幕間

 水憂が目を覚ますと、そこはまだ見慣れない自室だった。

 部屋にはスタンドライトの明かりが闇の中でひときわ強く輝いていた。水憂にとってはこの明かりだけが闇の中で安心させてくれるよりどころだった。部屋を暗くしなければ水憂は落ち着かなかった。だが完全な闇にいると、頭の中にこびりついて離れない記憶が、沼の底からぬらりと這い出てくるような気がした。

 水憂は外の様子を確かめようと思い、ベッドから立ち上がろうとした。だが、水憂の足は全く思い通りにならず、動かない。ああ、と思った。水憂は寝起きの頭で自分がもう歩けないことを思い出した。

 今が昼なのか夜なのかもわからない。自分がどこか隔絶された空間に一人でいるような感覚がした。水憂は眠る前のことを思い出した。不思議な人だった。義理の兄のような図々しさはなかった。わざわざ水憂の世話を頼まれたと言われてやってきたというときは、申し訳なくてたまらなかった。それに、見知らぬ男性と密室で二人きりというのは、水憂にとってこの上ない苦痛だった。正直、この点に関して水憂は兄の気遣いを期待していたが、その期待は裏切られる形になった。

 しばらく一緒にいて、彼は自分に興味がないのだと思った。何も話さずに椅子に座っているだけだったからだ。友人である兄の頼みで仕方なく嫌々いるのだと思った。けれど、彼は随所で水憂に気を遣ってくれた。水憂はその気遣いが申し訳なかった。だがほんのすこし嬉しくもあった。

 彼が聴かせてくれた月の光は、水憂にとって思い出深い曲だった。まだ子供だった頃、母が弾いてくれた曲だった。休日の昼下がりに響いた月の光は、窓辺から差し込む陽光もなにもかもを夜の色に染めていくようだった。水憂はそれから何度も母に演奏をねだったものだった。水憂はその記憶を反芻するときだけ、自分が心穏やかでいられる気がした。

 水憂は彼の名前を思い出そうとするが、できなかった。水憂は人の名前を覚えるのが苦手だ。実際、つい最近できた兄の名前でさえもうろ覚えなのだった。水憂自身は、これを他人に興味がないのではなく、その人物の名前を覚えてしまって、つながりができるのを恐れているのだと分析している。

 今の自分は誰ともつながっていない。うずたかく積まれた本の山だけが水憂の孤独を紛らわす道具だった。誰かとつながりたいという欲求があるわけでもない。ひとりは気楽だ。水憂は思う。だって、誰にも傷つけられる心配がない。何にも心を動かされない代わりに、完全な平穏を得ることができるのだ。水憂が望むのはそれだけなのだった。

 また眠ろうと思った。目を閉じると、闇が広がった。恐怖がひたりと迫ってきた。あまりの恐ろしさに飛び起きた。ふと、暗闇が恐ろしくなる。だが、光の下でも落ち着かない。スタンドライトの小さな明かりは、部屋の隅までは届かない。そこにはなにもない、そのはずである。だがわからない。なにもないはずの闇に、潜む何かがあるかもしれない。そう考えただけで水憂はたまらなかった。彼女はスタンドライトに縋り付いた。恐怖という名の魔物が去るのをひたすらに待つしかなかった。

 水憂の心はひび割れたガラスだった。あとほんのすこし押してやるだけで、壊すことができる。

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