第2話 君との境界線

 今から五年前のこと。俺は心臓に疾患が見つかり汐見しおみ総合病院に入院することになった。当時小学五年生だった俺は、一人知らない所で生活することに対して不思議と不安はなかった。両親の離婚をきっかけに母方の実家で生活していたせいもあるのだろう。俺は自分の人生に起こる全てのことが受け入れられるようになっていた。そういうものなんだ、そう考えることが生きていく上で最善策なのだと、小学五年生ながらそんな風に考えるようになっていた。


「はじめまして高梨たかなし優介ゆうすけくん。僕が担当医の村田です」


 そう言って白い病室に入って来たのは、二十代後半の若い男の人。白衣を纏ったその人は、俺の担当であると簡単な自己紹介をすると、今後の治療についての説明もしてくれた。


「優介くんは体が良くなったらやりたいこととかある?」


 難しい話を終えると、村田先生は笑顔でそう質問してきた。


 『やりたい』こと。普通に考えて、小学五年生位の子なら無限にあるだろう。外で思いっきり走り回りたい。友達とお喋りがしたい。美味しいご飯が食べたい。しかし、当時の俺には、そのどれもが頭には浮かんで来なかった。誰かが語る幸せな生活というものに興味がなかったのだ。正確には、『やりたい』と思えるものが一切なかったのだ。自分が置かれた現状をただ受け入れて、それをただこなしていく。そこから逸脱しようなどと考えたことはなかった。自分はただそうであると、決められたそれに従うことが俺にとっての最善だからと。


「何かやりたいことが見つかるといいね」


 無言で見つめる俺に、村田先生は笑顔でそう言ってくれた。




 一人での病室に慣れ始めたある日、真っ白な病室にノックの音が飛び込んだ。


「優介くん、この子が今日からこの部屋で一緒に過ごす姫奈ひなちゃんね。仲良くしてあげてね」


 そう言って、一人の女の子を紹介された。その子は看護師の服の裾を握りしめ、僕から逃げるように看護師の後ろに隠れていた。


 それが俺と姫奈ひなとの出会い。


 彼女は俺と同じ小学五年生で、重い病気に罹っているということで、手術と治療のために入院することになった。しかし、人見知りな性格のため、彼女の両親の強い希望で同い年の子と相部屋にして欲しいとのことで、俺がいる部屋に来ることになった。当時、汐見総合病院では姫奈と同い年の子供は俺しかおらず、偶然同じ部屋になったのだ。


 これまで一人だった部屋に他の人が来てしまったことに対して、俺は何も思わなかった。そういうものなんだと、深く考えず受け入れたからだ。


「はじめまして!僕、たかなしゆうすけ!これからよろしくね!」


 看護師が後はよろしくねと、姫奈を引き剥がすと、部屋を出て行ってしまった。気まずくなる前に、俺はとりあえず挨拶をした。姫奈と違って人見知りをする性格でもないため、俺は何の躊躇もなしに右手を差し出した。すると、彼女も恐る恐る右手を差し出し「しらいひなです・・・」と、俺の手を握り返してくれた。


 それからというもの、俺達は自然と仲良くなっていた。病室に来た当初は、俺が話し掛けてもおどおどした様子を見せていたが、次第に俺に対しての警戒が解けたのか、彼女から話し掛けてくることも多くなった。姫奈はよく自分の話をしていた。小学校の友人や、自分の好きなもの。そして、家族の話。俺は姫奈が家族の話をする度に胸が苦しくなった。自分には分からない、家族との幸せを語る彼女の笑顔を見ているのが辛かったからだ。


「でもね、私のお姉ちゃんちょっと変わった人でね。変にプライドが高いの。だからね、ちょっとめんどくさいんだよね」


 笑顔でそう語る彼女の前で、俺は必死に笑顔をつくり、頷いていた。


「そういえば、ゆうすけくんは兄弟いるの?」


 姫奈がそう聞いてきた時、二人分のカルテを抱えた看護師がコンコンとノックをして部屋に入って来た。


「姫奈ちゃん、優介くんこんにちは。今日はずいぶんと元気そうね。じゃ早速だけど姫奈ちゃん、お薬入れようか」


 俺はちらりと姫奈の表情を覗いてみた。すると、そこには先程までの笑顔は無く、変わりに青ざめて震える姿が目に入った。


「それじゃ点滴入れるから横になってね。悪いけど優介くんは少し待っててね」


 俺と姫奈との間にカーテンという隔たりができる。俺はこれが嫌いだった。俺はこの向こう側で何が行われているのかを見ることはできない。でも、何が行われているのかを想像する事はできる。見えなくても聞こえるのだ。


 姫奈はとても強い子だ。注射の時も、点滴の時も、泣いているところを見た事が無かった。当時の俺はそのどちらも嫌いだった。俺の担当になった看護師が毎日の様に「痛くないようにするからね」と言っていたが、痛いものは痛かった。だからカーテンの向こうから文句の声が一つも聞こえないものだから、彼女はとても強い人なんだと思っていた。


「じゃこの点滴が終わったらお薬入れるからね。さあ今度は優介くんの番ね」


 その時彼女がどんな顔をしていたのか、あの時の俺にはまだ分からなかった。




 病院の夜はとても静かだ。たまに慌ただしく歩き回る看護師や医師の足音が聞こえるが、それが無ければ至って快適に眠れる。


 ある日の深夜、俺はふと目が覚めてしまった。いつもなら朝まで起きる事が無いのに、この日からは違った。


 俺はもう一度眠ろうと枕に顔を埋める。しかし、どこからか聞こえる音に気が付き、辺りを見渡した。何の音かと思い耳を澄ますと、カーテンの向こうから微かだが苦しそうな息づかいが聞こえた。俺は体を起こすと、境界に手を掛けた。その瞬間、境界の向こうから「痛い...」という掠れた声が確かに聞こえた。俺はその時、はっとなった。普段は注射をされる時も、点滴で針を入れられる時だって何も言わない彼女が「痛い」と言ったのだ。


 俺は伸ばしていた手をゆっくりと戻すと、音を立てない様にそっと仰向きに寝そべった。


 俺らを隔たてる布は、心を隠すには余りにも薄かった。

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