泡影の夜に

糾縄カフク

After the rain drop.

 その日は寒かった。

 いや、気がつけばいつだって、この街の日々は底冷えていた。


 ボジョレー・ヌーヴォーの出来のように、聞き慣れた誇大広告の寒波。

 それが誇大じゃないと感じるようになったのは、きっと少しだけ年を取った、私の身体の所為だろう。


 私は白い息を吐きながら、行き交う人を見つめている。棒立ちでプラカードを掲げ、まるで路地に初めからあるオブジェのように縮こまって、時折向けられる好奇な、あるいは憐憫に満ちた視線を耐え忍んでいる。


「ガールズバー、いかがですか〜」


 それは向かいの店先でクリスマスケーキを売り捌く声に一瞬でかき消され、だけれどそれでいいやと私は思って、早く時間が過ぎてくれるのを待つ。




 ――昔は夢があったように、何となく思う。

 いや、今でも少し、追いかけているの、かな。


 瞬く星を追いかけるように東京にやってきて、地上の星の鮮やかさに気を取られている間に、見上げれば空の星は姿を消していた。


 もう少女ガールという年齢ではないのに、化粧と夜の灯りで誤魔化して、幾つかの現実にようやっと気付かされて。――それでも、引き返せなくなった自分を認める事ができず、こうしてここに立ち続けている。


 ジャケットの下は扇状的なサンタのミニスカ。十年に一度の寒波なんてと高を括ればこのザマだ。十代の頃は平気だった。でも今は、ちょっとだけ苦しい。


 ぽつぽつと顔に冷たい何かが顔にかかって、嫌な予感がして空を見上げる。ああ雨かと思って眉を潜め、化粧まほうが落ちないようにそっと俯く。泣いてもいないのにグズグズの熊みたいになるのが嫌で、なんだってこんな時に降るのだと内心で毒づく。――そもそもクリスマスの夜に、好き好んでガールズバーに来てくれる客がいる筈も無い。




(んんっ?)


 しかして幸運とでも言うべきか、眼前には常連の客の姿。私は胸を撫で下ろすと、営業スマイルで身を乗り出す。


 ところが声を掛けかけて、伸ばした手は宙で止まる。なぜなら彼の視線はこちらには無く、背後の誰かに向けられていたからだ。及び腰のまま硬直する私を他所に、常連客は女の子に抱きつかれ、幸せそうに笑っている。


 ああそうですよね分かってますよと。こんなクリスマスにぼっちなのは、こうして立ってるおばさんぐらいなもんですよと。私はそう歯噛みして少し泣く。今なら泣いたって雨の所為だってごまかせるし、どのみち今日は稼ぎもなく帰って、ボロボロのまま床につくのだから、関係もない。


 


(――?)


 だけれどそう思った時、瞼に落ちる冷気が柔らかくなったような気がして顔を上げる。


(――雪だ)  


 それは歌のようにドラマティックで、何もこんな時にと思わずにはいられないほどに、幻想的だった。


「……雪」


 ぼそりと呟いて手を差し出す。白い和毛にこげは掌の体温ですぐに溶けて、生ぬるい水に変わる。


 気がつけば周りの人たちも立ち止まって、空を見上げている。その殆どはカップルで、きっとこの景色の中でひとりぼっちなのは、せいぜいが私ぐらいなものだろう……そんな猜疑に苛まれる。


 だから一時だけ沸き立った私の心は、すぐに現実の侘しさに立ち返って辛くなる。東京にはこんなに人が溢れているのに、どうして私だけが、こんなにも孤独なのか。どこかで正しい選択はあったのか。あるいは故郷で夢を追わずにいたら、温かい家でケーキを囲み、夫の帰りを待つ自分もいたのだろうか。たとえば隣で笑う、子供の声をクリスマスソングに。




「――なあ」 


 それからどれだけの時が経ったのだろう。私はいつの間にか、手で顔を抑えてうずくまっていたらしい。どこかの誰かに声をかけられ、そこで私はようやっと晒していた醜態に気づく。


「は、はい?」


 目の前に立っているのは、サンタ姿の男の子。ああそう言えばと思い出すのは、向かいの店先でケーキを売りさばいていた、あの彼だ。


「大丈夫? お姉さん。顔色、悪いけど」


 ぶっきらぼうな物言い。尖った目。髪の毛はアルバイト前に急いで染め直したのだろう。黒髪の間から、金髪の名残が透けて見える。


「あ、はい。大丈夫ですよ! あはは、ガールズバー、いかがですか〜」


 急いで営業スマイルを取り戻す私を、だけれど男の子は頭を掻きながら見つめている。


「俺、バイト中だし、金も無いんで行けないっスけど。これ、メリークリスマス」


 そう言うと男の子は、私にケーキの箱を渡し、そそくさと去ろうとする。


「え、ちょっと? これ!」


 戸惑う私に、身体を半分だけひねって、男の子は答えた。


「店長がノルマで買って、んで持って帰れって渡されたっスけど、自分、一人じゃ食いきれないんで。お姉さん、うち帰って彼氏と食って下さい」


 ところがどっこい、彼氏なんていないんだわなどと返せる筈もなく、微妙な笑顔で返さざるを得ないのは、残された私。


「ありがとう〜! 今度お店に来てくれたら、飲み代わたしが出してあげるから!」


 半分は営業。もう半分は本気でそう言って、もう店じまいなんでと去っていく男の子を、私は見送る。やがてケーキ屋も灯りが消え、私も私で、早々に帰り支度を始めた。終電を危ぶんだ店が、閉店を決めて女の子たちに帰るよう促したからだ。


 

 

 私が店を出ると、雪は深々と夜を覆っていた。どうせ傘はない。濡れて帰って風邪を引くならと思い直し、私は佇んで空を見上げる。こんな時、隣に誰か居てくれたなら。だってほら、奇跡のようなホワイトクリスマスなんだよ?


 ――そこで不意に差し出される傘に、びくりと身体が震える。


「――あ」

「傘。店で貸してくれないんスか? 酷くないスか?」

 

 それはさっき、ケーキをくれたサンタの子。突然の出来事に、私は戸惑う。


「あはは、ありがとう。でもキミだって一本しかないじゃない。お姉さんはいいから、キミも帰って暖かくして寝なさい」


 私は貰ったケーキを掲げて、精一杯の強がりを見せる。だけれど男の子は、恥ずかしげに破顔すると、肩をすくめた。覗いた八重歯がやけに可愛くて、私は自分の頬が染まるのを感じた。


「お姉さんも帰るんでしょ? じゃあ駅まで一緒でいいじゃないっスか。彼氏さんには悪いスけど」


 ああこの子、まだ私に彼氏がいると思ってるんだと、今度は可笑しくなって、私は笑いながら、男の子の腕に抱きつく。


「わわっ! なんスか! いきなり?!」


 慌てる男の子を上目に見ながら、まだ私はお姉さんな見た目なんだと自らに言い聞かせて、ぼそりと告げる。


「私もケーキ、一人じゃ食べきれないんだ」


 雨じゃなくて良かった。だって魔法・・が解けないから。雪が降ってよかった、だってこの子と出逢えたから。


 私は内心でそう独りごちて、もう一度空を見上げた。街を包む白雪が、少しだけ暖かいもののように感じられて、私はきっと、精一杯笑った。

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泡影の夜に 糾縄カフク @238undieu

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