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1-1 その出会いは、まるで白昼夢
ジリリリ、と、けたたましい目覚まし時計の音で、あたしは目を覚ます。夢なんかも見ず、ぐっすりと寝たのに、あたしの気持ちは朝日のように明るくはない。
また退屈で平凡な、普通の一日がやってきたんだ。そう思い、大きなため息をつきながら起き上がった。
壁に掛けてある制服を着る。まだ真新しい、ごわごわとしたセーラー服の着心地の悪さに、少し
朝食をとって、家を出る。角を曲がり、家から少し歩いた所にある公園までやってくると、そこで親友の
適当に授業を聞き、昌子と他愛もない会話を交して、学校での時間が過ぎていく。ホームルームが終われば、皆、意気揚々と仲間同士で部活へ向かうけど、あたしはそれを横目に一人で玄関へ向かう。部活が強制ではないこの学校では、帰宅部の生徒は珍しくない。あたしもその一人だった。昌子は家庭科部に入ってるから、今日はあたし一人の帰り道。
家に帰ったらテレビか漫画でも見て時間をつぶそう。あ、なんだか普通の人っぽい。思わず乾いた笑いが出る。
あたしは二、三年前まで、ちょっと普通の人じゃなかった。だけど今年の三月、ある決心をして、普通の人に戻ることになった。
退屈で平凡で普通な日常が、今日も過ぎていく。
◆◇◆
「おねえちゃん」
中学校から少し離れている、住宅街のど真ん中。向かいには巡回バス停と、小さな駄菓子屋があり、目の前の道路にはたまに車が走るくらいの、何の変哲も無い通学路で、あたしは急に声をかけられた。
不思議に思いながら振り向くと、そこにはあたしよりも頭一つ分くらい小さな女の子が立っていた。それだけなら何らおかしくは無いけれど、あたしはその格好に、思わず感嘆の声を上げてしまった。
目の前に飛び込んできたのは、フリルとリボンに彩られ、おそらくパニエで広げた、ふんわりしたスカートラインの、青色を基調としたワンピース。手にしているのは、白い肌を護るワンピースとお揃いの日傘。足元には、つま先が磨かれた丸っこいフォルムが愛らしい、よそ行き用の黒いエナメル靴。
なんだか、原宿か秋葉原にでも居そうな格好。
そして、もっと驚くことがあった。
肩に揺れる、綺麗に切りそろえられたミディアムボブの真っ青な髪の毛。ぱっちりと開かれた宝石みたいに綺麗な
「おねえちゃん?」
女の子は不思議そうに小首を傾げている。どうやらあたしは、じろじろと女の子を観察し過ぎていたみたいだ。ばつの悪くなったあたしはとっさに「か、可愛いね」と誉めることにした。
「ありがとう、おねえちゃん。おねえちゃんも、可愛いね」
「あ、ありがとう」
可愛いね、の言葉に、くすぶっていた気持ちが胸の中で揺れた。そう、ほんの数年前まで、あたしも毎日のように可愛いと言われていたのに。思わず「サイン、書こうか?」と言いたくなったけど、もうあたしに、そんなことを言う人は居ない。女の子の花のような笑顔に、じりりと腹の底が焼けるような嫉妬心を覚えたけれど、それももう、あたしには必要の無いものだと思い直す。
「でも、おねえちゃんの夢の方が、もーっと可愛くて、綺麗で、素敵」
「え?」
突拍子もない「夢」という単語に、思わず変な声を上げる。しかし女の子はにこにこと、あどけない笑顔のまま、こっちにスキップしながら近づき、上目遣いであたしの顔をのぞき込む。
「ねえ、おねえちゃんの夢って、何?」
「ゆ、め? それって、将来の夢、とか、何になりたいか、みたいな?」
「うーん……ちょっと違うけど、似てる。大体そんな感じかなっ」
将来の夢、何になりたいか、だなんて。
一瞬にして気持ちが落ち込む。どうしてそんなことをあたしに聞くんだろう。凄く嫌な気持ちになった。けれど、女の子はあの紅い瞳で、あたしをじっと見つめたままだ。紅く揺らめく、不思議な輝きを持った瞳から、目をそらせない。まるで心の中まで見透かされているような気がしたから。
でも、本当の気持ちなんか言えない。言いたくない。あたしはぐっとこらえる。本当の気持ちなんて、言っちゃだめだ。
女の子の紅い目線をそらしながら、あたしは口を開いた。
「……ちゃんと勉強して、普通の大学に行って、普通の仕事をすることだよ」
ママから言われた言葉を、まるで自分に言い聞かせるように呟く。そう、あたしの本当の夢は、叶えることなんか、出来ない。すると女の子は目を丸くして、小首をかしげた。何がおかしいの、と文句を言おうとする前に、女の子の口が開いた。
「ふーん……。ねえ、それって本当におねえちゃんの夢なの?」
「……っ!」
愛らしいけど、まるでその声は鋭いナイフみたいで。思わず、せっかくそらしたはずの視線を戻してしまった。
女の子の顔から、微笑は消えている。紅い目が、鋭くあたしを見る。本当に胸の中が暴かれているような気がして、身体がむずむずする。
――ほんの数年前まで、あたしは人気子役……簡単に言えば、芸能人だった。
小学二年の時、偶然応募した映画のオーディションに合格。映画が大ヒットし、一躍時の人となった。
天才子役、と祭り上げられ、毎日のようにあたしはテレビに雑誌に引っ張りだこ。街を歩けば必ず声をかけられ、サインと写真を求められる。たまに学校に行けば、クラスメートからは羨望の眼差しだ。それはとても気分の良いものだったけど、それよりももっと、素敵なものに出会えた。
お芝居が、楽しかったのだ。
別の自分になれることが、楽しくて仕方なかった。夢のような日々だった。
だけど夢は、醒めるのも早い。
子役は子供らしさが求められるのだと、あたしはその時に初めて知った。それは例えば、背の小ささや、愛らしい表情。多くの人が求める「可愛い子供」。だから、背が伸びた、歯が生え変わった、顔つきが変わった……それだけで仕事は無くなっていく。
あたしも例外なく、その一人だった。
子役として人気だったのは、ほんの少しの間だけ。小学四年になり、身体は急に成長期に入った。背が伸び、歯が生え変わり、顔つきが変化した。そのうちに映画のブームも去り、テレビや雑誌からあたしの名前は消え、あたしに声を掛ける人は、誰も居なくなった。
それでもあたしは、お芝居が続けたくて、両親にお願いしてレッスンを続け、映画やドラマなど、とにかく色々なオーディションを受け続けた。
中でも多く受けたのは、舞台のオーディションだ。
映画の撮影に入る前、初めて舞台演劇を見に行った時のことだ。画面の向こうでは味わえない、生きている演技に触れた瞬間、衝撃を受けた。あたしのいる場所はここだ、と。それ以来、あたしは舞台に強い憧れを抱くようになった。
だけど、元々演技に関して素人だったあたしは、オーディションに軒並み落ちまくった。
今考えれば、落ちるのも当然だった。それまで、お芝居なんて学芸会しかやったことが無い。周りの子供たちは、皆小さいころからレッスンに通い、あたしがのんびりすごしてきた時間を全てそれに費やしてきた子たちばかりだったのだ。すでに心持ちから違っていた。だから嫌味も中傷も、分かりやすいほどに受けた。とても悔しかったけど、今思えば、当たり前だった。
最初こそ奔走してくれた事務所のスタッフも、あたしの本当の実力が分かったのか、次第に連絡が少なくなっていった。
始めは応援してくれていた両親も、芸能界特有の空気と、レッスン代や交通費にかかるお金に、へとへとになっていた。ストレスからくるあたしの暴言を受け止め、時には喧嘩になり、週刊誌の
「もう、パパは疲れたよ」
普段物静かなパパが、搾り出したような声でつぶやいたのが、ショックだった。
自分でも、本当にお芝居が好きなのかどうか、分らなくなっていた。
そのうちにネットで、「
勉強しようと思って買ってもらった、演劇のDVDや本も、開ける気すら無くなっていた。
「潮時だ、もう芸能人なんてやめなさい」
パパの言葉に、うなだれながら頷いた。引退すると決めたのだ。
そして四月。中学に進学すると同時に、引退を発表した。
だけど引退のニュースは、所属事務所のサイトの片隅に乗っただけで、ネットのニュースにも、もちろんテレビのワイドショーにも流れなかった。みんな、あたしが辞める事それすらが、どうでもよくなっているのが、良く分かった。
あたしはお芝居を辞めた。芸能人であることを辞めた。そう、あたしは、特別な存在なんかじゃない。ただの、普通の人だったんだってことに、いまさら気づいたんだ。
なのに。
――ああ、嫌だ、嫌だ。せっかく忘れようとしていたのに。あの子の目が、あたしの夢を思い出させるなんて。
普通の学校に行って、普通に大学に入って、普通の会社に就職するんだ。元々あたしは、普通の人だったんだから。
引きずり出された記憶に憤慨し、再び目をそらしかけたその時、女の子は薄笑いを浮かべた。
「
さっきとは違う、なんだか背中がぞくっとするように冷ややかで、けれどどこか情熱的な声に、あたしは身体をこわばらせた。すると女の子は、すっと腕を伸ばし、手をピストルみたいな形にして、あたしの胸元にとん、と指先を当てた。とても自然な動作に、あたしは抵抗する気すら起こせなかった。
「ばーん」
拳銃を撃つような声真似がしたかと思った瞬間、胸に痛みが走った。熱く、まるで撃ち抜かれたような痛みが。
「その夢、大事にして?」
女の子の声が頭の中に響いたような気がした。
そして目眩がして、思わずその場に崩れ落ちる。
――どれだけそうしていただろう、はっと気づくと、女の子は居なくなっていた。
「いったい、何が……」
「おーい、アンタ、どうしたね。大丈夫かい?」
突然かけられた声に驚いて、声の方に視線を向けると、道路を挟んだ向こう側でバスを待っているおじいさんが、心配そうな顔をして手を振っているのが見えた。あたしはあわてて立ち上がり、ぐしゃぐしゃになったセーラー服のひだを直す。大丈夫です、と答えると、おじいさんはちょっとだけ安心したような顔になった。
「あ、あの、すみません、女の子……青色の髪の、可愛いフリルのたくさんついた服を着た、日傘を持った女の子、どっちに行きましたか?」
あの女の子が、急に姿を消したことが不思議でたまらなかった。
しかしおじいさんは、大きく首を傾げ、不思議そうというより、気の毒な子を見るような表情になった。
「女の子? わしはアンタが来る前からずっとここでバスを待っとったが、女の子なんぞ、アンタ以外おらんかったし、通りかかりもせんかったが……アンタがそこで、ボーっと突っ立ってただけだぞい。本当に、大丈夫かね」
そんなバカな。おじいさんの言葉をすぐに信じることが出来なかった。あたしは確かに、女の子と話をしていたはずなのだ。
「そんな、あたし、今の今まで……」
困惑するあたしを尻目に、おじいさんは訝しげな顔をしつつも、到着した巡回バスに乗っていった。すっかり人の気配が無くなり、遠い空には、茜色がにじみ始めるのが見える。かすかに残る青い空を見上げて思い出すのは、胸元に当てられた柔らかい指の感触と、姿に似つかわしくない、冷ややかな声。
「あの子は……一体、何者なの……」
物悲しいカラスの鳴き声が、いつにになく不気味に思え、あたしは思わず鞄をぎゅっと握り締めた。
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