第4話 神様の力

 病室に戻ると姫奈のお母さんと姉の姿はなく、ベッドの上に姫奈が一人、お母さんから貰った絵本を抱えて俺の帰りを待っていた。


「ゆうすけくん遅いよ。お母さんがゆうすけくんとお話ししたかったって言ってたよ。そうそう!ゆうすけくん本読んでくれるんだよね?!ねえねえ!読んで読んで!」


 そう言って彼女は抱えていた絵本を俺に手渡す。俺ははしゃぐ姫奈をベッドに座らせると、俺も自分のベッドに座り、その絵本を開いた。


 本の内容はとても有りきたりなものだった。一人の神様が傷付いた人達を救っていく、ファンタジーのようなものだった。その神様は不思議な力を持っており、病気や傷を負った人の額に優しく触れると、その人の病気や傷がみるみるうちに癒されていくという、何とも夢のある話だった。その神様は世界中の人を癒していき、最後のページでは世界が平和になり、沢山の人が神様に感謝をしている絵が描かれた、絵本ならではの話だった。


 俺はこの話を姫奈に読み聞かせると、彼女はとても嬉しそうな顔をしていた。


「いいな~、私のところにも神様来ないかな〜。だって、この神様がいればさ、私の病気も治るんでしょ?いいな〜来ないかな神様〜」


 俺はこの時何を言ったらいいのか分からなかった。「きっと大丈夫だよ」なんて、無責任な言葉は言えないし。だからと言って、この神様は空想上のもので、ありっこない話だ、とも言えなかった。それは、彼女が日頃どれだけ苦しんでいるのか、それを隣で見てきたからだ。


 だからこそ、俺はこの時あんな事が出来たのだろう。


「ひなちゃん!ちょっとそこでじっとしてて」


「ん?何するの?」


 俺は自分のベットから起き上がると、彼女のベッドの側まで近付いた。


「僕がその神様になってあげるよ!ほら目を閉じて」


 突然の事で、言われるがままに目を閉じる姫奈。そんな彼女の額に、右手の人差し指でちょこんと触れてみた。その瞬間、予想もしなかった事が起きた。


「あれ?何か体が楽になった!ねえ!ゆうすけくん!私なんか、気分が良くなったよ!」


 姫奈の声がまるで頭に入ってこず、全身には今まで経験したことの無い痛みが駆け巡っていた。


「どうしたのゆうすけくん?顔色悪いよ?ねえ大丈夫?」


 俺は必死に耐えようと我慢した。しかし、その我慢も長くは続かなかった。俺はいきなり部屋を飛び出すと、近くのトイレに飛び込んだ。そして、トイレの個室に入るや否や、胃の中の物を全て吐き出してしまった。


 あまりの苦しさに肩で息をする。胃の中が空になっても尚も続く吐き気。堪らず涙が出てきた。そして、堪えきれなくなったのか、声が漏れ出てしまった。


「苦しい・・・」


 自分が日頃経験している痛みとは比べものにならないくらいの激痛。一体何が起こったのか、全く理解できずにいた。


 俺は絵本の神様の真似事で姫奈の額に触れた。すると突然全身を激痛が襲った。その一方で、俺に触れられた姫奈は気分が楽になったと言っていた。まるで、絵本に出てきた話のように。


 そう、そこで俺は気が付いたのだ。俺は、姫奈の痛みを『貰った』のだと。


 絵本の神様は病気や傷を癒していた。しかし、俺はそうではない。ただ痛みを『貰った』のだ。触れられた本人は痛みが無くなったように思えるのだろう。しかし、実際は無くなったのではない。俺がその痛みを全て『貰った』のだ。


 しばらくして部屋に戻ると、姫奈が心配そうな表情をしていた。


「ゆうすけくん、本当に大丈夫?さっきもいきなり部屋を飛び出してさ・・・。顔色も何だか悪いよ?先生呼ぼうか?」


 今先生を呼ばれるのはまずい。当時の俺は直感的にそう感じた。


「大丈夫だよ!いきなりお腹痛くなっちゃってさー。だから、大丈夫!!」


 俺は未だ消えぬ痛みを噛み殺し、必死に笑顔でそう答えた。すると、姫奈はそれを信じてくれたのか、安心したように肩をなでおろした。


「良かった。そうそう!私ね、何か調子が良くなったんだよ!きっとゆうすけくんのおかげだね!そうだ!私もゆうすけくんにしてあげるよ!」


 そう言って彼女は手招きをして俺を横に座らせた。


「ゆうすけくんの病気も治れ〜!」


 彼女の小さな指先が額に触れる。俺はこの時少しばかり期待をしていた。しかし、俺の全身を蝕む痛みは無くなりはしなかった。


「どう?良くなった?」


 そう言った無邪気な姫奈の笑顔を壊さないように、俺は笑顔のままに答えた。


「うん!すごくよくなったよ!」


 張りぼてのような笑顔に、空虚な嘘。それは全て、姫奈の笑顔を見たいがために創り出したものだった。




 その日の夜。俺はまたしても目が覚めてしまった。境界の向こうから聞こえてくるのは相変わらず彼女の辛そうな声。俺はその日初めてその境界をこの手で掴むと、ゆっくりと取り払った。


 そこには胸に手を押し当て、背中を丸めて縮こまっている姫奈の姿があった。そこで俺は昼間の出来事を思い出した。もしもあれが本当に起こった出来事ならば、今の俺なら彼女を救える、と。浅はかな考えに囚われた俺は、歯を食いしばり、恐る恐る人差し指で彼女の額に触れた。


「っっ!!ぐっ!!」


 その直後、あまりの痛さに声が出てしまった。


 痛い。痛すぎる。こんなの耐えられない。


 俺は口に手を当て、自分のベットに倒れ込んだ。俺は声が出そうになるのを必死に我慢した。もしもここで俺が叫んでしまったら姫奈を起こしてしまう。その上、俺が苦しんでいるところを見られたなら、ナースコールを押されて、大騒ぎになってしまう。そんなことにはしたくなかった。何故なら、隣で寝ている姫奈はそれまでの苦しそうな表情とは打って変わり、とても穏やかな表情で、すやすやと眠りに就いているのだ。


 俺はこれまで姫奈がどれだけ苦しんでいたのかを知った。思わず声が出そうになるのを枕に押し当て、必死に我慢していたのだ。俺はこれまでの自分が悔しくなった。何が、何もかもを受け入れて生きているだ。自分よりも辛い状況にいる人だって自分の状況を受け入れて生きているんだ、と。自分がどれだけ空虚な人間なのか、姫奈の痛みを経験することで突き付けられたような気がしてならなかった。


 それから毎晩、俺は夜中に目を覚ますと、境界線であるクリーム色のカーテンを静かに開け、姫奈の額に優しく触れた。




 翌朝の彼女の笑顔が見たいがために。





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