2.演じるということ

「世界が変わる……」

 昼食のときにぼんやりつぶやいた言葉を、渚は耳ざとく拾い上げた。

「何? 演劇の話?」

 今日の彼女のお弁当のメインは、ウインナーだ。ご飯の面積が広くて、三村さんは相変わらず手を抜いているんだな、と思う。お手伝いさんの仕事は大変なんだろうけど、もう少し栄養に気を配ってほしいな、とも。わたしが心配することではないかもしれないけれど。

「世界が変わるって、今日やる劇の設定の話?」

 渚がなおも話しかけてきて、ようやく現実に戻った。今、わたしは昼休みに渚と自分の教室でご飯を食べていたのだった。岸君が参加しないので、総一郎はたまに気を遣って彼と一緒に食べている。話を聞いてあげているのかもしれない。

「ううん。まあ今回の劇は世界というか、世界観が変わる話なんだけど、そうじゃないんだ。演劇やって、世界が変わることなんてないって言われたんだよね」

「誰から?」

「……まあそれは置いといて。わたし、演劇をやって世界が変わるなんて思ってなかった。初めてのことをするから、そりゃあ緊張するかなと思うけど」

「世界が変わるって、多分周りの人たちの自分を見る目が変わるってことだと思うよ。そういうことは滅多にないし、まあそれ言った人の言うことももっとも」

「そっか」

「でもそれをわざわざ言葉にするってことは、自分がそれを一番願ってるってことだと思う」

 はっとした。川野さんのことを考えていて、一番それがしっくり来た。

「そうかもね」

「でもさあ」

 渚は首をかしげ、少し上を見ながら続けた。

「そんなの他力本願じゃない? 世界は、簡単には変わらない。何もしなかったら、絶対に変わらない。変えたかったら行動したり、自分を変えたりしなきゃ。それもやっぱりすごく難しいことだけどね」

 わたしはじっと渚を見つめた。渚はわたしをじっと見つめ返し、「何?」と訊く。くすっと笑い、わたしは答える。

「ううん。渚は何でもわかってるなと思って」

「何それ」

「何だかすっきりした」

「ならいいけど」

 渚はウインナーを口に入れ、いい音をさせながら食べた。わたしは微笑んでいたけれど、これは今ある問題の直接の解決策になってないなと気づいた。

 川野さんは、今日の舞台をひどく怖がっているのだ。


     *


「午後の部スタートでーす。町田さん、準備はいい?」

 食事を終え、渚と話していると、大谷さんがいつものようにパワフルな笑顔でやってきた。わたしは少し緊張で胃に圧迫感を感じていて、準備がいいとは言いにくかった。

「緊張するよ、大谷さん」

「そんなの初めてなら当然! さあ行こう」

 大谷さんはわたしを立たせ、背中を押しながら歩き出した。気持ちがざわざわと風が吹くみたいに荒れる。渚に手を振り、渚は笑い、わたしたちは別れた。総一郎と話せばよかったな、と今更思う。そしたら、もう少し落ち着けるのに。

 視聴覚室に入ると、真島さんたちが待っていた。真島さんはすでに着替え、あとはメイクだけすればいいらしい。川野さんは、力なく椅子にうずくまっていた。台本を手に持ち、それをじっと見つめている。昼食は、どうしたのだろう。教室にはいなかったけれど。ちゃんと食べたのだろうか? 女子トイレの件以来、わたしはずっと川野さんが心配だ。石田君が真島さんの衣装を整え、お姉さんから借りたというメイク道具――それも何十色もあるアイシャドウパレットなど――を持ち、メイクを始めていた。石田君は本当に器用だ。

 顧問と副顧問の中村先生と幾野先生は、にこにこわたしたちを見ている。先生たちは、川野さんの異変に気づいていないのだろうか? 衣装を褒めたり、今日までの頑張りについて話したりして、わたしには呑気に見えてしまうのだが。

「町田さん、ぼーっとしてないでこれ着てみて」

 大谷さんに渡されたドレスに気づき、慌てて受け取る。これを着るのか。さすがにお金はそんなにかけられなかったけれど、市販のワンピースに布をたくさん足したこの衣装は、とても豪華に見える。青いワンピースを水色や青の飾りの布でくるぶし丈まで伸ばし、腰から透ける素材の長いスカートを引いて歩くようになっている。縫い目なんてわたしたち自身でやった粗末なものなのに、とても美しく感じる。ワンピースを引き延ばすための水色や緑の布はギャザーになっていて、それぞれに小さなビーズの輪が縫いつけてある。結局、昨日提案されたこれは、昨日のうちに大谷さん自身で糸にビーズを通して形にされ、今日わたしが着いたときにはできあがっていたのだ。すごい、と思う。

「ビーズ足したから、着た感じとか歩きやすいかとか確かめたいんだ。さあさあ」

 大谷さんに促されるままに、制服の上に着る。今回の劇では、制服の状態から始まるのだ。脇のジッパーを上げ、大谷さんに渡された透ける素材のスカートを上から着る。

「素敵!」と中村先生が言ってくれた。「やっぱり似合うわねえ。ビーズもいい感じだと思うわよ」

 嬉しくてたまらなくなって、鏡の中の自分を見る。別人みたいだ。メイクをすれば、もっとなりきれるに違いない。段々気持ちが入って来るのを感じる。一旦ドレスを脱ぎ、石田君にメイクをしてもらう。普段のわたしならしないくらい濃いメイクを、石田君は施す。顔を触られているが、不思議と平気だ。パウダーで顔の色をフラットにし、茶色いアイシャドウで目を際立たせ、青を目尻に入れ、グラデーションで唇を赤く染める。鏡を見ると、うっとりするくらい別人の顔をしたわたしが、そこで目を見開いてこちらを覗いていた。

「石田君すごーい」

「それほどでも」

 彼は普通のことをしたかのようににこにこと笑った。わたしにとっては才能の塊なのだが。皆で彼を褒めたたえ、高揚感に湧く。多分、皆興奮していた。

「わたし、降りる」

 突然、静かな声がした。振り向くと、さっきまで台本を握りしめて座っていた川野さんが立っていて、半分泣きそうな顔でうつむいていた。

「どうしたの?」

 中村先生が近寄って肩に触れた。途端に、彼女は泣き出した。

「声の出演なんてしません! わたし、あいつらに演劇やってるところ見られたくないんです!」

 わたしがおろおろしていると、中村先生は彼女の背中を撫でさすり、「大丈夫、大丈夫」と優しく声をかけた。「あいつら」とは、多分女子バスケ部のメンバーだ。事情を少し知ってしまったから、余計にどうしていいかわからなくなる。

「大丈夫じゃないです! あいつら絶対笑います。わたしがこんなことしてるって知ったら。わたしのこと馬鹿にしてるんです。こんなの、したくない……」

「美登里」

 大谷さんが、声をかけた。いつもの彼女とは違う、静かで重さを感じる声だった。

「あのさ、美登里が怖がってるのはわかってた。練習はちゃんとしてたけど、本番が近づいてくるにつれて不安定になってるのも知ってた」

「なら何でわたしをナレーションにしたの」

「本当に、わたしはあなたの声がいいと思うからだよ。あと、度胸もあると思ってる。だから、いいと思ったんだ。あなたならやれるって、今も思ってるよ」

 川野さんの様子が少し落ち着いてきた。大谷さんを見つめ、「でも」とつぶやく。

「練習中のあなたの声を張っての演技、すごくよかったよ。誰も笑えないよ。町田さんと真島さんは一役だけど、あなたは何役も演じ分けてたじゃない。きっとできるよ」

 川野さんは、軽く鼻水をすすって目元をぬぐった。大谷さんは、にっこり笑って、

「わたしたち、中学からの友達だよ。わたしはかなりあなたのこと知ってるよ。伊達に最初に誘ってないって」

 と川野さんの背中を叩いた。彼女はようやく落ち着いたのか、ティッシュで鼻水を取り、

「わかった」

 と一言答えた。

「本番までに、声の調子を整える。皆さん、すいませんでした」

 頭まで下げ、彼女は深呼吸をした。すごいな、と思った。大谷さんはすごい。川野さんをあっという間に落ち着けることができた。部活を作るなんて大きなことを成し遂げられるだけあって、彼女はすごい人だ。

 わたしたちは、次第に舞台に向けて団結し始めた。本番まで、わたしたちは台本を読み、段取りを確認した。


     *


 剣道部の部活紹介のふざけた出し物が終わり、舞台の下の生徒たちは笑いの名残に浸っている。出し物の中では総一郎が何故か制服のまま胴上げをされていて、本人は心底苦痛だったらしく、肩を落として舞台袖から降りてきた。

「面白かったよ」

 機械類や体育のマットなどが置かれた物置のような控えの部屋で声をかけると、はっとしたように顔を見られた。

「……歌子?」

「メイクしてるからわかんないかな。そうだよ」

「違う人みたいだ」

「衣装替えのあとも見てよね!」

 そのまま、わたしは舞台袖に駆け上がった。最初はわたしが一人で演じるのだ。まだ幕は閉まっている。

「次は、演劇部の発表です。題は、『海に招かれた少女~泉鏡花「海神別荘」より~』」

 幕が開いた。暗い中、海中の泡がコポコポと鳴り続ける。石田君と大谷さんが二人で音とライトを調整しているのだ。わたしは座ったままぼんやりとしている。着ているのは学校の制服だ。少ししてから台詞が始まる。

――ここは、どこだろう。わたしは津波にさらわれたんだっけ。

 大きく、通る声を出すように気をつける。きょろきょろする。その動きで、舞台の下がよく見える。ひやりとした。ここから見ると、彼らはむやみに大勢に見える。それもほとんどがこちらを見て、ひそひそと隣の生徒と話をしている。緊張が強まる。

――お父さんが新しい奥さんを連れてきて、わたしは……。

 頭を抑える動作をする。主人公は、父親に捨てられた少女。そのあと津波で海中まで引き込まれたのだ。

――向こうに光が見える。わたしはどんどんそこに引き込まれていく。ああ!

 わたしは舞台の反対側に引きずられるように連れていかれる。舞台が転換する。わたしはいなくなり、中国の皇帝のような衣装を身に着けた真島さんが現れる。

――娘はこちらに向かっているかね?

――ええ。

 これは川野さんの声だ。大谷さんが褒めるだけあって、侍女の艶やかで明るい声がとても上手い。彼女は声を完璧に戻して、この劇に挑んでいた。ほっと胸をひと撫でする。

「ほら、急いで急いで。衣装着て!」

 後ろで大谷さんが騒いでいる。ドレスを身に着け、わたしはうっとりとした気分になる。劇の中の人物に、いつの間にか乗り移られている。舞台の上では、真島さんが演じる海の公子と侍女や博士の会話が繰り広げられる。公子はわたしが演じる少女をめとるため、たくさんの宝石や衣装を用意したのだ。今着ているドレスもそうだ。わたしはいつの間にか着ていたそのドレスに、夢中になっているという設定だ。公子の性格や設定を演技で説明し、舞台袖で待ち受けていたわたしの出番が来ると、わたしはドレスを眺めながら登場する。公子を見た途端、娘は震えあがり、顔も見ずに会話を交わす。

――わたしは死んだのでしょうか。

――死んだのではない。海の者となっただけだ。

――父がわたしを待っているのです。

――父親だと? あなたは父親に捨てられ、ここにいるのではないか。

――でも。

――あなたを放っておいて、海に連れられて行っても探しはしない。あなたの親は、すでにあなたの敵なのではないか。

 真島さんは落ち着いている。だからわたしも落ち着いている。わたしは床にひれ伏して泣く。

――わたしは陸に戻りたい。

――戻って何になるというのか。あなたはすでに人ではないのに。

 陸に戻ると娘は人間の目には大蛇に見えるのだ。娘はそれを信じず、

――わたしはこの素晴らしいドレスを皆に見せびらかしたい。宝石を見せびらかしたい。昔とは全然違うわたしを見せたい。

 と見栄と驕りに満ちた言葉を吐く。娘は多くの人に虐げられ、今の自分を知っている人たちに見せたくて仕方がなくなる。わたしはこのくだりがとても好きだ。娘がとても人間らしい気がして。

――くだらん。まあそんなに言うなら行ってきてはどうだ。

 公子の言葉に、わたしは大喜びして舞台を去る。公子も首を振りながらいなくなった。

 次の場面で、舞台はライトで赤く染まる。わたしは悲鳴の中を歩いている。最後に、銃声が何度も鳴る。娘は本当に大蛇の姿に見えるのだ。

――どうして。わたしは人間なのに。

 娘は絶望する。

――あの人がわたしを化け物にしてしまった!

 赤いライトが消え、わたしは倒れ伏したまま泣いている。公子が現れ、しゃがんでわたしに声をかける。

――わかりましたか。あなたはもう海の人なのだ。

――いや、いや。

――ほら、ごらん。

 公子は横にある姿見の布をめくる。

――あなたの父親には、新しい子供が生まれた。もうあなたは必要とされていないのだ。

 娘は姿見をじっと見つめる。

――ここで面白おかしく暮らすほうが、ずっといいではないか。

 娘は公子の差し出した手を取り、最後の台詞を言う。

――ええ。わたしは自分を必要としてくれる世界のほうを、選びます。

 舞台は終わり、わたしと公子は静止したまま、舞台の幕が閉まるのを待った。拍手が聞こえた。派手な拍手ではなかった。面白いか面白くないか、疑問に思っているような拍手だった。確かに高校の演劇としてはわかりづらい題材で、文化祭では理解されづらいものだったかもしれない。でも、――拍手をもらえた。そのことに世界が揺れるほどの感動があった。

 わたしはばたばたと舞台袖から下に移動し、日常に戻った大谷さんたちに猛烈に抱き締められながら、作品世界に留まっていた。川野さんがまた泣いていた。今度は安心と喜びの涙だった。わたしたちの劇は彼女にとっていいものであったらしい。中村先生が褒めてくれた。特にわたしの演技と大谷さんの台本と働きを褒めていた。でも、わたしは自分が演じた主人公の娘を引きずっていた。

 すごい、と思った。人前で演じることは、練習とは違う。拍手をもらえることも、普通じゃない、偉大なことだ。わたしはようやく娘から自分に戻れた。そして、ああ、演じることは素晴らしい、と感激した。

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