夢と現の狭間で少女は迷う

 青い髪の女の子に出会って、一週間。あたしは毎日、あの夢を見るようになった。

 夢の内容はいつも同じだ。オーディションから逃げ出したあたしの前に、青い花と共にあの女の子が現れる。そして、あたしを助けて、舞台に立たせてくれる。――その繰り返し。

 最初こそ悪夢なのだけど、必ずあの子が助けてくれる。たまにあの子は、お客さんに混じって、ニコニコしながら、あたしの演技を見てくれる。

 夢の世界では、あたしはトップスターだった。

 演技を褒められ、誰からも愛される。止める人も、けなす人もいない。甘い良い匂いに包まれた劇場は、居心地の良い世界だ。

 嫌なのは、目覚めがとっても悪いことだ。寝た気がしないから、身体もだるい。学校に行くのも、人としゃべるのも億劫になっていた。断片的ではあったけど、授業中にも夢を見ることがあって、本当はずっと、夢の中に居続けたいんじゃないかな、って思うことも、多くなって――。

「……ちゃん、綾乃あやのちゃん?」

「えっ?」

 はっとして気づくと、あたしの目の前で、誰かの手が揺れるのが見えた。一瞬ここがどこかわからなくて、キョロキョロあたりを見渡す。

 入学から一ヶ月経った中学校の教室は、どこかよそよそしくて、まだ好きになれない。あたしは自分の席に座って、ずっと頬杖を突いていたらしい。腕の感覚が麻痺していることに気づいて、顔をしかめた。ああ、頭がクラクラする。すっごく嫌な気分。こんなところに居たくない。

「綾乃ちゃん、大丈夫……?」

 遠慮がちな、おとなしい女の子の声。あたしを覗き込む、子犬のようなつぶらな瞳に、肉まんみたいなふっくらとした顔つきの、昌子しょうこの顔が手の向こうから現れた。

「あ、うん……一応。ごめん、昌子」

「ううん、大丈夫。綾乃ちゃん疲れてるんだよ。次、四時間目、音楽室、いかなくちゃ」

「そっか、音楽だっけ……」

 昌子の言葉に、しぶしぶ机の中から音楽の教科書を出して準備をする。動きたくないなあ、行きたくないなあ。そんな重い気持ちが支配していて、どうしても動作が遅くなる。

 だけど昌子は、にこにこしながらあたしの事を隣で待っててくれている。

 そんな昌子に申し訳ないな、とちょっとだけ思って、あたしはやっと重い腰を上げた。


◆◇◆


「ねえ、綾乃ちゃん。最近ずっと元気が無いけど、本当に大丈夫?」

 帰り道、やはり口数が少ないあたしに、隣を歩く昌子は遠慮がちにそう聞いてきた。

「授業中も居眠りが多いし、ぼーっとしてることも多いし……その、わたしと話してても、ぜんぜん楽しそうじゃなくって……」

 もじもじと、リュックサックの肩紐を握る指が動く。うつむく顔にでっかく「心配でたまらない」と書いてあるように見える。

 本当は話すことすら面倒で嫌だったけど、あんまりにも昌子がそんな顔をするものだから、あたしはため息を吐きながら、夢の事を話した。ただし、ただ怖い夢だという感じで、内容をかなりぼかして。

 だって、そんな、一人芝居して楽しいなんて夢、恥ずかしくて話せない。それに、道ばたで出会った青い髪の女の子が出てきてあたしを助けてくれる、なんていう馬鹿げた話、あたしのキャラじゃない。

 昌子はあたしの幼馴染で、唯一、あたしが気兼ねなく接することのできる友達……親友だった。おっとりとしていてちょっと夢見がちで、おまじないとか占いが大好きな、すごく女の子らしい女の子。だから小学校の時はよくからかわれた。そのたびにあたしが昌子をかばう、みたいな関係だった。もっとも、あたしもあのころは小さな身体をしていたから、頼りがいがあったのかどうかは分からない。だけど、昌子はいつもあたしに頼ってくれる。

「なるほど……。怖い夢かあ……。わたしね、最近、夢に関係するおまじないを覚えたんだよ」

 昌子の言葉に、あたしは内心ため息をつく。昌子の悪い癖は、何か困ったことがあると、すぐにおまじないとか占いに結びつけちゃうところだ。

「またおまじない?」

 あたしはおまじないも占いも信じない性質たちだ。ドライな反応をすると、昌子はその時だけ、ちょっとだけ寂しそうな顔をする。

「あっ、綾乃ちゃんは、信じないかもしれないけど……。悪夢を退治してくれるおまじないなの。綺麗なコップとか、小皿とかに、お水を入れて、その上に桜の花びらか、桜の花びらみたいに切った紙を乗せるの。そして枕元に近い窓辺に置いて、月の光を浴びせると、夢の中に、悪夢を退治してくれるが現れるの。桜の花びらと一緒に」

 いつもの夢見がちなおせっかいだなと高をくくっていたあたしは、ある単語に思わず息を飲む。

「……?」

 昌子の言葉の中に紛れていた女の子、という単語。なぜか額に汗が噴き出して、身体が緊張する。

「このおまじない、ネットで有名なんだって。いろんな人がやって、実際に夢の中で見たって」

「何を見たって?」

「だから、その、女の子を……」

「そ、そんな、冗談よしてよ昌子。そんな、いくらおまじないだからって、そんなこと……」

 緊張を払拭しようとして、あたしはあえて冗談交じりに言葉を返す。しかし脳裏には、夢の中に現れた、青い髪の女の子の顔が浮かんでいた。

「あはは、そうだよね……わたしも半信半疑なんだ。でも、一回くらい会ってみたいかも。すっごく美少女なんだって」

 美少女、その言葉にも、またあたしは表情を固まらせる。

「あ……ごめんね、軽々しくそんなこと言って」

 昌子はあたしを見て、申し訳なさそうな顔をする。きっと悪夢を見たというあたしに気を使ったのだ。

 だけどあたしは、そんな風に気遣ってくれる親友の事よりも、あの女の子のことを気にしていた。あの子はあたしを助けてくれる。でも、おまじないは桜の花びらを使うし、夢にも桜が出てくるらしい。あれ、と頭の中だけで首をひねる。あの子が現れるときの花びらは、青くて冷たい、知らない花だからだ。

「……」

 お互いに言葉を交わさないまま、気づいたら昌子の自宅のあるマンション前までたどり着いてしまった。

 あたしが「じゃあね」と手を振って去ろうとしたその時、昌子が手をつかんだ。

「待って、綾乃ちゃん」

 昌子はあたふたとした様子で、胸ポケットから生徒手帳を取り出す。

「桜が咲いたときに、綺麗だなって思って、取っておいたの。気休めかもしれないけど……」

 そして中に挟んであった、メモ帳で折った小さな手紙を取り出して、あたしの手に乗せた。

「もし、また嫌な夢を見ちゃったら、使って? ……わたし、綾乃ちゃんが引退してから、ずっと元気が無いのが、心配なの。ここの所、もっと調子が悪そうだし……」

「昌子」

 引退してから。その言葉に、思わず顔がこわばる。

 昌子は芸能界に入ったあたしを、ずっと応援してくれていた。家族と同じか、それ以上に、あたしが仕事をすることを喜んでくれていた。たとえ露出が減っても、周りの皆が藤崎は終わった子役だと言っていても、昌子は応援し続けてくれていた。

 だけど昌子は、あたしが芸能界を引退してから、その話を全くしなくなった。気を遣っていたのだと思う。だけど今、当の昌子からその話題が出た。身体全体が緊張で固まる。

 昌子は遠慮がちではあるが、言葉を続けた。

「……綾乃ちゃん、お芝居、好きでしょ? あの、変なこと言うけど、学校の演劇部とか、良いんじゃないかなって……。綾乃ちゃん、部活、入ってなかったよね。前、舞台が一番好きって、聞いた記憶があって。デビューは映画だったけど、舞台見たら感動しちゃった、今度は舞台でお芝居がしたいって、わたしにいっぱい、お話してくれたこと、覚えてて、その」


「あたしの気持ちなんて、分からない癖に。素人が勝手にいろいろ言わないでよ」


 カッときた。気持ちがそのまま言葉になって滑り出して、昌子の言葉を遮る。

 ――あたしは昌子よりも可愛くて、昌子よりももっと大人の世界を知ってて、昌子よりも優れてるのに! あたしは、舞台に立てる人間なのに!

 自分の中に、汚い気持ちがどろりとあふれ出て、はっとする。こんな感情が溢れて来た自分に嫌悪を感じる一方で、嘘偽り無い気持ちだと分かっている自分も居た。

 昌子を見る。一生懸命、表情を変えないようにしているけれど、彼女の手は、震えていた。

「……ごめん。ごめんなさい」

 昌子はそれだけ言うと、マンションの入り口に小走りに入っていく。声すら掛ける暇も無く、昌子の姿はあっという間に消えた。

 あたしはしばらく呆然と立ち尽くすだけだった。だんだんと、血が上った頭がすうっと冷えていくのを、感じていた。

 ――一体自分は、何を考えていたのか。そして、何を口走っていたのか。

 素人が、って、何様なの、あたし。あたしの舞台って、それって、夢の中の、話なんじゃないの。現実のあたしは、もう、普通の……ただの人、なのに。どうして。

 残ったのは、昌子がくれた手紙。

「……おまじないなんて、信じない、のに」

 手の中の手紙をぐしゃぐしゃにしようとして――出来なくて、そのまま、スカートのポケットにしまいこんだ。


◆◇◆


「――きゃああっ!」

 夜中、あたしは自分の悲鳴で目が覚めた。薄暗い中でうっすら見えるのは、見慣れた自室の天井だと気づいて、やっと自分が布団の中に居るのだと気づいた。

 それでも身体に恐怖が染み着いているような気がする。呼吸は荒く、落ち着く様子が無かった。

「どうして……」

 最初こそ、いつもの悪夢だった。オーディション会場から逃げ出す夢。だけど、今日はそのまま、白い手に引きずれて、そのまま底なしの穴に、落ちていった。

 一人で穴に落ちていく恐怖は、今までのどんな夢よりも怖く、寂しく、恐ろしいものだった。舞台に戻ることも……ううん、それどころか、もう二度と目覚める事すら出来ないかもしれない。

 しかしもっと不安な気持ちになったのは、もう一つ原因があった。

 どうして、来てくれなかったの。

 どうしてあの、青い髪の女の子は現れなかったのか。

 未だ恐怖でこわばる身体を、布団の中で抱きしめながら思う。落ちていくあたしが見ていたのは、ただただ、冷たい青い花びらだけだったのだ。

 思わず目に涙がにじむ。あんなに怖かったのに、どうして。布団に潜っていても、眠りたくない。眠ったらまた、あの夢を見てしまう。

 どうしよう。怖い。どうすればいいの。

「……昌子」

 思わず親友の名前を呟いたその時、あたしは思い出した。もう、何かに縋(すが)りたくて仕方なかった。急いでデスクスタンドの明かりをつけ、壁に掛けられた制服のスカートのポケットを探ると、昌子がくれた手紙が指先に触れた。それだけで何故か、少し安心する自分がいた。

 灯りの下で手紙を開くと、そこには乾燥した桜の花びらが数枚入っていた。あたしは一旦机にそれを置いて、静かに部屋を出る。台所に向かい、食器棚を開き、それらしい大きさの器を探す。ちょうど目の前に、お菓子作りで使うココット皿が見えた。

 ココット皿を手にとって、水道から水を入れる。そして、水をこぼさないように、行くよりも慎重に部屋に戻った。

 カーテンを開けると、しんとした夜の風景に浮かぶ月が見えた。ココット皿を窓辺に置くと、机の上にある、桜の花びらの乗った手紙を持ち上げた。

 本当に効くなんて思えない。だけど、今のあたしは、何かの力を借りたくて仕方が無かった。一人で眠るのが怖い。誰かが、傍に居てほしかった。それはたとえば、大好きな友達の温もりとか、声とか。

 花びらが落ちないように、静かに手紙ごと持っていく。そして窓辺まで行き、ココット皿の上に、ひらりと花びらを浮かべる。花びらが触れた場所から、水に小さな波紋が広がった。

「……」

 水面をゆうゆうと浮かぶ、桜の花びらを見ながら、あたしはため息をつく。

 すぐに何かが起きるわけでもない。当たり前だ。まさかこの水面が光って、そこから女の子が出てくるかもしれない、なんて、それこそまさに夢物語だ。そもそも昌子でさえ、そんな事言っていない。

 だけど。

 花びらの入っていた手紙をなでる。昌子の優しさが、嬉しかった。たとえ誰もがあたしのことを忘れていても、昌子はあたしのことをこうして心配してくれる。あたしの事を、ちゃんと見ていてくれる。そんな優しい良い子に、あたしはどうして、あんなことを言ったんだろう。

「……ごめん、なさい、昌子……」

 今は貴方しか、頼れない。ずるくて、ごめん。

 あたしは布団に入ると、手紙をぎゅっと握り締め、瞼を閉じた。

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