6.17歳の誕生日

 彼の涙に対する悲しみや彼に対する優しい気持ち、温かい気持ちが複雑に入り組んだこの日の夕方の自分の表情を、わたしは将来思い出すことができないだろう。それくらい強烈なそのときだけの感覚だった。写真に残したとしてもそれは正確な表情ではなかっただろう。誕生日プレゼントにもらった文庫本の表紙はかわいくて、清廉で、彼がわたしに対して抱いているイメージはわたしの中の自己像とはややずれていることに気づいていた。それでもわたしは彼が抱いているわたしの像を崩したいとは思わないだろう。彼が愛しているわたしを保ちたいと思うだろう。

 文庫本の表紙を撫でていたら、渚が来た。わたしの誕生日パーティーに来てくれたのだ。母が誰よりも早く玄関に飛び出し、続いてわたしが行くと、彼女は頬を丸くして笑っていた。

「誕生日おめでとう!」

 彼女は襟元から黒いキャミソールが覗く派手な柄のTシャツに黄色のジーンズ、ブルーのパンプスを合わせた格好で、かなり彼女らしかった。こんな目立つ格好ができるのは、自分を強く持っているからこそだろう。

「ありがとう。さあ、上がって上がって」

 わたしは笑って彼女を家に招き入れる。

「今日ばっかりはタクシーで来ちゃった。もうバスなんてまどろっこしいもんね。自転車は汗かくし」

 渚はひっきりなしにしゃべりながらわたしの部屋がある二階に向かって階段を上がる。わたしはその前を行く。

「じゃあ、準備ができたら呼ぶから、二人でゆっくりしてなさい」

 母がにこにこ笑って階下から声をかける。渚が礼儀正しく「ありがとうございます」と答える。

 部屋に着くと、渚は黒いリュックからがさがさと何かを取り出した。小さな薄い箱だ。ラッピングがされている。

「誕生日プレゼント。どうぞ」

 嬉しく思いながら水色のリボンを解くと、ネイビーの箱からは白い布の袋が出てきた。巾着になったそれの中に指を入れて開くと、中にはきらきら光るブレスレットが入っていた。

「わっ、高いんじゃない? これ」

 藍色の不透明な石に金色がアクセントのように輝いている。それと交互に水晶が通されていて、今流行っている天然石のブレスレットだとすぐわかった。

「何の石? この青いの」

「ラピスラズリ。何か歌子っぽいと思ってさ」

 渚は上目遣いにわたしを見て、気に入ったかどうかを気にしている。それを見て、わたしは渚に抱き着いた。

「ありがとー!」

 渚はほっとしたように「よかった」と言う。わたしは、とても嬉しかった。友達からこんなに大切にされたことなんてなかったし、わたしが何色を好きなのかちゃんと気づいてくれる友達を持っていることが誇らしかった。わたしは青が好きで、渚はそれをわかっていたのだ。

「いつも持ってるね。学校でも持ってる」

「先生に取り上げられないでよね」

 渚は機嫌よく言う。わたしたちは、向かい合って手を繋いだまま、笑い合って見つめ合う。

「でも見つけちゃったんだけど、あたし」

 渚が指さす先のローテーブルには、あの文庫本が置いてあった。ラッピング用の袋と共に。総一郎からのプレゼントに気づいたらしい。

「へー、本当に本にしたんだ。面白い?」

「まだ読んでない。でもすっごく嬉しい」

 文庫本を手に取ってうっとりと笑っていたら、渚は突然わたしを抱き締めた。

「あー、篠原が憎らしい。結局本一冊であたしのプレゼントより喜ばれてる」

「そんなことないよ。渚のプレゼントもすごく嬉しい」

「絶対二番目でしょ? 悔しい。歌子に酷い仕打ちをしたくせに、あいつ」

 わたしはけらけら笑い、渚を引き離す。あのとき、一番優しくしてくれた渚のことを、わたしはしっかり覚えている。総一郎に烈火のごとく怒ってくれた渚に、わたしは頭が上がらない。

「渚が一番優しいよ。総一郎に振られたら、渚の彼女にしてもらお」

 渚は、あははと笑った。


     *


 誕生日パーティーは、いつだって両親と三人か、拓人を含めて四人だった。今年はそんなこともなく、渚と四人だ。暗くしたダイニングでわたしの名前が書かれたケーキを囲み、誕生日の歌を歌い、1と7の形をした二本のろうそくに灯った火を消し、皆で拍手をして笑い合う。まるで小学生の誕生日だし、反抗期真っ盛りだった去年までは嫌で仕方がなかった。でも、今年は素直に嬉しい。父が電灯のスイッチを入れると辺りは夢から現実に戻ったかのように明るくなり、それでも誰も彼もがご機嫌な顔だ。

「歌子も十七歳か。早いもんだな」

 父が感慨深げにろうそくを見つめる。

「でも彼氏はまだ作らなくていいからな」

 わたしは誤魔化すような顔どころかそれが全くありえないことであるかのような態度で笑う。渚はそれを見てにやりと笑う。

「さあさ、お父さん渾身の傑作を食べましょ」

 母が大皿を持ってきた。父が作ったパエリアだ。オレンジ色のご飯は目に鮮やかで、そのままの姿の海老やあさりからする磯の香りがぷんぷんと匂ってくる。父が得意げに全員の皿にそれをよそう。

「わざわざ料理教室に行ったんだぞー。これしか作れないけどな!」

 わたしたちは賑やかに笑い声を上げる。そんなとき、わたしのテーブルの上に置いていた携帯電話が鳴った。ふと見ると、拓人からだ。

「誕生日おめでとう! 今年は行けなくて残念。ところで今度荒井トロピカルランドに行かない?」

 脈絡がない。びっくりしながらトークルームを見ていると、「あ、四人で。篠原と静香と」と続いた。眉根を寄せて考え込んでいるわたしに、渚が「どうしたの?」と訊く。拓人とのやり取りを見せると、「えー?」と嫌な顔をした。

「どうした? うまいだろ、パエリア」

 父の言葉にわたしたちは笑みを向ける。そしてまた食事を再開する。携帯電話がまた鳴った。今度は渚からだ。隣の席にいるのにわざわざアプリでメッセージを送るということは、先程のことに違いない。

「何か嫌ーな予感がするからやめといたほうがいいんじゃない? 浅井の彼女に好かれてないんでしょ?」

 と書いてあった。わたしはしばらく考え、

「せっかく拓人が誘ってくれたんだし、ちょっと考えてみるよ」

 と返信した。渚は微妙に納得していないような表情で携帯電話を見つめ、「オッケー」とつぶやいてわたしを見た。わたしは何故か拓人の提案に乗り気になりかけていて、もしかしたら片桐さんと仲良くなれるかも、などとお気楽なことを考えたりしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

蜂蜜製造機弐号【改訂版】 酒田青 @camel826

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ