3.嵐が吹き荒れる
わたしはメタモルフォーゼを遂げ始めていた。過去の自分から、未来の自分へ。何か別のものになっていく感覚が、わたしの心をずっとざわざわと騒がせていた。舞台の下の人たちは、わたしたちの劇にひどく感動してはいなかった。わたしたちの劇は、他の出し物とは少し異質なだけの何かだった。もしかしたら誰の心も感動させてはいないかもしれない。うまく行っても感情を表面的に撫でただけかもしれない。
でも、わたしは変わっていた。何となく、固い塊がわたしの中に生まれていた。芯、とでも呼べそうなそれは、わたしをしっかりと中から支えていた。それがどういう方向にわたしを導くのかはわからなかった。いい方向か、悪い方向かもわからなかった。ただわたしの中にはそれができていた。
衣装を身にまとったまま、控えの部屋から舞台下に出る。生徒たちは既に新しい出し物を観たり、体育館を出たりしている。何人かがわたしたちを見た。でも、すぐに舞台に視線を戻した。
「やっぱりちょっと小難しかったかなー」
大谷さんが肩を落としている。達成感のあとに、問題点についての反省が次々出て来たらしく、彼女は誰よりも早く次に向かっている。
「いいじゃん。熱心に見てくれてる人もいたし、わたしは満足だよ」
川野さんが重い荷物を下ろしたかの軽やかな表情で大谷さんに声をかける。
「わたし、うまくやれたでしょうか……」
真島さんが自信なさげにしているのを、
「真島さんはすごかったよ! わたし、ずっと安心していられた!」
とわたしが励ます。真島さんはほっとしたように笑い、幼い顔になる。
総一郎が体育館の出口で待っていた。大谷さんと川野さんが顔を見合わせてにっこり笑う。彼がわたしの何なのかわかっていない真島さんと石田君を、引っ張って連れて行く。視聴覚室で、衣装を脱いだりメイクを落としたりしなければならないから。
「何か、歌子じゃないみたいだった」
「そう?」
総一郎はまじまじと不思議そうにわたしを見、確かめるようにわたしの顔を覗き込む。
「何?」
「何かさ、メイクのせいもあるんだろうけど、今にも別人に変わりそう」
「何それ」
わたしは笑う。彼はそれを見てほっとしたように微笑みを作る。それから少し考え、こう提案する。
「あとで書道部の展示を見に来ない? 人が来なくて困ってるんだよ」
「うん。渚も誘おう」
わたしはずっと気分がいい。初めて食べるおいしいものを食べたときのような、ちょっとした距離を全速力で走り抜けて緩やかに速度を落としていくときのような、さわやかで明るい気分だ。
「まあ、雨宮がいいって言うんなら」
「渚はもう怒ってないよ」
この間、総一郎がわたしに怒ったとき、渚はその様子に腹を立て、しばらく二人はぎこちなかったのだ。総一郎がわたしを無視するたびに、烈火のごとく怒り狂っていた。総一郎は反省しているが、謝ったり釈明したりはしていないので、まだぎくしゃくしたままだ。今後も総一郎は反省の気持ちを表す気がなさそうで、渚のほうはわたしのために仕方なしに許そうとしているように見える。
わたしは渚と連絡を取ろうと携帯電話を探した。着ているのは衣装なので持っていないことに気づく。途端に、「ここ、ここ!」と声がして、体育館の外廊下に渚が現れた。勢いよく走り寄り、わたしを後ろに倒してしまうくらいの勢いで飛びついてくる。
「よかったよー! 大声出てて、かっこよかった」
「ありがとう」
渚はわたしから離れて衣装やメイクを眺める。
「すごいね。これ皆でやったんだ」
「うん」
「すごいよ、すごい」
渚はわたしが頑張ったことに感動してくれているのだった。とてもありがたい友達だ。しばらく話し、そろそろ衣装を片づけたい、と大谷さんに言われたのでその場を去った。振り向くと、総一郎と渚が微妙な表情で並んで立っている。手を振る。二人とも振り返してくる。
こんなに気まずい様子であっても、二人は友達だ。きっとまた仲良くなれるだろう。大丈夫だ。
わたしはドレスの裾をひらめかせて駆け去った。
*
書道部の展示は化学室や家庭科室などがある多目的棟の二階にあるそうだ。わたしと渚は総一郎から説明を聞きつつ廊下を歩く。
「部員は十人もいないんだ。ほとんど他の部活との兼任だし。でもレベルは高いよ。書道が好きな人ばかり集まってるから」
「あのさあ、書道が好きってどういう気分なの?」
渚が難しい顔で訊く。総一郎は一瞬考え、「さあ」と答える。
「おれ、そんなに書道好きじゃないよ」
「え、じゃあ何で入ったの?」
わたしが訊くと、彼は柔和に微笑み、
「誘われたから。あと、得意だからだな」
と答えた。わたしと渚は顔を見合わせ、首をかしげる。仕事でもないのに、「得意だから」はないだろう。きっと誘ってくれた人がとてもいい人なのだ。
「ねえ、誰が総一郎を誘ってくれたの?」
「ああ、じゃあ、紹介するよ」
彼が立ち止まったところが書道部の展示室らしい。入り口付近には本当に人気がない。中に入ると、パーテーションで区切られた写真部と書道部の展示があった。写真部はいくらかましだ。華のある写真が大きくプリントされて、コラージュのように何枚も重ねられている。二、三人は展示を見ていた。問題は書道部だ。本当に誰もいない。パーテーションの中に入ると、大小様々なクリーム色の紙に美しい毛筆の文字が書かれている。きっちり整った漢字だらけの作品。崩し字のひらがな交じりの作品。
「総一郎のはどれ?」
わたしが訊くと、彼は一際大きな作品を指さした。きっちり同じ文字数の漢字の列が並んでいる。近寄り、離れ、ためつすがめつ見る。それだけが輝いて見えて、惹き込まれてしまった。彼の几帳面な字は、全く崩れずにマス目を作るかのように並んでいた。
「漢詩?」
「うん。七言古詩」
「古詩?」
「学校で教わってるのとは違う形式の漢詩もあるんだ」
「へえ。すごい」
総一郎はわたしに内容を説明する。軍馬についての詩だ。戦場で勇ましく活躍したその馬は、西安に戻ってきて人々に称えられる。説明だけでもわくわくしてくる、物語のある詩。総一郎に彼の作品を説明してもらえるのは、何だかひどく嬉しくて、悲しいくらいだ。こんな瞬間は再びないかもしれない。彼とずっと一緒にいられたとして、またこんな機会を得ることも、同じように喜べることもないかもしれない。
そんな幸せな時間は、次の瞬間には消えていた。
「ソウ?」
女性の声がして、わたしたちは振り向いた。大人びた声だったので先生かと思ったが、その人は制服を着ていた。凹凸のある成熟した体型で、身長はわたしくらい。象牙色の肌をしていて、艶のある長い黒髪はポニーテールにして、唇はぽってりとして赤い。ひどく魅惑的な人だった。
「ケイ先輩」
総一郎が明るい声を出した。わたしは驚く。そして彼の顔を見る。にっこりと、笑っている。胸がざわめいた。
彼の本当の笑顔は、わたしだけのものだったはずだ。仲のいい友達や岸君や渚でさえ滅多に見られない、わたしの、わたしだけの。
びゅうびゅうと、胸の中で嵐が吹き荒れる。警戒音が鳴る。
「友達と展示を見に来てたの?」
総一郎がケイ先輩と呼んだ女生徒は、わたしと渚を見た。体が強張る。彼女の長い睫毛の下の目は、わたしと渚の間をさまよっている。
「ああ、ケイ先輩には紹介しないと」
総一郎が朗らかな声を出しながらわたしのそばに立つ。
「おれの彼女です。町田歌子」
一瞬、彼女は唇を噛んだ。目を見開き、わたしをじっと見つめ――。
ああ、この人は総一郎のことが好きなんだ。
すぐにわかった。彼女はわたしを見て悲しんでいるから。総一郎のそばに立っているわたしを。このきれいな人は、わたしに嫉妬しているのだ。
「で、歌子と雨宮には紹介するけど、この人は王桂花先輩。お父さんの仕事の都合で中国から来てて――」
彼女の名前も、出自も、どうでもよかった。
「部長やってて、おれを書道部に誘ってくれた人なんだ」
彼をここに引きとどめる人であるという、その事実だけがわたしを苛んでいた。
「すいません、歌子のこと、隠してたわけじゃないんですけど」
総一郎は王先輩の前で照れ笑いをする。彼女は引きつったように笑い、
「……ううん。わたしはソウの先輩でしかないんだから」
とか細い声を出した。わたしはじっと彼女を見ていた。彼女もわたしに気づいた。目が合う。すぐに逸らされる。
「歌子はすごく素直なので、ケイ先輩ともうまくやれると思います。そうだよな」
総一郎が無邪気に振り向く。わたしはこくりとうなずき、「そうだね」と笑う。
そう答えながらも、わたしは魔女のように意地悪になってしまいそうだ。だって、――総一郎が自分だけのものであり続けるという漠然とした期待は崩れ去ってしまったから。もしかしたら彼がわたし以外の誰かのものになってしまうこともありえるとわかったから。
わたしは彼を独占したかった。誰にも渡したくなかった。それは、渇望だった。
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