5.彼の涙

 総一郎は、九月に入ってから少し不安定だ。いつも以上に岸君の言葉に笑って、こちらが戸惑うようなときもあれば、物思いにふけってわたしの言葉が聞こえないときもある。「来たな」と岸君が言った。「篠原は九月になるとこうなるんだ」と。


     *


 わたしが話しかけて、十秒以上の沈黙のあと、総一郎ははっと顔を上げた。

「ごめん、考え事してた。何か言った?」

 わたしは首を振り、いいよ、と答える。本当は演劇部で起こった楽しい出来事について、彼からのコメントと笑顔がほしかったのだけれど。もしかしたら、王先輩のことを考えていたのだろうか? 答えのないもやもやした感情に、頭の中が支配される。わたしと話すのはつまらないと思われているのだろうか?

 そんなときに総一郎が先生に呼び出され、手持無沙汰な二組での休み時間に、渚ではなく岸君が近づいてきた。いつものにこにこした岸君ではない。ちょっと真面目な顔で、でも明朗な性格なので口元は微笑んでいる。岸君は総一郎の席にどかっと座った。そしてあの言葉を言ったのだ。どういう意味? と訊く。だって九月はわたしと総一郎が仲良くなった月で、そのときは何も感じなかったのに、と。

「あのさ、篠原のお母さんが亡くなったの、一昨年の九月なんだよ」

「……そうなんだ」

 ようやく腑に落ちた。総一郎は、お母さんのことを思い出していたのだ。全く気づかなくて、おまけに王先輩のことまで絡めて考えてしまい、申し訳ないことをしてしまった。

「町田が去年わからなかったのも、当然だと思う。篠原、町田と仲良くなったばかりですげー喜んでたしな」

 岸君は悪戯っぽく笑う。わたしは微笑み、それでも罪悪感に胸をざわめかせている。

「今年は三回忌法要があると思う。それで家がばたばたしてて、余計思い出すんだと思うよ」

「そう」

「だから何というか……」

 岸君はわたしを上目遣いに見上げた。

「そういう篠原を受け入れてやってほしいんだ」

 わたしは、岸君の総一郎への優しさに、突然感謝した。彼は総一郎をよく知っていて、考えてくれて、親切にしてくれる。彼が総一郎の友達であることが、とてつもなくありがたかった。

「うん。そうする。何か色々考えちゃってどういう風にするとかは考えてないけど、そうするよ。ありがとう」

 岸君が微笑んだ。それから突然立ち上がり、大きな音を立てる。

「篠原には今の話、内緒な」

「わかった」

 うなずいて手を振っていると、総一郎が現れた。わたしを見ながら元の席につく。

「さっきはごめん」

「いいよ」

 にこっと笑って何事もなかったかのように振舞う。総一郎は椅子を見下ろし、

「何か椅子温かいな。岸だろ」

 と顔をしかめつつ笑った。わたしはにこにこ笑って、彼と今月をどう過ごそうか、考えた。


     *


 朝、携帯電話のメッセージで目覚めた。眠いのをこらえて、もぞもぞと枕元の携帯電話を見る。総一郎からだった。大慌てで起きる。

「誕生日おめでとう。昼過ぎにそっちに行こうと思ってるんだけど、大丈夫?」

 そうだった。今日は誕生日だった。もちろん昨日は覚えていたのだけれど、寝ぼけて一瞬思い出せなかったのだ。夜は渚を交えての誕生日パーティーだから渚は夕方来るが、昼過ぎなら大丈夫だ。そう書いて送ると、彼は珍しく絵文字を使い、メッセージを返してきた。「誕生日プレゼント持って行くよ」と書いて、本をかたどった絵文字をつけたのだ。本? と考え、プレゼントは本がいい、と言ったことを思い出した。彼はそれを覚えてくれていたのだ。

 急に舞い上がるような気分になった。朝の準備を済ませる前から今日着る服を吟味する。ロングスカートがいいだろうか? パンツスタイルがいいだろうか? 服は白? 青? つき合って間もないような気分はまだ続いていて、それはイベントごとに再燃する。彼はきっとスカートのほうが好きだ。色も、きっと白が好きだ。そういう思考はつき合った年月を表していて、わたしは彼にとってのわたしの好きなところをかなりわかっている。結局白のブラウスに青系のチェックのフレアスカートを合わせることにした。待ち合わせは近くの河原で、いかにも汚れそうな格好は避けたほうがいいが、彼にいい印象を与えたいがために、それでいいことにした。

「お洒落したのねえ」

 準備を終えて鏡の前で化粧の出来をチェックしていると、母が少し不思議そうにわたしを見ていた。

「誕生日だからね」

 わたしはにっこりと笑う。最近、総一郎と出かけるときの誤魔化しの技術は洗練されてきた。もう全くうろたえないし、次から次にでまかせが口から出てくる。いつかは紹介したいけれど、何となくできない。父も母も、わたしを溺愛しているからだ。彼を紹介して、一体どうなるのか、全くわからない。

 昼食を済ませたあと、「ちょっと友達に会いに行ってくるね」と席を立つと、父が笑いながら、

「おいおい、落ち着いて食べろよー。彼氏に会いに行くみたいなはしゃぎようだぞ」

 と漬け物を口に放り込んだ。一瞬その表情を観察する。にこにこ笑い、機嫌はよさそうだ。この間総一郎たちと出かけたことは知っているけれど、名前はちゃんと出したことがないし、疑っている様子もない。それだけの考えを巡らせ、わたしは笑みを作る。

「違うよー。女の子の友達だよ。プレゼントをくれるんだって」

 両親は満足げに笑った。これで大丈夫だ。わたしはほっとして洗面所に歯磨きに行く。ちょっと会うだけでもスリリングだ。

 歯を磨き、カラーリップクリームを塗り、唇が赤く染まったのを確認し、笑みを作る。鏡の中のわたしは、頬を紅潮させていて、嬉しそうだ。

「行ってきます」

 わたしはスニーカーをつっかけて走り出した。


     *


 河原の河川敷の上の道には自転車が停まっていて、その近くの階段状の部分を見ると、彼が手持無沙汰に座っていた。Tシャツ姿の彼は、この間の体育祭で黒く焼け、健康的だ。

「総一郎ー!」

 声をかけると、ぱっと明るい顔になる。わたしのために作った笑顔だ。うきうきと楽しくなってくる。階段を降り、彼のいる段に隣り合うように腰かける。

「暑いね」

「うん」

 彼はわたしの格好をまじまじと見た。笑ったまま、

「似合うね」

 と言う。わたしは意地悪な気分になり、

「かわいいって言いたいんでしょ」

 と詰め寄る。こういう風に言うと、彼はいつだって真っ赤になって口ごもるのだ。でも、今日は違った。

「うん。かわいい」

 あっさりと答える彼に、わたしは却って戸惑い、ついには顔を赤らめてしまった。彼ほどは日焼けしていないから、きっとばれている。でも、彼は何も言わない。

「誕生日、おめでとう」

 彼の言葉に、笑みがこぼれる。彼は肩にかけたメッセンジャーバッグから小さな包みを取り出した。リボン付きのシールが貼られた、ピンク色の、かわいらしい袋に入ったもの。わたしに差し出す。わたしは恐々と受け取る。

「本、だよね」

「うん」

「うわあ、何だろう」

 わくわくしながらセロファンテープを丁寧に剥がす。紙袋を開き、中身を取り出す。文庫本だ。クリーム色の表紙で、かわいらしい雰囲気の。

「んー、『第七官界彷徨』?」

 あらすじを見る。第六感を超えた感覚の詩を書きたい赤毛で縮れ毛の女の子。一風変わった恋愛小説。戦前を舞台としているらしい。

「面白そう! ありがとう」

 顔を上げると、総一郎は照れたように笑っていた。

「何か、その主人公が歌子に似てる気がしてさ。もちろん違うところもたくさんあるんだけど、読ませたくなって」

「ありがとう」

 嬉しくてたまらなくなり、わたしは総一郎の腕に抱きついた。彼の顔を見ると、赤く染まって日焼けと一緒になっておかしな顔色になっている。わたしは彼から少し離れ、くすくす笑う。

「わたしのために選んでくれたなんて、嬉しいな」

「……選ぶ期間が長かったから、すごく迷った」

「他の候補も知りたいな」

 彼は指を折って五つくらい挙げてくれた。どれも女の子が主人公の、優しい雰囲気の小説だった。詩集なども候補に挙げてくれていて、それもとても嬉しかった。彼はその作品全部にわたしを見てくれているのだと思って。

「来年も楽しみだな。何をくれるんだろう」

「来年もつき合ってくれてるなんて、ありがたいな」

 彼は真顔で言った。驚いて、「当然でしょ」と返す。彼は反応が薄い。

「おれ、この間のことでホント自分のことがしょうもなく思えたから、歌子がそう思ってくれてるのに本当に驚く。歌子のそういうところに見合ってるのかな、と思って」

 彼はそういう悲しい言葉を、九月の水色の空に向かって当たり前のような顔で言うのだ。わたしは驚いて彼の顔をまじまじと見る。彼はそれを見返し、また空を見る。

「総一郎は自分に自信がなさすぎ」

「しょうがないよ。歌子のほうが人間できてるんだし」

「わたしがどれだけ総一郎のこと好きか、わからないんだ」

 彼はやっとわたしを見つめ返す。わたしはどきどきしながらようやく決意し、彼の肩に素早く触れ、急いでキスをする。触れるだけのキスは、彼に有無を言わせない速さで終わる。顔が真っ赤になるのがわかる。自分からキスをするのは初めてだ。

「だから、そういうこと言わないでね。あと、本すぐ読むね……」

 何を言っているのかわからなくなる。よほど混乱しているらしい。肩がぐいっと引き寄せられる。彼が肩を抱いてくれているのだ。頭が彼の肩に乗る。

「ありがとう。何かすごく元気出たし嬉しい」

「よかった」

「……昨日、母さんの三回忌法要だったんだ」

 思わず顔を見る。彼は、わたしを見ていた。笑っていたけれど、少し悲しそうに瞳が揺れた。

「会場でやったんだ。母さん、友達多かったからな。色んな人が母さんの思い出話をしてた。前日は、そういうのが受け入れられない気がしてたけど、当日になったら何か、すっきりした気分でいられた。しばらく前に、家族で母さんの話をしたからかもしれない。そのあと、母さんの話題を平気で出せるようになったからかもしれない。父さんと、話せるようになったからかもしれない。とにかく、気持ちが晴れるにはまだ早いけど、前よりはずっと整理がついてた。……何というか、歌子に出会ってからの一年半で、随分回復してたみたいだ、おれ。で、夜、父さんが手紙を出してきて……。母さんからの手紙だった。しばらくしたら渡すように言われてたらしくて。母さんの気持ち、痛いほど伝わってきて。おれや優二のこと、本当に遺したくなかったんだろうなって」

 涙が出そうになった。でも、わたしは泣くのをこらえた。だって、総一郎が泣いていたから。つうっと一筋、彼の目からは涙が流れていた。

「あれ。ごめん。整理ついたとか回復したとか言ってたのに、何か……」

 総一郎を抱きしめる。彼はされるがままになっている。小さくて意地っ張りな子供のように、鼻をすすり、涙を早く止めようと目頭を押さえ、――ついには堰を切ったかのように嗚咽を漏らした。わたしは抱きしめ続けた。彼はわたしを抱き返した。彼はわたしの体を掻き抱くかのように強く抱き、わたしは彼と限界まで密着した。彼の泣き声が体に伝わる。彼の悲しみを全て引き受けてあげたい気持ちになる。

 それからしばらくして、彼はゆっくりと体を離し、顔をてのひらや腕で拭い、ため息をついた。

「情けない」

 わたしは彼の充血した目を見て、そんなことないのに、と思う。

「こんなに泣くの、母さんがいなくなって初めてかもしれない。あー、すげー恥ずかしい」

 笑って誤魔化そうとする彼の隣で、わたしはただ黙っている。

「ごめんな。記憶から消して」

「消さないよ」

 わたしはコンクリートの段に置かれた涙で湿った彼の手を握り、遠くを見つめる。

「だって、総一郎の大事な日だって思うから」

「あー……。そういえば、今日歌子の誕生日だったのにな。ごめんな」

「ううん。いい誕生日になったよ」

 わたしは微笑んで、彼の顔を見た。彼は、少し弱々しい笑みを見せ、わたしの手を握り返した。

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