴に結び付けるのか。恋をしているからか? その考えがとてつもなく嫌で、頭を振って忘れようとする。足早にその場を離れた。



 放課後。今日はミノワたちが絡んでくることはなかった。何事もなく校門を抜けた。

 ただ奴らは毎日違うルートで帰っている。その日その日で遊ぶ場所が違うのだろう。時々バッタリ会うことがある。平和に今日が終わったと考えず、警戒しながら帰り道を歩く。


 曲がり角の向こうから、歓声が聞こえた。曲がり角から様子をうかがうと案の定、ミノワたちだ。


 三人はキャッチボールをしながら歩いていた。無邪気な……いや、邪気があるように聞こえる歓声を上げながら、黄色いボールでキャッチボールしている。

 違う。ボールじゃない。人形だった。シロー君だ。


「ミオちゃん、お礼って何してくれるんだろーなっ! と」

「ほっぺにチューとか? よっ!」

「バッカヤロ! 清楚なミオちゃんが簡単にそんなことするわけねーだろ!」

「ミノワ顔赤い。期待してんだろ。ほい」

「うっさいわ! やかましいわ!」

「ミノワ、ちゃんととれ。でもさ、これってミオちゃんの篠原のこと応援してることにならん?」

「え……? そうなん?」

「バカだこいつ気づいてない」

「うん、バカだな。篠原に近づいた女をぎゃふんと言わせる手伝いするって、そういうことだろ」

「ば、ばっきゃろ! 知ってたっつの! でもミオちゃんの頼みを断るわけにいかないだろ!」


 …………は?


 俺に近づいた女? 何言ってんだあいつら。そんな女なんていないのに。

 もしかしてあのシロー君の持ち主の、根岸さんとかいう女子のことか? 最近、俺と関わった女はその女子くらいしかいない。


 あの女子とは、ぶつかってその時落としたものを拾った。そんなことしか関わっていない。それなのに『近づいた』?


 でも確かに、あの時の桜木美緒の笑顔はなぜか怖かった。あれはあの女子が俺に近づいたと思っていたから、あんなに怖い表情をしていたのか。


 学校で、女子は探し物をしていた。桜木美緒に頼まれて、あのシロー君をミノワたちが盗んだんだ。

 女子は泣きそうな顔をしていた。彼女にとってあのシロー君は大切なものだったんだろう。それを知っていて桜木美緒は『ぎゃふんと言わせる』ためにミノワたちに盗むように指示した。


 あの女子は何も悪いことをしてないのに。なんでだ。

 俺と会話したから? 俺のせい? ぶつかっただけ、少し会話しただけなのに?

 それだけなのに、俺に責任なんかあるわけないだろ。


 自分にそう言い聞かせたけれど、胸のあたりが気持ち悪い。イライラする。


 ミノワたちがキャッチボールを再開する。一人がすっぽ抜けてミノワの後ろにシロー君が飛んでいく。

 そこで俺は走っていた。ミノワたちの驚く声がする。落ちているシロー君を拾い、そのまま走り続ける。


「なっ! テメェ! 篠原!」

「追いかけろ!」


 後ろから三人が追いかけてくる気配がする。振り返らずに全力で逃げる。細い道を入って滅茶苦茶に曲がる。

 少し広い通りに出て、見たことのない橋を渡る。一瞬振り返ると、三人はまだ追ってきているが、距離を離すことはできていた。このまま逃げ切れる。


「おおううらぁああ!」


 後ろからそんな気合の声がしたと思ったら、ふくらはぎに衝撃が走った。派手に転んだ。

 何かがぶつかったふくらはぎ、転んで擦りむいたらしい掌や膝が痛い。シロー君を投げ出してしまって、自分の一メートルくらい先に転がっている。


「ミノワさすがナイスコントロール!」

「へへへ。俺にかかればちょろいもんだぜ」


 石か何かをぶつけられたのだ。

 後ろからミノワたちが近づいてくる気配がする。シロー君を拾い、起き上がろうとした。そこに「おらぁあ!」という声と背中に衝撃。地面に顔面をぶつける。けど、シロー君は離さず、胸に抱きこんでいた。


「よーし。お前ら、そのまま逃がすなよ」


 ミノワが言った後、重いものが落ちる音がした。たぶんランドセルを地面におろした音だろう。次にパキパキと関節を鳴らす音。つまりこれから思い切り体を動かす――俺をボコボコにする、という意味だろう。


「おい。さっきっからよ、何のつもりなわけ?」


 苛立ったミノワの声が上からする。背中を踏まれている感触。体重がかかってくる。


「なんか言えよ、テメェ!」


 背中を思いきり蹴られる。後の二人も次々と蹴ってくる。すぐに何回蹴られたかわからなくなる。それでも俺はシロー君を胸に抱きこんだまま、うずくまっていた。


 なんのつもりなのか。

 そんなもん、俺が訊きたい。


 なんでこんな無様に蹴りまくられているのか。なんでそんなリスクを負ってまで、シロー君を取り返そうとしたのか。

 ただ、女子の悲しそうな顔を思い出して、五十鈴の悲しそうな顔がちらついた。


 だから、なんだか悲しくなって、ムカついて、いじめってもんが全部許せなくなって……――

 頭をつかまれる。無理矢理顔をあげさせられる。


「なぁ? 篠原、俺がミオちゃんのためにやったこと、邪魔する気なのかよ。俺がミオちゃんと仲良くなるの、邪魔する気なのかよ。ミオちゃんフッて傷つけたくせに、今さら惜しくなったのかよ。なぁ! 篠原ぁあ!」


 耳が痛いほどに近くでわめかれる。ミノワの無茶苦茶で意味不明な罵倒。誰もが桜木美緒に惚れなければおかしいくらいに彼女は魅力的だ、とでも思っているのか。

 うまく表情が作れたかわからないが、哂ってやった。


「ミノワさぁ、こんな桜木の言うこと聞いて他の女にひどいことして、なんか下僕みたいじゃねぇ? それで桜木がお前に惚れてくれると思う?」


 言ってやったら顔を地面に叩きつけられた。さっきできた傷にさらに痛みが走る。


「おまえの顔、傷つけたらミオちゃんが悲しむから蹴らないでやってたけど、もう我慢できねぇ。こうなったらミオちゃんも幻滅するくらいにボコボコに――」

「シュンちゃんのこと放して!」


 …………は…………?

 後ろから、なぜかものすごく馴染みのある声が聞こえてきた。


「放さなこのランドセル、川に捨てたるから!」


 ……五十鈴……?


 この声を聞き間違えるはずがない。でも信じられなくて、後ろを振り向いた。

 五十鈴が、ミノワの物だろうランドセルを持っていた。その伸ばした腕の先、ミノワのランドセルは橋の欄干を越えている。手を放せば確実に川に落ちる位置だ。


「は? なんだよあの女!」

「シュンちゃんって、誰?」

「篠原……シュンスケ……?」

「知り合い?」

「え、ウソ、美人なんですけど」


 ミノワが驚きの声を上げ、手下その一、その二が、場違いな会話をしている。


「てめぇ、篠原! ミオちゃんだけじゃなく、年上までたらしてんのか!」


 またしても意味不明なミノワの叫び。ふざけているとしか思えないが、それでも俺の体には恐怖がせり上がってくる。

 いやダメだって。こいつら何するかわかったもんじゃないんだ。相手が女だからって何かしないとは限らな……――

 五十鈴が手を放した。


「ああああああああああああああ!」


 ミノワが叫んだ。


「あの女、交渉するんじゃなかったん?」

「モノジチとる意味わかってないんじゃね?」


 二人がのんびり会話している。


「テメェら、早く拾いに行くぞ! あれには! あれには……!」


 ミノワが言葉を詰まらせる。


「ミオちゃんの“愛の詰まった”指令書が」


 手下その一がぼそりと言う。


「あああああああああああああああああああ!」


 ミノワが叫ぶ。


「ラブレターと勘違いしてない?」


 その二もぼそりと言う。


「どーでもいいから行くぞコラァ!」


 三人が俺から離れて駆け出した。助かったということが意味の分からないことのように、俺は茫然としていた。後ろから駆け足の音が近づいてくる。


「シュンちゃん立てる? 今のうちに逃げよ」


 見上げると五十鈴の顔があった。五十鈴の顔に、声に、何かに包まれるように安心する。五十鈴が立つのを手伝ってくれる。何とか一人で立つことができた。

 手にはしっかりとシロー君を握っている。

 五十鈴に支えられながら、その場を離れた。




 だいぶ離れられただろうか。追いかけられている気配はない。人気のない潰れた店が一軒あるだけの道で、俺たちはやっと自分たちの足に立ち止まる許可を出し、ゆっくり息を整えた。


「でも、なんでシュンちゃんあんなことになってたん? あいつらが前に言ってた、いちゃもん吹っ掛けてくるってやつなん? それにしたって酷すぎるやんか!」

「あー……いつもは殴られたり蹴られたりはしないんだけど……」


 五十鈴にシロー君の件を話す。すると五十鈴の目はこっちがびっくりするくらいに見開かれた。


「シュンちゃんすごい……」

「え?」

「すごいよシュンちゃん。よう頑張った」


 よくわからないが、五十鈴が涙ぐんでいる。

 思わず目をそらした。


「すごいって……こんなボコボコになってるのに、ダッセェ……」


 あんなに無様だったのに、手も足も出なかったのに、なにがすごいというのか。亀になってボコられてただけなのに、何が頑張ったというのか。

 だんだん、自分の目にも涙がにじんでくる。でもそんな、さらにダサくて無様な姿なんて見せたくなくて、必死にこらえる。


「ダサないよ! その女の子の大事なもん、ちゃんと守ったんやろ? メッチャかっこいい!」


 五十鈴は、俺の目を見て真剣に訴えかけてくる。


「暴力振るって、ねじ伏せて、傷つけて……それでめでたしめでたしって……暴力を正義にしたらあかん。シュンちゃんはそんな暴力振るう人間にならんでええ。ううん。なったらあかん」


 悔しさでいっぱいだった心が、熱いものに塗り替わっていく。その感情をなんて呼べばいいのかわからないくらい、心がぐちゃぐちゃになっていた。それでも、その気持ちをずっと持っていたいと思った。


「約束しよ。暴力して、相手を傷つけるような人にならへんって」


 止められない涙を、目からいっぱい零してしまった。

 抱きしめられた。相変わらず、顔が胸に埋まったが、恥ずかしいとか思わなかった。


 五十鈴の暖かさに包まれて、何も考えずに大泣きした。

 ――うん。五十鈴との約束なら、絶対に守れる。絶対に傷つけない。

 それが恋でも、絶対に傷つけない。


 五十鈴が好きだ。


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