4.不安も不満も全てくるんだまま
多目的室を出て、渚がふと後ろを振り向いた。それから不満げな顔で前を向き、彼女のほうを見ていたわたしと目が合った。「何あれ」とその目は言っていた。わたしはそれを見て、安堵した。王先輩の存在を知ってあまりいい気分にならなかったのは、わたしだけではないらしい。
「ね、篠原。王先輩って篠原と仲いいの?」
渚は総一郎の横に並ぶと、そう切り出した。わたしが訊けない質問だから、ありがたかった。
「うん」
総一郎は先程のようにリラックスした表情で答える。
「普段どんな感じなの?」
そう訊かれると、彼は少し考えた。
「無駄なことばっかり話してるよ。景気がどうだとか、学校の近くのパン屋の新メニューだとか、弟の優二がハマってるゲームだとか」
全部わたしとはしない話題だ。わたしは渚とは反対隣でムッとしている。彼としては、相手に合わせて話題を変えているのだろうが、わたしとはしない話を誰か仲のいい女子生徒としているというのは気に食わない。
「王先輩っていい人?」
「そりゃあね」
彼は渚にそう答え、わたしを見下ろし微笑みかける。わたしは笑みを返す。それでも、この気持ちは満たされない。
「ふうん」
「何だよ」
渚のもの言いたげな様子に、総一郎が苦笑を浮かべる。
「何というか、あんたにも仲のいい他の女子がいたんだねえって思ってさ」
総一郎は戸惑った顔をする。彼女を見て、わたしを見て、首をかしげて困ったように笑う。渚がわたしの隣に移動しながら、「鈍いんだよ」と毒づく。
何かが変わるとは、思わない。でも、何だか重たい塊を呑まされたような気がしてならない。
*
翌日の体育祭は、快晴だった。最悪だ。運動神経の悪いわたしは、何の競技に出ても最下位で、クラスメイトたちを盛り上げることができない。女子の部の徒競走を終え、ぐったりと六組との合同の休憩所に座り込む。すでに中にいた大谷さんと川野さんが、手をひらひらさせて「お疲れ」と言う。
「暑いー」
とぼやくと、「溶けるよね」「死んじゃうよね」と二人は笑った。大谷さんは元々運動が苦手で、わたし同様体育祭が苦手らしい。「仲間!」とすり寄ると、「暑い」と遠ざけられた。川野さんは元バスケ部だけあってどの競技でも上位を獲得していたけれど、やはりバスケ部のメンバーの目に晒されるのが嫌らしく、早々にここに避難していた。そもそも気温が高く、日陰に逃げてもそれなりに暑いので、じりじりと顔が焼けていくのを感じる。汗の匂いや日焼けなど、気にすることも多い。
「次、篠原君出るんじゃない?」
川野さんが指さした方向に、にょきりと背の高い総一郎がいて、もうすぐ走るようだった。百メートル走だ。同じ組には、拓人。どっちを応援しよう、と思った瞬間に、クラウチングスタートのポーズは取られ、スターターが乾いた音で鳴る。
「総一郎ー! 頑張れー!」
気づけば総一郎を当たり前のように応援していた。彼は勢いよくこちらに近づいてきて、たくさんの男子を追い抜いて、わたしの目の前で拓人と共にトップを走り抜けていく。横顔が真剣で、何だかわたしの知らない人のようで、とても美しい。
「総一郎!」
砂埃を立てて、あっという間に彼らの競技は終わってしまった。総一郎と拓人のどちらが勝ったのかはわからない。でも、わたしは見てしまった。
ゴール近くにいた上級生たちの群れの中に、王先輩がいたのを。彼女が総一郎に声をかけて、彼の裸の腕に触れたのを。彼女が笑い、彼が笑い返したのを。
何を話したんだろう。どんな親密そうな声音で? 彼女はどうしてわざわざ彼に触れたのだろう。
呆然と見ているわたしを、大谷さんたちが明るく笑いながらからかう。どうやら彼女たちにはさっきの光景は見えていなかったらしい。総一郎が振り向く。わたしに笑いかけて、こちらに来ようとする。その前に拓人が走って戻ってきた。何だか不満そうな顔で。
「歌子。篠原のことしか応援してないじゃん」
「いいじゃん。彼氏なんだから」
「……いいんだけどね。同じクラスなのに無視されてもね」
「ごめんって」
拓人はようやくけらけら笑った。それからすぐに真顔になり、ささやき声で話し出す。
「あのさ、さっきの人……」
総一郎が近づいてきた。拓人がそれに気づき、「じゃ、おれ静香のとこ行ってくる」と愛想よく走り去る。総一郎は鋭い目つきで彼を見たあと、わたしに笑いかける。立ち止まった彼の靴は、わたしのそれよりもはるかに大きく、土で汚れている。
「応援してくれただろ」
彼は微笑んでわたしを見下ろす。汗が幾筋も垂れ、顔も腕も浅黒く日焼けしている。体操服の袖で汗をぬぐい、自らの右腕を見て「焼けたな」とつぶやく。
「速かったね。何位だった?」
わたしの質問に、彼は不本意な顔で、
「二位」
と唇を曲げる。「すごい!」と褒めると、少し不機嫌になった。
「浅井に負けた」
「いいじゃん。拓人めちゃくちゃ速いんだから仕方ないよ」
「そう」
彼は視線を逸らし、次にわたしを見る。
「歌子も日焼けしたな」
「えっ、嘘っ」
勢いよく腕を見るわたしの反応に、彼は声を出して笑う。でも、日焼け止めをしっかり塗っていたのだ。全く嬉しくない。
「歌子は他の女子と比べてもそんなに焼けてないよ。普段運動しないからな」
「もう」
彼のからかいに、わたしは唇を尖らせる。このやり取りで少し気分がよくなった気がする。彼はずっとわたしのものだとは限らない。でも、ずっとこういう交流を続けていれば、わたしたちはずっと関係を維持できるのではないか? 何もかも、全くわからないけれど。
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