2014年 3月17日/ある男

 水憂の部屋は相変わらず暗かった。

 ノックをすると、小さな、息を吹くだけでばらけてしまいそうな返事があった。僕ははじめそれが人の声だとはわからず風の音かとも思ったが、一秒二秒の時間を経て、そうだと気づいた。

 部屋に入ると、水憂が警戒した眼差しでこちらを見ていた。スタンドライトの灯りに照らされて、病的なまでに白い肌が光っている。あれ、と思った。前に来たとき、僕と水憂は、十全とまではいかなくてもそれなりに支障なく話をすることができた。けれど、いまの彼女には世界中のすべて信用するものかといった棘があった。

 僕が挨拶をすると、彼女はこくりと、首を動かした。目だけは、僕を捉えて離さなかった。間違いない、警戒されている。

「水憂ちゃん、佐伯から贈り物があるみたいだからさあ、受け取ってやってよ」

 後ろからオサムの脳天気な声がした。声は水憂の警戒と、僕の困惑とで張り詰めていた空気の間をふわりと横切っていった。

「これ、このあいだ言ってたの。覚えてるかな」

 僕は手に提げていた紙袋を掲げてみせた。さきほど僕のなけなしの残金で購入した音楽プレイヤーだが、箱からは取り出してあって素のままで袋に収まっている。新品を渡すのだと気を遣ってしまうだろうと思っての配慮だった。

 僕はゆっくりと足を運び、水憂の傍らにある本の山、その横に、紙袋をそっと置いた。

「じゃあ、今日はこれで帰るよ」

 僕がそう言うと、警戒の姿勢を隠そうともしなかった水憂が驚いたように、眼帯のされていない右目を丸めた。後ろからオサムも、もう帰るのかよ、と言った。

「今日は機嫌が悪そうだから」

 冗談めかして言ってみたが、水憂は丸めた目で僕をじっと見るだけだった。僕も、なんとなく見返した。いつも伏せている水憂の顔を、こんなにもはっきりと正面から見るのは、初めてだった。端正な顔立ちだった。長い睫毛はややカールがかっている。顔色は全体に悪い。左目を覆う眼帯は、やはり痛々しい。僕は想像してみた。健康的で、眼帯に覆われておらず、微笑を湛える水憂の顔を。それはさぞ美しいだろうな、とぼんやりと思った。

「すみません」

 ぼそ、と、やはり吹けばばらけそうな小声の謝罪を、僕はひとつ頷いて受け入れた。また俯き加減になり、彼女の顔が見えなくなる。僕はその際に、自分のなかに湧いた残念だという気持ちを潔く受け入れた。

 部屋を出ると、オサムが話しかけてくる。

「振られたな」

 にやけ顔でそう言ってくるオサムを、僕は心底馬鹿だと思った。けれども僕は馬鹿が嫌いではないので、

「うるせえわ」

 とオサムの肩を叩いてやった。彼は肩をさすりながらけらけらと笑った。



 男は往来を堂々と歩いていた。新品同然の背広をかっちりと着込み、パッドで角のついた肩でもって風を切っていた。

 すれ違う人々は、彼をちらりと一瞥するも、特になんとも思わない。そこいらにいる普通の人間と同じだ、と判断し、意識から除外する。男はそれが少し面白かった。

 まともに外を出歩くのは久しぶりだった。およそ一ヶ月ぶりだろうか。それまではずっと都心のネットカフェを転々と渡り歩いていた。それもあまり人目につかない晩にしていたので、太陽の光を直に見るのは本当に久しぶりのことだった。

 彼はその一ヶ月のあいだ、ひとりの女を探していた。かつて自分の手の中にいたにも関わらず、手放してしまった女だった。あらゆるインターネット、業者を駆使し、彼は女の居場所を突き止めた。S県T市。そこに女はいる。その情報が真実であるかはわからない。手元には証拠の写真一枚もないのだ。しかし彼はそこに赴くことにした。動かずにはおれなかったのである。

 彼は追われる身だった。しかし、必要以上に怯えて歩くことが悪手であることを彼は知っていた。木を隠すなら森の中。よくいうことであるが、人が隠れるならば人混みの中に行けばいい。そしてその人混みのなかに溶け込めばいい。滅多なことで目をつけられることはない。

 彼は直近の駅に向かって歩いていた。スマートフォンで道を探りながら歩いていると、正面から制服姿の中年が二人歩いてきた。警察だった。彼はそれに気づいても一切の動揺をしなかった。眺めていたスマートフォンをポケットにしまい、まっすぐ正面を向いて歩いた。目が合う。顔を見られた。ベテランの刑事は容疑者の耳の形を覚えるという。整形してもなにをしても、耳の形だけは絶対に変わらないからだ。彼は目が合った警官二人に対して小さく頭を下げた。警官二人も、頭を下げた。それだけだった。彼はポケットに手を突っ込んで、そのまま歩いた。内心は平常だった。そうあることが大事なのだと、彼は肝に銘じていた。

 駅の切符を買い、電車に乗り込む。目的の場所に着くには、いくつかの乗り換えが必要だった。

 彼は自分の心が昂ぶっていくのを感じる。ああ、と思う。この感覚だ。これがなければ、人間は生きている意味がない。

 彼は頭の中に、あの頃を思い描いた。女と共に生き生活していた、1年余の幸福な時代である。あの時代は、彼にとって今までの何十年間分の幸福にも勝るものだった。彼の目的は、ただひとつだった。

 彼は女を再び手にし、あの幸福を続けたがっている。

 

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白夜 ペキニーズ @asahi-tuki9715

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