言葉がくれた未来④

「お大事に」


 本当にそう思っているのか、以前の俺にも負けないくらいの愛想のなさで、受付の女性から面会者用のバッジを手渡された。

 今しがた北病棟4階と行先を記した紙には、彼女の名前と俺の名前が隣り合って書かれている。もちろん俺が書いたのだけれども、思わず文字をそっと指先でなぞってしまうくらい、この奇跡のような状況に胸がいっぱいになっていた。だから、そんな態度だって今の俺はちっとも気にならない。


 様子のおかしくなった俺は、おばさんに心配そうに見送られながら、彼女の家の最寄りのバス停から区内循環バスに乗り込み、停留所を六つ隔ててこの病院へとやってきた。


 意外に多い降車客に驚きながら、そういえばと、ふと思い出す。

 おばさんは俺に会いに行くために喫茶店へ向かっている途中だったと、出会い頭に確かそう言っていた。動揺していて何のために会いに来たのか、理由を聞きそびれてしまったが、もしかしたらそれは目が覚めた彼女の口から、俺の名前が出たからなのかもしれなかった。

 彼女のことだ、最後の別れ方からして、俺がひどく落ち込んでるのではないかと心配になり、様子を見に行ってほしいとでもお願いしたのだろう。


 気持ちが逸った。足も逸る。

 大きな病院で、患者が増えていくたびに増築を繰り返していったのだろうか。普通じゃ考えられないくらいに入り組んでいて、俺は案内板を頼りにもどかしい気持ちで歩を進めた。

 エレベータを待つのも何だか落ち着かなくて、階段を使って4階まで一気に駆け上がる。

 それなのに、目前になると途端に怖じ気付きそうになる心を叱咤し、踊り場で一旦深呼吸。汗ばんだ両の手を洋服でぐいっと拭い、気持ちを落ち着けてから再び402号室を目指した。

 ナースステーションからは二番目に遠い部屋のようだ。それが、彼女の回復の度合いを如実に物語っている気がして嬉しかった。


 全ての病室のドアは、開け放たれたままになっている。大部屋だからだろうか。

 清潔そうな緑のカーテンで、ベッドごとに個人のスペースが仕切られていた。

 キュッキュッと鳴る病院独特のリノリウムを足裏で感じながら、彼女のいる病室へ。プレートの下の液晶をタッチすれば、間違いなく“恩田凛”の名前が表示されていて、俺は早くも溢れそうになる涙をどうにかこうにか堪える。

 入り口から見て右の奥、陽射しがたっぷり降り注ぐ、この季節にしては少し暑そうな窓際が彼女のベッドのようだった。

 今はどのカーテンもきっちりと閉められていて、皆寝ているのか、部屋はエアコンのモーター音と、心電図のモニター音だけが響いていた。


 ごくりと唾を呑み込み、震える足を一歩、ついにと、病室へ踏み入れる。


 ――パキン、と。


 拍子に鼓膜の痛みに顔を顰め、でも覚えのある感覚に、俺ははっと辺りを見回した。

 予想通り、あのときのように世界はすっかり止まっていて、隣にはあの男が立っていた。


「やあ」

「…………どうも」

「あれ? 驚かないの?」

 つまんないなあ。


 相も変わらず、飄々としている。

 でも俺は、彼女が生きていると知ったときに、もしかしたらもう一度くらい会えるのではないかと、実は思っていたのだ。


「ふーん」


 そう言えば心が読めるんだったな……。

 多少のやりづらさを感じながら、俺は口を開く。


「会えたら、訊きたいことがいくつかあったんだ」

「だろうね。答えられる質問には、答えてあげようと思ってるよ。だから来たんだし」


 男は屈託なく笑った。

 胡散臭くないところが、逆に胡散臭い。

 ひどっ、と聞こえたが、話せる時間には恐らく限りがあるだろう。申し訳ないと少しだけ思いつつも無視させてもらう。


「じゃあ遠慮なく訊くけど、なんで……彼女が死んでしまうと俺に思わせた?」


 本音を言えば、絶望する顔が見たかったなんて、そこまで趣味の悪い男には見えなかったのだ。二人が深夜口論をしていたあの日、最後に見せた彼女に対するこの男の優しい表情が、嘘だとは思えなかった。


 うーん。男は頭を掻く。そして、

「三途の河の畔にね、一組の老夫婦が住んでる」

「……は?」

 何の脈略もなさそうな話を唐突にし始めた。


「その老夫婦が住む小屋をね、儚くなった人間は必ず訪れなくてはならない」

 俺が訝しげに問いかけても、男は関せず。

「そこで、現世の思いが詰まった服を思考と一緒に脱ぎ捨て、用意してある真っ新の無垢な服へと着替える。これが死ぬときの決まり。その服に着替えないと、うまくあちら側へは渡れない」


 俺は先程の疑問にこれがどう繋がるのかさっぱり分からないまま、遠回しなのか何なのか意味不明の話に少しだけ眇めた目を向けながら続きを待った。


「その老夫婦は、歳だからかなぁ。物凄く飽きっぽいんだ」


 ……そんな世間話は求めていない。

「それで?」


 俺の苛立ちを分かっていながら、ニヤニヤとそれを楽しんでいるような態度が癪に障り、本格的に睨み付けてやる。


「ははっ、ごめんごめん」


 すると、まるで悪びれていない、そんな笑いを零しながらも、少しだけ表情を収めて。


「現世の人間に、たくさん想われている人ほど、服は重たく脱がせにくくなるんだ。いつまで経っても着替えさせられなきゃ、きっとあの二人なら飽きて放り出して、あちら側へ送ることを諦めてくれるだろうと、まあそう当たりをつけたんだよ」


 ……は? つまりは。

 この男が意地悪く、彼女があたかも死んでしまうかのように演出したのは、俺から彼女の服を重たく脱がせにくくする、たくさんの言葉を引き出すためだったと、そういうことなのか?


「実際僕だって、どうなるかは半々だと思った。でも言葉にしなければ、繋ぎとめる鎖にはできない」


 そう言いつつも、別れの間際、何かを言い淀んだこの男は、こうなることを見越していたのかもしれないと思った。だから、俺の記憶を消さないという選択ができたのではないだろうか、と。


「何だか僕の方がやりづらいな……」


 あからさまな咳払いをして、そっぽを向いてしまう。


 男は確か、“はんこんし”をこちらの世界でいう職業のようなものだと言っていた。つまりはある程度、自分で選んで就くことができる仕事ということだ。

 そう考えてしまえば、根っからの悪い奴なわけがなかったんだ。


「まあきみが、自分の殻を破り、恥も外聞もかなぐり捨てて、今までためらってきた言葉というものに必死に願いを託したから、あるいは彼女は助かったのかもしれないね」

 

 そうしてにっこりと、やっぱり屈託なく笑った。


 言葉というものに、失望していた。意味などないと、悲観していた。

 でもその言葉こそが、彼女を救う一助となったのだ。

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