第9話 涙の意味

 この日も何事もなく全ての授業が終了した。帰りのホームルームも終わり、帰りの支度をしていると、よく一ノ瀬いちのせさんと一緒にいる女子に呼び止められた。


「痛み消して欲しいんだけど、いいかな?」


 彼女は険しい表情で、体を丸めており、俺は二つ返事で承諾した。すぐさま彼女を椅子に座らせると、俺は思いっきり歯を食いしばり彼女の額に優しく触れる。するとやって来たのは、下腹部を襲う鈍痛に似た痛み。前に一ノ瀬さんから貰った痛みとそっくりのものだ。こんなことだろうなと予想はしていたが、ぴくぴくと動く眉間を止めることはできなかった。


「どう?良くなった?」


 それでも、バレないように笑顔で、痛みなど表に出さずに、懸命に取り繕う。


「おお!本当に痛くなくなった!いやあ、ありがとね!薬切れて困ってたんだ~」


 この痛みだけはいくら経験しても耐えられる気がしない。今だって鼓膜には心音がうるさいほど鳴り響いている。このままではまずい。この場から離れないと面倒なことになる。そんなことを考えていると、運よく一ノ瀬さん達の集団が彼女を呼び掛けてくれた。それをきっかけに、彼女は俺にもう一度お礼を言うと、その集団と共に教室から出て行った。その直後、俺は急いでトイレに駆け込む。


 幸いなことにトイレには誰も居らず、奥の個室の扉を乱暴に閉めると、胃の中の物をぶちまけてしまった。


 一向に整わない呼吸。額から流れる玉のような汗。訳も分からない吐き気。俺は便器に顔を埋めながら、胸を何回も摩る。


「落ち着け・・・落ち着け・・・落ち着け・・・!」


 病院から退院する際も村田先生に耳がタコになるくらい言われた。『その力を使ってはダメだよ』と。しかし、俺はその忠告を無視し続けてきた。だってそうだろ。俺がこれをやめたら、俺は一体に何者になる。体が弱いだけの貧弱な人間になるだけは嫌なんだ。中学だってろくに行けず、周りから取り残されている俺が、唯一皆の輪の中に入れるきっかけが、この力なんだ。この力が無ければ俺は俺になれない。これが俺にできることで、俺が『やりたい』と思った唯一のこと。だからこそ、続けなければならない。こんなところで死ぬわけにはいかないんだ。


 いつもより時間は掛かったが、俺の心臓は正常な脈を打ち始めてくれた。ここまで悪化したのは久し振りだ。それこそ、病室で初めて意識を失った時以来かもしれない。


 夕陽が差し込み、黄金色に輝く教室。さっきまで賑やかだったはずのその教室には話し声一つ聞こえず、どことなく一人の時の病室を思い出していた。


「高梨くん、やっと戻って来たんだね」


 誰もいないと思っていた教室で突然聞こえた人の声。まさかと思い振り向くと、そこには赤褐色の眼鏡を掛けた能登のとさんの姿があった。


「能登さん・・・、まだ、帰ってなかったの・・・?」


 全身で感じる重くまとわりつくような空気。その正体が能登さんの表情であると気付いたのは、彼女が落とした涙を見てからだった。


「私ね、この間の話を聞いちゃったの・・・」


「この間?」


 一瞬何のことか分からなかったが、彼女の言葉ですぐに全てを思い出す。


「この前の体育の時間、ヒーローくんが高梨くんを校舎裏に連れて行った時あったでしょ?あの時ね、私二人には見えないところからこっそり二人の話を聞いてたの・・・」


 心臓を鷲掴みされたような衝撃的な告白。


 嘘だと言ってくれ。あの話は誰にも聞かれてはならない話なんだ。俺はあの時、全てを口にしてしまっている。それだけは聞かれていたらまずい。頼むから、あれだけは、あれだけは聞かれていないでくれ。


「高梨くんのその不思議な力って、『痛みを貰う』力だったんだね・・・」


 終わりだ。俺はもうお終いだ。


 今まで誰にもそれを明かさずに、これまで生きてきたのに、遂に知られてしまった。


「何で今まで黙ってたの?何で、『痛みを消す』力なんて嘘をついてたの?高梨くんは皆から痛みを消すんじゃなくて、貰ってたの?ねえ、何でそんなことしてたの?!ねえ!なんで?!」


 だったら俺にも教えてくれ。何で能登さん、君が涙を流している。泣きたいのはこっち何だよ。誰にも知られたくないことを知られて、自分の存在すらも危うくなっている。そんな俺は一体どうすればいいんだよ。


 これ以上嘘はつけない。そう思った俺は、またしても本当のことを口にしていた。


「何でって・・・、そりゃ、これが俺の使命だからだよ。この力を貰った俺がするべきことだからだよ」


 そう、この力を得たということは痛みを『貰い受ける』というのは、神様から与えられた使命なのだ。だが、俺はそれを義務だなんて思ってはいない。俺はやりたいからやっている。俺が神様から与えられたのは不思議な力だけじゃない、俺が俺として存在できる証のようなものを貰ったんだ。人の痛みを貰うことで、誰かに頼られることで、俺が俺でいられる。


 俺は何一つとして、間違ってなんかいない。


「それは、本当に高梨くんがやらなきゃいけないことなの?」


 俺以外に誰がやる。誰が皆の痛みを貰う。無理だろ。そんな力、俺以外の誰も持っていないのだから。


「それは、高梨くんが自分を犠牲にしてまでしなきゃいけないことなの?」


「能登さん。俺は人の為を思ってやってるんだ。それがそんなに悪いことなのかな?俺が痛みを貰えば、皆は痛みから開放される。そしたら、皆幸せだろ?笑顔になるだろ?それでいいじゃないか。俺は別に、自分が犠牲になってるなんて思ってないよ?」


 むしろ進んで痛みを貰っている。何にも悪いことはしていない。むしろ、褒められることをしているはずだ。


 だから、頼むから、その泣き顔はやめてくれ。苦しんでる顔を見たくないんだ。


「高梨くんはそう思ってるかもしれない・・・、でもね・・・、他の人にはそう見えちゃう時だってあるんだよ!」


 何で、何で泣いている。俺のことで泣いているのか。だとしたら、何で俺のためなんかに泣いてくれるんだ。


「高梨くんがこれまで救ってきた人は、高梨くんのおかげで痛みから開放されたかもしれない。だけど、高梨くんはどうなの?高梨くんの痛みは誰が消してくれるの?誰が貰ってくれるの?」


「俺は別に、痛みなんか──」


「そうやって、自分のことを見ないふりしてるだけでしょ?!何で高梨くんはいつも自分のことを見ようとしないの?まるで自分がいない人みたいに話すよね?ヒーローくんと話してる時もそうだったよ?」


「・・・俺がいない?そんなことないよ?」


「あるよ。『誰かの笑顔がみたい』って言いながら、高梨くん自身が本当に笑ってるところを私は見たことがないよ?むしろその逆。いつも苦しそうにしてる」


「俺が?顔には出さないようにはしてるけど、たまに痛みを貰った時に顔に出ちゃうからじゃない?」


「ううん、違う。その苦しいとは違う。私ね、ずっと高梨くんのこと見てきたの。同じクラスになった時から。高梨くん、いつも寂しそうな、悲しそうな、苦しそうな顔してるんだもん」


「いつも・・・?」


「うん。だから気付いてたよ?高梨くんの不思議な力が『痛みを消す』力じゃないこと。でも二人の話を聞いたらそれが確信に変わって、そうしたら、ますます高梨くんのことが心配になって」


「何で?何で俺の心配なんかするの?俺は大丈夫だよ?俺、どこも痛くないもん」


「高梨くんが心臓のことを気にしてるのも知ってるよ。たまに胸摩ってるもんね」


 そんなことまで見ていたのか。背筋がぞっとするような、恐怖にも近い感情を抱きながら、同時に嬉しいと感じている自分もいた。


「ねえ高梨くん。高梨くんが傷ついている姿を見て悲しんでる人だっているんだよ?私だけじゃない、私の他にも今までいたと思うよ?ねえ、なんで高梨くんは自分をもっと大切にしてくれないの?何でもっと自分と向き合ってくれないの?」


 俺が傷ついている。俺は傷ついていのだろうか。誰かの痛みを貰う度に、知らず知らずのうちに自分に傷つけていたのだろうか。分からない。分からないけど、今分かることは、俺のことを見て悲しんでいた人達がいたことは確かだ。村田先生は本気で俺の心配をしてくれた。能登さんも俺のなんかのために涙を流してくれている。一ノ瀬さんだって、悲しんでいたわけじゃないが、俺のことを気にかけてくれていた。


 俺は、誰かに気にかけてもらいながら、大切に思われながら生きてきたのか。


 両親が離婚して以来、俺は要らない存在なのだと思っていた。そんな人間は生きる資格が無いと。だから、心臓の疾患が見つかった時、俺はこのまま死んでいくんだなと、これが要らない俺に与えられた運命なんだと、そう受け入れてきた。


 だけど、俺の前にあの子が現れた。真っ白だった俺の人生に、色を加えてくれた君。しかし、そんな君も病に苦しんでいた。苦しむ君に何かしてあげたい、そう思っていた俺にとって、あの絵本から得たこの力は、まさに神様のプレゼントだった。これで、君の笑顔が見れる。俺が君を笑顔にできる。その一心で君の痛みを貰っていた。


 なのに、君は俺を拒んだ。その時、俺の存在が再び必要とされなくなった。君のために生きてきたはずだったのに、君から拒絶をされれば生きている意味さえ無くなってしまった。


 だけど、俺は諦めなかった。またいつか、君が俺を必要としてくれる日が来るはずだ、そう思って色んな人の痛みを貰って、どんな痛みだろうと耐えられるように、絵本に出てきた本物の神様になれるように色んな痛みを貰ってきた。


 そんな俺を止めにかかる人もいた。村田先生に、ヒーローに、能登さん。彼らは俺の力じゃなく、俺のことを見てくれていた。俺にはこの力しかないのだと、そう思い続けていた俺に、俺という存在そのものに目を向けてくれた。一ノ瀬さんも同じだ。俺の心配をしてくれた。俺を気にかけてくれた。そう、俺を見てくれていたんだ。彼らだけじゃない。きっと、君もそうだったんだろ。




 何で今まで気づかなかったんだろ。


 俺は、俺として存在できていたんじゃないか。

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