2014年 3月10日 ②

沈黙というのは障子のように脆い。

それを破るのはとても簡単なことだ。なにか一言、言葉を発すればいい。それだけで脆弱な沈黙を破壊することができる。

けれど、僕は水憂を前にしてその簡単であるはずのことができずにいる。

言葉は喉の奥でつっかえ、呑み込まれる。

無音。

お互いの鼻息だけが微かに聞こえる。

水憂は居づらそうに視線を彷徨わせている。僕も椅子の上でたまにみじろぎするだけだった。

「……あの」

 意外なことに、この堅固な沈黙を易々破ったのは水憂の方だった。

「車椅子、持ってきてもらっていいですか」

「ああ、うん。どうしたの? なにか用事?」

「いえ、あの……」

「なにか欲しいものがあるなら、取りに行くけど」

「そうじゃなくて」

「ん? 遠慮しなくていいよ」

「御手洗に……」

「ああ……」

 僕は深く謝罪をして、車椅子を持ってきた。

 ベッドから身を乗り出す。

 危ないと思い、僕は彼女の体を軽く支えてやる。

 それはほんの思いやりのつもりだったけれど、

「や、やめて」

 強い拒絶だった。

 一瞬触れただけの手をまるで鬱陶しくてたまらない蠅を払うような邪険な手つきで払われた。

「あ、ごめん」

 咄嗟に謝る。

「い、いえ、こちらこそすいません」

 水憂はそそくさと車椅子に座り、車輪を回して部屋を出て行った。

 そのか細い後ろ姿をみながら、僕は深い息を吐く。

「気まずいなあ」

 随分嫌われてしまったようだった。

 人から嫌悪感を抱かれるのは、どうしても慣れない。自分が他人からどう見られているのか、それを考えただけで僕は死にたくなるくらい気分が暗くなる。人を嫌うのは得意なのに、嫌われるのはいやだというのは手前勝手だと思うけれど、誰に知られるわけでもないのだしまあいいかとも思う。

死にたくなったとき、僕はよくどうでもいいことを考える。テレビのグラビアアイドルや、前に観た映画の名シーン。そんなものを思い出すだけで、暗かった気分は、まあ結構浮上してくる。僕は、自分がネガティブな人間だと思っている。けれど同じくらい楽観的であるとも思っている。たぶん、みんなそうなのだ。誰でも死にたいくらい暗くなるときはある。そしておのおの、沈殿した自分の引き上げ方を知っている。だから僕は、アホな勘違いをして、女の子に邪険に扱われて死にたくなった自分を、グラビアアイドルと映画を用いて引き上げてやった。

そうこうしているあいだに、水憂が戻ってきた。

 車椅子から降りて、またベッドに横になる。

 また沈黙。

 僕はこの沈黙を破る手段を考えた。

 そして僕は、馬鹿になることにした。

「ねえ、なんの本を読んでたの」

 水憂はまばたきを何度かした。そして小さな唇を開く。

「別に……」

「僕も本好きなんだよ。最近読んだのはハリーポッター。あれは面白いよね。そう思わない?」

「え? あの、」

「何度も映画化されるだけある」

「あ、はい」

「映画と言えば、最近すごく思うんだけど、邦画と洋画だと洋画の方がアクションにお金がかかってるよね。久しぶりに邦画のアクションをみたら、うーん、ってなって」

「はあ」

 人間関係の構築において、僕が勝手に大事だと思ってることがある。それは馬鹿になることだ。人と話していて、相手にこう思われてるんじゃないかとか、そういう思考を全部取っ払ってしまう。そういうことを意識的にしろ無意識的にしろやることが大事なのだ。ただ、それは上手く作用するときもあるが、下手に作用するときもある。馬鹿になるタイミングは重要だ。そして僕は今こそ馬鹿になるタイミングだと踏んだ。参考にするのはオサムの図々しさだ。

「そうだ、あと村上春樹とかも読んだんだけど、あの人の小説を読んだあと、頭が良くなったような気になるのはなんでなんだろう?」

 困惑していた水憂の口の端が、少しだけ吊り上がった。ような気がする。僕はそれをみて、共感だ、と思った。

「水憂ちゃんもわかる?」

 訊ねると、曖昧な、揺れる水面のような表情で言う。

「少し」

「前も訊いたと思うけど、本を読むのが好きなの?」

「……別に、好きでも嫌いでもないです」

「そのわりに、結構、本が積まれてるみたいだ」

 ベッドの脇には様々な小説が散らばっていた。どれもこのあいだ来たときに見たものとは違う。たぶん、並よりは多い読書量だろう。

「することがないだけです」

「確かに、この部屋にはテレビもない」

「それは、わたしがいらないって」

「オサムに言ったの?」

「いえ、おじさんとおばさんに」

「どうしてテレビがいらないの?」

「……特に、理由はないです」

 嘘だな、と思った。

 僕もなにか理由を聞かれたとき、「特に理由はないけど」という言葉をよく使う。それはその理由が長くて言葉にするのが面倒だったり、訊ねられた理由をそもそも僕自身が言語化できなかったりすることがあるからだった。

「この部屋は、とても静かだね」

 借屋でもないから、隣の部屋から人の声が聞こえるなんてこともない。優れた防音性からか、外の環境音もほとんど届かない。この部屋は本当に無音なのだ。

「うるさいのは好きではないです」

「でもうるささは色んなことを紛らわせてくれる」

 僕もどちらかと言えば静けさを好む性質だ。けれど、過ぎた静けさは毒になることもある。

「水憂ちゃんは、音楽は好き?」

 曖昧な表情。

「別に、好きでも嫌いでもないです」

「僕はどちらかと言えば好きだよ」

 ポケットからスマートフォンを取り出し、操作する。

 流れるのは静かなピアノの音だった。なんとかという音楽家のなんとかというクラシック曲だ。静かな、落ち着くメロディーが気に入って、悦に浸りたいときや本を読むときのBGMにしている。

「あ……」

 水憂が小さく声を漏らした。それは思いがけないものに出会ったときのような、意外そうな声だった。

「知ってる曲だった?」

「……月の光」

「ああ、そんな曲名だった」

 それから、僕たちはまた沈黙した。

 僕たちのあいだに言葉はなかった。部屋ではカーテンの隙間からそっと顔を出す月明かりのような音楽が流れるだけだった。

 曲が終わると、部屋に横たわるのはまた沈黙だった。

 僕が話し出す言葉を探していると、

「これ、ひとりのときにも聴けますか」

 と遠慮がちに言う。大きな目が上目遣いにこちらを見ている。眼帯に覆われた片目を幻視する。

「ああ、うん。聴けることには聴けるけど……」

「本当ですか」

「嘘はつかないよ。でも、そのためには音楽プレイヤーが必要だな……」

「……それは、買うことができますか」

「もちろん。あ、もしよかったら、家に余ってるのを持ってこようか?」

「いえ……悪いです」

「気にしなくていいよ。そうだな、今度来るとき、持ってこよう」

「……ありがとうございます」

 水憂が頭を下げると、遠くの方でどたどたと騒がしい足音が聞こえてきた。

 足音は部屋の前で止まって、すぐ、ノックの音が響く。

 水憂が小さな声で返事をすると、入ってきたのは案の定オサムだった。

「ただいまー!」

「なんだ、言ってたよりも早いじゃないか」

「用事ソッコーで終わらせて帰ってきたんだよ。まあ一応、急な頼みごとだったからな」

 オサムにしては珍しく、僕に気を遣ったらしい。

「気にしなくてよかったのに」

「それに義妹と二人きりにするのも不安だったんだよ」

「なにもしねえよ」

「いやまあ、そういう話でもないんだが、とりあえずありがとな佐伯。水憂も、佐伯がいてよかったろ?」

 頷きなのか項垂れたのか分からないような仕草で、水憂が頭を下げた。

 僕は苦笑して、

「じゃあ、俺は帰るよ」

「おう」

「あ、そうだオサム。明日も来るから」

「へ? なんでだよ」

 僕は質問に簡単に答えてやって、部屋をあとにした。

「約束だからだよ」

 

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