6 なんで泣いてるんだろう。

 五十鈴のカレーはうまい。


 俺もカレーは何とか作れるし、母さんの作るカレーもうまいけど、五十鈴のカレーは倍うまい。


 ていうか、五十鈴の料理は何だって、どこの店の料理よりもうまい。前に訊いてみたことがあるけど、別になにか特別なことをしているのではないらしい。


 五十鈴は冗談めかして「いーっぱい、愛情込めてるからとちゃう?」と言った。その時俺は笑って「恥ずかしいこというなよ」と返したが、でも今は納得している。


 最近、五十鈴の料理はもっとうまくなった。五十鈴のことが好きだと気がついてから。


 好きな奴に好かれていると実感できる料理。それが、腹だけじゃなくて心も満たすから、五十鈴の料理はうまいんだ、なんて、恥ずかしいけれどそんなことを確信する。

 今日も、そんなうまいカレーを食べていた。


 学校での悩みはなくなって順調で、五十鈴の俺への好意が恋愛の好きじゃなくても、大切に思われていると実感できる。そんなことを噛みしめながら食べていたら、自然と顔が緩んでくる。


「シュンちゃん、最近、よくニコニコしてる。なんかええことあった?」


 五十鈴がやさしく笑って訊いてくる。その笑顔は、俺が幸せなのが嬉しい、と思ってくれているからだろうか。


「うん。いろいろ順調」


 言って、カレーを口に入れる。その幸せをかみしめる。


 一つだけ、心配事があるとすれば、五十鈴へのいじめはまだ続いているんだろう、ということ。


 せめて味方でもいれば……。あの五十嵐とかいう男は、五十鈴がいじめられているのを知っているだろうか。助けたりしているだろうか。

 そう考えて、少しだけイラっとした。そのことに、ちょっとビックリする。


 ああ、できることなら俺が五十鈴をいじめから守ってやりたいんだ、ということに気づく。

 でも無理だから、他の誰かに託すしかない。


 なんで俺はまだ小学生なんだ、と思う。早く五十鈴に追いつきたい。

 大人になって、五十鈴を守れる男になりたい。


「そっかー。ええなぁ。でもねぇ、あたしも自慢できることがあるねん」

「お? どうした?」

「五十嵐さんと付き合うことになってん」


 満面の笑みで、頬を少し赤く染めて、言葉を紡ぐ。

 その口から発された声は、意味をなさずに俺の耳を通っていった。


「え?」


 自分の顔が引きつっているのがわかる。訊き返したけれど、もう一度聞きたいとは思わなかった。


「シュンちゃんもこの前、デパートで会ったやろ? あのプレゼント選んだ相手の五十嵐さん。五十嵐さんがね、いっつもあたしに優しくて、それが嬉しかってね。それでなんか自然に『好きです』って言ってたん。そしたらね、五十嵐さんがね『僕も好きや』って、あ、違う、『好きだよ』って言ってくれてん」


 五十鈴の標準語の発音を初めて聞いた、なんてどうでもいいことを思う。


「え……つきあ……う?」


 間抜けなことを問う。そりゃそうだ。五十鈴も好きなんだから。ていうか、さっきそう言ってなかったか?


「うんっ。へへへー」


 頬を赤らめて笑う五十鈴が、異常に可愛い。幸せそうだ。なのに泣きそうになる。


「つ……つきあう……って、なに……なにすんの?」


 自分の声が震えているのがわかるが、五十鈴は気づいていないのか笑顔のままだ。


「んー? それはあたしも、男の人とお付き合いするのは初めてやから、よーわからんけど。デートしたり? イチャイチャしたりすんの? いやん! なに言わすんー?」


 デートしたりイチャイチャ……。


 手をつないだり、キスをしたり、抱きしめあったり?


 なぜか、自分が五十鈴に抱きしめられた時のことを思い出した。五十鈴の、柔らかい体の感触を思い出した。あの男が、そんな五十鈴の柔らかい胸に顔をうずめて……――


「あれ? シュンちゃんどうしたん? なんか震えてへん? あ、クーラー効きすぎてる?」

「あ。いや……」


 俺はすっかり食欲を無くしていた。でも、無理矢理残っていたカレーをかきこむ。そんな状態なのに五十鈴のカレーはうまかった。


「あー……明日の朝飯のパン、もう無いの忘れててさ。今から買ってくる」


 噛み合っていない返事に五十鈴は「へ? あー、うん」とキョトンとした顔で頷いた。


 俺は一度自分の部屋に戻って、財布の入ったカバンを取ってくる。そうして玄関に向かうときは、もうほとんど走っていた。涙がこぼれそうだった。

 玄関を出た途端、大量に涙が溢れてきた。何とか声を殺す。もしかしたら泣き声が五十鈴に聞こえるかもしれないから。


 しばらく座り込んでいたが、家で五十鈴は待っているだろうから、本当にパンを買ってこなければいけないことに気づく。歩き始めるが、涙は止まらない。


 なんで泣いてんだろう。五十鈴の、あんな幸せそうな笑顔を見て、なんで泣いているんだろう。


 五十鈴が幸せなら、受け入れられると思っていた。

 笑顔で、よかったな、おめでとう、って……言えると思っていたのに。なんだこれ。


 頭の中で、五十鈴とあの男がイチャイチャしている。

 この前に眠れない時に見たエロいドラマみたいに、舌を絡ませた大人なキスをしている。男の手が、五十鈴の体をいやらしく這いまわって、五十鈴の服を脱がしていく。五十鈴が、嬉しそうな顔で、男と裸で抱き合っている。


 ただの想像なのに、男を殺してやりたくなる。なのに想像は止まらない。


 五十鈴の裸の胸に、男の手が触れる。そのにやけた男の顔は――

 ――俺。


 あれ?

 ……あれ?


 いや、俺は、そういうこと五十鈴としたいとか、まだ思ったこと……。いや、ドラマ見てた時、ほんの少しだけ五十鈴に重ねたけど、恥ずかしすぎて死にそうになったのに。


「おい」


 後ろから、声がかけられた。

 いつも近道に使う公園に立っていた。夕焼けが赤かった。世界の終わりが来たら、一日中こんな赤に包まれるんじゃないかってくらいの赤だった。


「おい。はぁ? なに泣いてんだよ」


 ミノワだった。いつもは手下を引き連れているのに、珍しく一人だった。

 涙を拭うのもダルかった。既に見られたのだからどうでもいいと思った。


「ミオちゃんに愛されてる幸せ者のクセに、なに泣いてんだよ」


 これほどウザいことがあるだろうかと思った。走って逃げるのも相手をするのもめんどくさい。


「おまえに泣く権利なんてねぇだろ」


 ミノワが足早に近づいてくる。


「それともセツナイ顔してたらもっとミオちゃんの気が引けるとでも思ってんのか?」


 だるくて、全部どうでもよくなってくる。


「おまえミオちゃんに何言ったんだよ! ミオちゃん……もっとお前のこと好きになったとか言ってるぞ!」


 胸ぐらをつかまれる。


「おまえのこと好きだから俺とは仲良くできないとか言うし! なんなんだよ!」


 怒鳴りながら俺の体を揺すってくる。ああそう。まだ可能性があるってことじゃん。がんばれよ。


「この間、おまえを助けた女、いるだろ? あの高校の制服着た女」

「は?」


 ……五十鈴?


「おまえは! あの女とイチャついてりゃいいだろうが!」


 ボロボロと大粒の涙が、出た。ノドから声が爆発する。


「あああああああああああ!」

「あぐっ!」


 ミノワが腹を抑えてうずくまる。俺が腹に膝蹴りをしたから。


「できるもんなら……!」


 咳き込んでいるミノワの頭をつかむ。


「してぇよ!」


 地面に叩きつけた。痛さで起き上がることができないのか、呻くばかりで動かない。その頭を、無理矢理起こして顔面を殴った。何度も、何度も。


「どうすりゃいいんだ! どうすりゃできんだ! ――答えろよ!」


 ミノワが血を流し始めても殴った。自分の手が血まみれになっても殴った。そんなこと気づかずに殴った。

 そのことに気がついたのは後ろから声がしたからだった。


「シュンちゃん……?」


 五十鈴の声に驚いて、体が固まった。ゆっくり、自分の手元を見た。俺の手もミノワの顔も血まみれで、驚いた。


 恐る恐る、声の方に振り向く。


 五十鈴が、目を丸くしていた。自分の見た光景が、信じられないもののように。


「五十鈴……なんで……」

「シュンちゃん……遅いし、お母さんもう、帰ってきてる……から……迎えに……。シュンちゃ……なん……なんなん? それ……?」


 ミノワが、うめき声をあげながら「たすけて」と呟く。涙声になりながら小さく悲鳴を上げる。何とか体を起こして、大きな悲鳴を上げながら逃げていく。


「今の……すごい怪我……『たすけて』って……え? もしかしてシュンちゃん……!」


 五十鈴と目を合わせることができなかった。頷くのと同じ意味になったらしい。五十鈴の表情はわからないが、悲しそうな「なんで……?」という声がした。


「なんでなん? 暴力なんてせーへんて、約束したやんか?」


 そう……。した。絶対に守れると思って、約束した。


「人傷つける人になれへんって約束したのに、あれは嘘なん? シュンちゃん!」


 約束したときは知らなかった。自分の恋も、こんなのだなんて。


「聞いてるん? シュンちゃん! 返事して!」

「うるせーよ」

「……え……?」


 五十鈴の方を見ずに言う。


「そんな説教してさ、おまえ俺の姉ちゃんかっつーんだよ。うん。だよな。小学生のガキなんて、弟にしか見えねーよな」


 わざと、吐き捨てるように言う。


「なに……言ってんの? シュンちゃん……」

「おまえはさ、男ができたんだから、男のことだけ考えてりゃいいんだよ。俺なんかに構っちゃいけないんだよ」

「シュンちゃん……?」


 このまま続けたら終わってしまう。五十鈴との関係が終わってしまう。けど、


「俺は!」


 止まらない。


「おまえに惚れてんだから!」


 叫んで、走る。その場から逃げる。五十鈴が何かを言う前に。

 言ってもどうしようもないのに。言ったら友達じゃいられなくなるのに。


 でももう、友達じゃ嫌で。でも友達じゃない関係になれないのはわかっていて――


 家にたどり着いて母さんに「舜介? 帰ったの?」と声をかけられたけど、無視して自室に入る。

 ベッドにもぐりこむ。手についた血は乾いていて、布団を汚すことはなかった。


 五十鈴との約束は、汚れきってしまったけれど。


 どうでもいい。


 もう、五十鈴との関係は終わったんだから――



    * * * *



 度肝を抜かれた。


 最高にだるくて学校を休みたくてしょうがないけれど、何とか体を引き起こして登校しようと玄関を出た、そんな次の日の出来事だ。


「おはよう! シュンちゃんっ」


 笑顔の五十鈴がそこにいた。


 学校の方向はお互い反対だから、一緒に登校することなんてなかったけれど。

 玄関を出る時間が同じだから、顔を合わせるってことは時々ある。

 でもなんで、五十鈴は一ミリも気まずそうじゃないんだろう。


「おまえ……昨日……おれ…………」

「えー? 何のハナシー?」


 いつも通りの、ほのぼのとしたすっとぼけた笑顔で、五十鈴はそう返してきた。

 俺の告白は抹殺されてる。



    * * * *



 その日から、ミノワが俺を恐れるようになった。

 ミノワは決して誰にやられたとは言わなかったから誰にも怒られなかったが、態度が、俺がやったと言っているのも同然だった。


 ミノワをボコボコにしたのは篠原だ。そんな噂が広がっていった。

 病院送りになるほどに、あのミノワにトラウマを植え付けるほどにボコボコにした。そんな目で見られるようになって、みんなに怖がられるようになって――そして俺はまた一人になった。


 五十鈴は、俺を友達として扱って、前と変わらずに飯を作りに来てくれていたけど、それが苦しくてしょうがない。


 前は学校で一人でも、家に帰れば優しい五十鈴に癒されていた。でも今は、五十鈴に優しくされるのが苦しい。


 桜木だけは、しばらくは俺に話しかけてきていた。彼女の好意に応えることはなかったけれど、ほんの少しだけ前より話をするようになった。なのに小六の二学期に転校してきたイケメンといつの間にか付き合っていた。


 俺は友達の作り方を忘れた。


 中学に上がって、俺の暴力のことを知らない奴ばかりになっても、それでも俺は友達を作れなかった。

 五十鈴は彼氏とうまくいっていて、高校を卒業したとき結婚の約束をしたらしい。


 そして俺はそのまま中二になった。

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