第8話 自分の痛み

 体育の授業があった日から数日が経った。俺が痛みを貰ったあのバスケ部は、青痣ができたものの、幸い捻挫で済んだようだ。しかし、未だに痛むのか、あの日以降松葉杖で生活をしている。


 それくらいだ。あの日から変わったことはそれくらいで、それ以外は普段と変わらない日常が流れていた。誰もお面の男子、ヒーローのことを言及しない。まるで、皆彼の存在を忘れているかのようにも見えてしまった。


 あの日ヒーローに言われた言葉。


『そんなの、ただの自己満足だろ』


 あの言葉が忘れられずにいた。俺は何のために痛みを貰い受けているのか。頭ではちゃんと分かっている。それは、人を笑顔にしたいからだ。それでも、そんな俺の行動が自己満足に見えてしまうのだろうか。それなら、村田先生のような医者も自己満足なのだろうか。いや、それは違うな。彼らは自己満足で誰かを救おうなんて考えていないだろう。むしろ、もっと純粋な気持ちで人々を救っているはずだ。なら、人に笑顔を与えるという意味で、お笑い芸人はどうなのだ。彼らは自己満足か。いや、これも違う。医者にしても、お笑い芸人しても、本気で人を救いたい、笑顔にしたい、そう考えて日々その仕事に取り組んでいるはずだ。


 俺と彼らの違いはなんだ。自己満足と、そうでない線引きはどこにある。それが職かどうか。いや、ヒーローはそんなことを言っていたのではないだろう。気持ちの問題だろうか。だとしたら、俺の『人を笑顔にしたい』という気持ちには決定的に足りないものがあるのだろうか。


 あの日以来、ヒーローが学校に来ることはなかったが、俺は毎日こんなことを考えては、答えに辿り着けずにいた。


「高梨。ちょっといいかな?」


 休み時間、そう言って俺を呼んだのは一ノ瀬いちのせさんだった。前回あの痛みを貰ってから二週間も経っていない。それにも関わらず、一ノ瀬さんは苦しそうな表情で俺に両手を合わせた。


「悪いんだけどさ、昨日からすっごい頭痛くってさ、だからさ、ちょっとこの痛み消してくれないかな?」


 華美な格好には似つかないほど畏まった態度。俺が今まで痛みを貰ってきた人の中で、一ノ瀬さんほど申し訳なさそうに頼んでくる人はいなかった。皆、教科書を忘れてしまったから見せてくれよ、みたいな感じで頼んでくるのだ。別に、それが悪いなんて思ってはいない。むしろ、それくらい自分が相手に必要とされているのだと、そう言われる度に実感できる。でも、一ノ瀬さんは俺を頼るというよりも、俺に助けを求めているようにも思えた。彼女の格好からは、とてもじゃないが、か弱い女性には見えないが、もしかしたら、彼女の本性はそうなのかも知れない。


「別にいいよ」


 俺が笑顔でそう答えると、一ノ瀬さんも笑顔になる。俺はこの瞬間が好きだ。


 この前と同じように椅子に座らせ、彼女の額に触れる。すると、彼女の表情はもっと明るくなる。俺はこの瞬間のために生きていると言っても過言ではないだろう。俺がいるから、俺が痛みを貰ったから、誰かが笑顔になる。それは俺にとっても幸せなこと。お互いに笑顔になれる、とても喜ばしいことじゃないか。それなのに何故、自己満足などと言われなければならないのだろうか。


「ありがとうね!・・・どうしたの?何か、難しい顔してるけど・・・」


 どうやら、あれこれ思考に耽っているうちに表情に出てしまったようだ。俺は慌てて顔を作り変えては、笑顔でいようと努めた。


「高梨って、優しいよな」


 突然、一ノ瀬さんがそんなことを言った。一度も言われたことのなかった言葉に、正直驚いてしまった。


「そ、そう?そんなことないと思うけど」


「いや、高梨は優しいよ。だって、誰かが痛がってたらどんな奴だろうと痛みを消してあげてるだろ?凄いと思うよ。私だったらさ、『お前の痛みなんだから、お前でどうにかしろよ』って思っちゃうもん。でも、高梨はそう思わないんだろ?それが凄いなって、で、優しいんだなって、さ」


 今までそんなことを考えたことがなかった。苦しんでいる人がいるから救う。そうすることが当たり前だと思っていた。だから、それは別に、優しいと言えないのではないだろうか。


「でもね、たまに高梨のことが心配になるんだ」


 『心配』。それは俺が一番されたくないもの。


 俺は大丈夫だ。心配なんてしなくていい。俺は自分でどうにかできるから、我慢できるから。だから、心配なんてしないで欲しい。


「高梨の痛みって、誰が癒してくれてるのかなって」


「俺の痛み・・・?」


 それはこの歪な心臓のことを言っているのか。それとも、他の痛みのことを言っているのだろうか。だとしたら、俺には痛みなどない。俺は誰かの痛みを貰っているだけで、自分に痛みなど抱えてなどいない。一ノ瀬さんが何故そんなことを言うのか不思議である。


「いや、私が勝手にそう思ってるだけだから!違ってたらごめんね!てか、本当、ありがとうね!」


 一ノ瀬さんは笑顔でそう言うと仲の良い女子の方に駆けて行った。




 俺が痛みなど抱えているはずがない。

 

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