言葉がくれた未来⑤

「……もう一個、どうしても確認したいことがあるんだ」


 目を向ければ、視線だけで先を促される。


「マネキンへと魂を入れたことによって起こった不具合っていうのは、あの転びやすい足と、時折戻ってしまう声の他に、もう一つあったんじゃないか?」

「どうしてそんなことを気にするんだい?」

「答えてほしい。あんたが作った憑代ならば、本来は昼間も動くことができた。そうじゃないのか?」


 男はひょいと肩を竦めて。

 そうだよ。よく分かったね、と。


 俺は震える吐息に言葉を乗せる。

 これが分かれば、俺の憂いはもう一つ、昇華できるかもしれない。


「――十五年前、あんたのところに、香月美砂かつきみさって女の人が来なかったか?」


 あのおばさんだ。俺をやたらと構ってきて、俺を必死に応援してくれて、彼女と同じ、二週間で忽然といなくなってしまった、あのおばさん。

 彼女はもしかしたら、母さんだったのではないかと、そう思ったのだ。心配のあまり未練を使って、俺を助けに来てくれたのではないか、と。


 男は曖昧に笑う。


「正体を知ると、記憶は消されるんだよ? 忘れたの?」


 そうだとも、違うとも、口にはしなかった。でもその言葉こそが答えだと、俺は思うことにした。

 恩田さんがいつだったか繰り出した彼女独自の理論に則って、真相の分からないことは自分に優しく解釈することにしたんだ。

 あのおばさんは、きっと、そうであったのだと。


 彼女に出会わなければ、俺はあのおばさんの正体にも気付かないまま、いや、その正体に思いを馳せることすらないまま一生を終えたことだろう。

 彼女からは、返せないほど多くの恩をもらったのだと、改めて感謝した。


「あんたのところへ訪れる人って、生前の苦しみからは解放されてるの?」


 母さんは病気だった。

 でもあのおばさんは、いつも明るくて元気で、今思い返してもとても心が病んでいるようには見えなかった。


「あのねぇ、生きてるきみにそんなこと教えるわけないでしょ?」


 男はちょっと呆れたような目を俺に向ける。


「もしここで僕が頷いたとして、きみがこの先、生きるのも辛いと思うほどの大きな苦しみに直面したとしよう。そのときに、どうする? 僕の言ったことを思い出して、安易に死を選ばれたりでもしたら困る。現世の人間を惑わせたとして、僕はあっという間に懲戒免職だよ」

「そんなこと――」

「しないとは言い切れないでしょ? 人間ってのは、苦しくなると楽な方を選択する生き物だ。

 いや、まあ、今のきみなら言ってもいいのかとも思うけど……やっぱり本当のことは教えない。

 ――というか、教えなくても、きみはもう大丈夫でしょ?」


 男は微笑んでいて、俺は毒気を抜かれたようについ首を縦に振ってしまった。

 彼女の理論に則って、自分に優しく解釈できるようになった俺は、過ぎし日に起こった二度と見ることの叶わない真実を都合の良いように解釈できるようになった俺は、母さんはきっと苦しみから解放されたのだと思える俺は、男が言うように、本当にもう大丈夫なのかもしれなかった。


「質問は以上かな?」


 やっぱりいい奴じゃないかと、苦笑してしまう。


「……じゃあね」


 心なんて読むから気まずくなるんだと、ますます笑ってしまった。


「またね、逢坂さん」

「……もう会わない方がいいの。未練なんて残さないで死ぬに越したことないんだから」


 ひらひらと振られた手が、魔法を解く合図のように。


 一つ瞬きをすれば、既に男は消えていて、世界は再び回り出していた。


 俺は徐に、携帯電話を取り出す。

 彼女に会う前に、もう一つ、実行しようと思ったのだ。勇気が出せた、この瞬間に。


 一通のメール。送る先は、父親だ。


『話がしたい』


 親父はあのとき、何を思っていて、そして今、何を思っているんだろう。

 本当にクズのような男だったら、それはそれで、今なら笑い飛ばせる気もした。でも、子供の時分では分からなかった何かがあの頃の親父の中にあったのだとしたら、今なら冷静に話を聞けるような気もした。


「――恩田凛さん、お見舞いに来ました」


 カーテン越しに声をかける。

 そうすれば、静かで寂しかった世界は、急速に色付き始めた。


「え? えぇっ? あの、うそっ。どうして?」


 ガタガタと音がして、慌てる声が聞こえてくる。可愛らしい声。間違いなく、あの子の声だった。


 彼女は今、どんな顔をしているんだろう? 親父にメールを送ったと言ったら、どんな反応をしてくれるだろう? 笑ってくれるだろうか?


 俺はというと、みっともなくも、存在を感じた瞬間には既に、両の目から涙が零れ落ちていた。


「ど、どうぞ」


 やがて聞こえる、遠慮がちな声。

 彼女と俺を隔てている、頼りない布きれ一枚に手を掛けた。


 携帯が、震える。


 彼女が運んでくれた数えきれない幸せが、この窓から差し込む陽射しのように、俺を丸ごと包み込んでいた。



<了>

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真夜中のドール・ガール 平原佑記 @kamometonyanko

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