金銀暗躍 後篇

「夫婦円満なようで、何よりです」

 薄い赤色をした野菜のスープをすすったあと、アリシア・ブレンダ軍曹が唐突に言った。目を見開いたステラは、一瞬、自分の持っているカップに目を落としたあと、再び彼女を見た。相変わらずからかっているのか本音なのかわからない表情である。

 二人が今いるのは、皇室師団本部の食堂。ただし、まだ兵士たちの姿はない。士官が数人、いるだけだ。がらんとした食堂は人が少ないせいか、照明があってもやや暗く感じる。ステラとアリシアも、書類仕事が一段落したところで、早めの夕食をとっていた。

『ヴィナード』とのやり取りをひそかに報告していたところ、突然夫婦生活に触れられたステラは、少し顔をしかめた。

「私が今話しているのは、ヴィナードのことだけど」

「隊長ともあろうお方が、つまらない理屈に逃げないでください」

「なんか辛辣!?」

 ステラとしては当然のことを言ったつもりだったが、補佐役の軍曹はなにかが気に入らなかったらしい。急にしかめっ面になってしまった。彼女の意図をはかりかねたステラは、とりあえず、自分のかぼちゃスープを一口すする。爽やかな甘みが、とろりと流れこんできた。ステラが喉を温めていると、アリシアが追撃をかけてくる。

「本当に気づいておられないのですか」

「何に」

「お顔がゆるんでおいででした」

 中尉は、かぼちゃスープを吹き出しそうになって、慌ててこらえた。そのせいで少しむせた。咳きこんだあと、彼女は部下を涙目で見上げる。

「つまり、あれ? にやにやしてたって言いたいの」

「さすがのご明察」

「その褒め言葉いらないから。って言うか、そんなに顔に出てたのか、私」

 学生時代、友人に、「ステラってば顔に出やすいよねー」としょっちゅう言われていたことを思い出し、うなだれる。アリシアは意外にも、そんな彼女を見て、桜色の唇をほころばせた。

「仲がよろしいのはよくわかりました。困りごとはありませんか」

「そうねえ。仕事上ならともかく、は今のところ大丈夫よ」

 アリシア・ブレンダ軍曹はステラの部下であるが、彼女よりも十歳近く年上だ。その分経験も豊富で、いろいろな相談に乗ってくれる。仕事のことから夫婦関係、友人関係の愚痴、時には、とても男衆の前で口にできないような――女性特有の問題、悩みまで。ディーリア中隊の副隊長とは別に、女性のアリシアが補佐役を任されているのは、そのためだった。

 二人はしばし、報告という名目の穏やかな時間に身をゆだねていた。しかし、それは唐突に終わりを告げた。靴音を高く響かせて、一人の軍人が食堂に駆けこんでくる。ステラとアリシア、二人の名を呼んだその人は、ディーリア中隊の副隊長を務める男だった。

「大変です!」

「何があった、副長」

 いつもは堂々たる風格を漂わせている男が、慌てた様子で駆けよってくる。ただならぬものを感じたステラは、腰を浮かせてた。副隊長は、息を整える間も惜しむ様子でその場にかしずいた。

「警察から引き渡される予定の不審者が、自害したとのことです」

 声をひそめての報告。それは、二人の女性に少なくない衝撃をもたらす。ステラとアリシアは、思わず顔を見合わせていた。

 

 捕らえた者が自害したというのは、警察や軍にとって頭の痛いことである。その理由はいくつかある。

 まず、情報源が失われる。その者への聴取などで得られるはずだった数々の事柄は、当人の自害によって、再び闇の中に埋もれてしまうのだ。この場合、セルフィラを信奉する危険な団体の手がかりが、軍人たちの手の中をすり抜けてしまったことになる。警察で聞き出せたこと――『導師』なる者が裏で関わっているということ――だけでは不足だからと、これから軍でも聴取を行う予定だったのに。

 加えて、不審者になんの裁きも与えずみすみす死なせたとあっては外聞も悪かった。帝都の住民の不安をかき立てることにもつながる。それはやがて、軍部への不信感にも変わりかねない感情だ。

 だからこそ、報告をする警官も、報告を受けるアーサーやステラも苦い顔をしていた。ステラは連隊長の横で、ひとり、拳をにぎりしめる。いろいろと問題はあるが、彼女にしてみれば何よりも、歩み寄ろうと思っていたセルフィラ信徒に死なれたことが衝撃的で、悔しかった。

 セルフィラ神は必ずしも悪ではない。彼女には彼女なりの信念があった。一度地上を追われる時まで、信念を貫いた。それを文字どおり直接知っているステラには、なんとも口惜しい結末になってしまった。

 しかも、ディーリア中隊としては「被疑者が死んだのでそれで終わり」というわけにはいかない。一度、セルフィラの影があるとわかった以上、宗教問題を解決する部隊として、セルフィラ信者たちの尻尾をつかまえる必要があった。

 だが、思うようには進まない。手がかりとなる情報が少なすぎた。そのうえ、宮殿前にやってきたというくだんの男が、どうやって自分の命を絶ったのかも判明していない。武器は持ちこめないはずだし、持ちこまなかった。魔導術は使えない状態にされていた。男がいた独房周辺で怪しい人が目撃されたという話もない。

 捜査が停滞し、さらにセルフィラ信徒による通り魔事件の報が飛びこんできたのは、それから十数日後のことだ。どんどん事態が悪い方へ転がってゆく。そこで、ステラはアーサーにある提案をした。そのうえで、彼と打ち合わせ、ひとつ「茶番劇」を演じることにした。

「ではさっそく、独房の警備の者を呼びだす手続きをしなければな。面倒だが、しかたがない」

「……よろしくお願いします」

 ぼやいたアーサーの表情は、言葉とは裏腹に楽しそうである。ステラは苦情をのみこんで、敬礼した。


 日が沈み、夜が来る。大通りと歓楽街は猥雑に活気づき、住宅街は静寂に沈む。しみこむような冷気が満ちて、間もなく雨が降り出した。

 降りしきる水の糸は、西区の閑静な住宅街にも降り注いでいた。その家の主の一人が、屋根を叩く雨音に突き動かされ、天井をあおぐ。だが、その目はすぐに手元の皿に落とされた。汚れが落ちたそれを、レクシオは慣れた手つきで棚にしまってゆく。隣で別の片づけを終えたステラは、彼の横顔をまんじりと見つめた。

「ねえ、レク。訊きたいんだけど」

「んー、なんすか」

 レクシオが、カップを並べ、検分するような目つきでながめる。彼の妙なしぐさを、けれども妻は気にしなかった。

「『読みとりの魔導術』……じゃなくて、マグナール・オリガだっけ。あれって、人間に対しても使えるものだよね」

 読みとりの魔導術。本来の名前をマグナール・オリガ。レクシオの生家エルデ家のみに伝わる、特殊な魔導術だった。その効力は『人や物の記憶を読みとる』というもので、他の魔導術と比べても異質なものだ。

 ステラがアーサーに提案したのは、独房の警備をしていた者にこの魔導術を使うことだった。ステラとしては人の記憶をこじ開けてのぞき見することはたまらなく嫌だったが、それくらいしか手がかりを得る方法が思いつかなかったのである。

 若草色の瞳に怪訝そうな光が宿る。夫は、顔を上げてステラを見つめてきた。

「どうしたんだ、急に」

「実は――」

 脈が速くなるのを感じながら、ステラは手早く事情を説明した。自害した男のことと、ステラがアーサーに提案したこと。そのふたつを聞くと、レクシオは、大きくうなずいた。棚の戸を両手で閉めて、彼は息を吐く。

「使えることは使えるんだけどな。人間の記憶を読みとるのは、物に対してそうするよりも難しいんだよ」

「そ、そうなの?」

「おうともさ。よし、久しぶりに魔導術講座といくか」

 二人は連れだって居間に戻ると、テーブルを挟んで向かいあう。レクシオが、ぱんっと手を打ってから人さし指を立てた。魔導技師の仕事のせいか、日に焼けたように茶色い指が、黒い頭をつついた。

「物から読みとる記憶ってのは、物を構成している魔元素マグノ・エレメルに蓄積された情報なんだ。生成過程とか、関わった人や動物のこと、などなど」

 ステラは、教師のような口調で話すレクシオに何度もうなずく。

「この記憶情報は、物の元素すべてに少しずつ分けられて蓄積されている。だから術者は、その情報を元素エレメルから暴いてく。物の場合は単純に元素エレメルを暴けばいいけど、生物の場合、そうもいかねえのよ」

「どういうこと?」

 ステラが首をかしげると、青年はなにかを考えるように黙りこんだ後、意地悪く笑った。

「――じゃあ、ここでステラに問題だ。体の中には、記憶を司る場所があるだろ。それはどーこだ」

「えーと、脳?」

 直接的な答えをもらえなかったことにぶぜんとする。それでもステラは、こめかみをつつきながら答えた。そこで――はっと、息をのむ。レクシオが、悪戯小僧の笑みを消して、腕を組んだ。

「なんとなく気づいたっしょ。あ、さっきの正解は、脳は脳でもそのなかの海馬と大脳皮質なんだけどな。魔導術で人間の記憶を探る場合、俺たちはその二か所に魔力を通して、干渉しなきゃいけない。脳にむかって見えない糸を通すみたいなもんさ。海馬なんかは繊細だからなー、一歩間違えたら、相手に記憶障害が残るぜ」

 記憶障害どころか、最悪の場合にはいわゆる廃人になる可能性もある。魔元素マグノ・エレメルと魔力の扱いを間違えば、体の中の繊細な臓器は簡単に傷つくのだ。

「……そ、それは困る」

 ステラは小さく身震いした。ただでさえ記憶をのぞくという行為に引け目があるのに、そんなことになっては目も当てられない。最悪、ステラの方が死にたくなるかもしれなかった。青ざめている妻を見、何を思ったのか、レクシオは栗色の頭をぽんぽんなでた。

「まあ無理すんな。おまえにそういうあくどいのは似合わん」

「な、なにそれ」

「それにな。その人の記憶を見るんじゃなくて、記憶に異常があるか確かめるだけなら、事はもうちっと簡単だ」

 ステラはまばたきし、夫を見つめる。

 今さらアーサー殿下に「やっぱりやめます」と言いだすのも難しいだろう。やってみるか。

 そんなふうに視線で問われた気がした。迷いも良心の呵責もおおいにあるが、すべてを飲み下し、うなずいた。


 翌日の、昼休憩の時間。ステラは再び、ダリアの咲く中庭に足を運んでいた。紅色の花弁をあでやかに広げる花を見つめながら、なじみ深い気配の訪れを待った。

 風が吹いて、草葉を騒がせる。鳥の声が遠くで聞こえる。穏やかな、優しい静寂。ピーイィ……と、鳥の歌が尾を引くように消えた頃、石畳を軽く叩く音がした。

「よっ」

 ステラは振り返る。いつかと同じく苔色の外套をまとった青年が、手を振りながら歩いてきた。その後ろには、軍服をまとった男の姿がある。レクシオが人を連れていることの珍しさにステラは驚いたが、その人がアーサーだと気づくと、すぐに居住まいを正した。

「やあ、そう堅苦しくしてくれるな、ステラどの。今は私的な時間と心得てくれたまえ」

 アーサーは、軍務のときとはまるで違う、朗らかな声を投げかけてくる。ステラは慌てふためきながらも、「わかりました、殿下」と応じて力を抜く。晴れわたった空の瞳が、ななめ前に動いた。彼は、レクシオの隣に並ぶと、血の気のない顔をのぞきこんだ。

「私に気をつかうより、まずはレクシオどのを休ませてやってはくれないかな」

「いや、殿下。そういうのいいんで……」

 レクシオは手を出して退けたが、そのうちにステラが彼の前に歩み寄っていた。両手をのばすと、肩をつかむ。

「あんた、まっさおじゃない。やっぱり、いきなりやるのは無茶だったんじゃ」

「大丈夫って言ってんのに。呪いのお人形に比べればだいぶ楽だったぞ」

 今にも肩を揺さぶりだしそうなステラに、レクシオが軽口を叩く。彼女は、相変わらずな夫を半ば強引に休ませた。

 レクシオは、しばし頭を押さえて丸まっていた。彼の状態が落ちつくのを待って、アーサーが言葉少なに報告を求める。

「あの警備の人な。手ぇつかんだついでに魔力通してみたけど、あたりだぜ。大脳皮質と大脳辺縁系にかけて、ところどころだが、本人のものとは違う魔力の痕跡があった。ほぼ確実に、術でいじられてる」

 口早にそう言ってから、彼はカンタベル公爵を振り仰ぐ。

「殿下、聴取の方はどうだったんすか」

「やはり独房周辺に不審な人物は来なかったそうだ。嘘をついている様子でもなかった。まあ、どちらにしろ中の者を死なせた責任は問われているはずだから、だいぶん憔悴していたがな」

「……ということは、記憶を消されたのではなく、書きかえられたか?」

 呟いたレクシオの瞳に、鋭い光が走る。ステラも息をのんだ。それが本当なら、警察に侵入した人間がいて、その者はかなりの実力を備えた魔導士ということになる。

「そんな者を誘いこめるとしたら、警察関係者か、あの不審者がいたときに宮殿前に居合わせた者……の、どちらかだがな」

「彼がどうなったのかを知っている人は、そのくらいですからね」

 ステラは眉間にしわを寄せ、うめいた。警察の者以外であの日、宮殿前にいたのは、警備にあたっていた二人とディーリア中隊の新兵一人。それから数人の近衛兵。いずれにしろ、アーサーやステラの部下である。

「なんとも嫌な話だ」

 苦々しげなアーサー殿下の声が、足もとの草を揺らした。

「だが、嫌と言っていてもしかたがあるまいな。せいぜい目を光らせておくとしよう。なあ、ステラどの」

「はい」

 ステラがうなずいたところで、レクシオが弾みをつけて立ちあがった。彼がフードを目深にかぶるのを見て、アーサーが喉を鳴らして笑う。

「ところで、レクシオどの。貴殿の姿はときどき兵士に目撃されているようだぞ」

「まあ、ちらっと見られるくらいなら大丈夫っしょ。幽霊だなんだと騒がれて終わりです」

「幽霊扱いならまだよいのだが、連隊長がひそかに諜報員を雇っているだとか、ディーリア中隊の隊長が、上官の寝首をかくために雇った暗殺者だとか、実におもしろい噂が立っている」

 ステラは身を縮めた。いつの間に、そんな妙な話になっていたのか、と、男二人を見比べる。しかし、アーサーはおもしろがっているだけで、レクシオも無言で笑ってフードをつまんでいた。

「諜報員はほぼ事実でしょ。あと、俺が殿下を狙うとしたら、完璧に隠れるか、軍人と接触して愛想よくあなたに近づきますよ」

 笑い含みの声を庭に残し、レクシオは庭から去ってゆく。後ろ姿を見送っていた碧眼が、鋭く細められた。

「今回の内通者も、同じことを考えているかもしれんな」

 愛想よく近づく者が狙っているのは果たして誰か。あるいは、帝国そのものか。なんにせよ、その声は、娘の耳に強く残った。


 オルディアン連隊長が、突然軍部から姿を消したのは、それから間もなくのことだった。連隊長のまわりの軍人たちが慌てふためき、しかしそれを表には出さずに上司を探し回る。彼らの働きぶりを見ながら、ステラはひとり、ため息をついた。

 彼が兵士に扮して帝都へ出た、ということはすぐにわかった。というのも、街の方で暴動騒ぎが起きて、それについてアーサー本人から連絡があったのである。連絡を受け取ったのがステラ・イルフォード中尉本人だったことは、お互いにとって幸運だったかもしれない。

 多数の逮捕者を出しながらも、暴動は一応鎮静した。よって、定時よりやや遅くに帰宅が許されたステラは我が家に戻り、レクシオに今日のことを話した。彼は笑って「殿下らしいじゃねーの」と言っただけである。

 そうして、一日が終わるかと思われた。

 しかし、本当の戦いはこれからだったのだ。帰宅からわずか三時間後に、ステラはそれを想い知らされた。



     ※



 夜半、レクシオは目を覚ました。ふだんの覚醒とは違い、ぱちっと明かりが灯るような感じだった。こういうときはたいてい、危険が迫っているのである。そのことをよく知っているレクシオは、静かに身を起こすと、枕元に置いていた武器を手に取った。するりと寝台から下りて、足音を抑えて寝室から出た。

「あっ」

「おおっ」

 扉を開けた直後、ステラと鉢合わせる。彼女はすでに軍服姿で、剣を鞘ごと手に持っていた。

「レク、気づいてる?」

「もちろん」

 声を交わしながらも、レクシオは視線を窓に向ける。好ましくない記憶を想起させる気配が、帝都のあちらこちらに散らばっていた。

じゅうだな、こりゃあ」

 魔獣――かつて、セルフィラに付き従っていた神族の一人が生み出した、実体を持たない獣。それが、また帝都にいる。

「なんで、今になって魔獣が……。レーシュはもういないのに」

「レーシュが誰かに製造方法を託したか、逆に誰かが後から調べたか。どちらかだな」

 戸口へ向かう。家の玄関扉を開いたのは、ステラの方だ。レクシオは後ろで長い衣を身にまとい、フードの端をつまんで下げる。

 その彼を振り返り、ステラが不敵にほほ笑んだ。

「じゃあ、あたしは軍部に行ってくる」

「おう。俺は市街に出るわ。なんかあったら通信機で連絡くれや」

「了解」

 端的なやり取りの後、二人は互いの拳を合わせた。


 警報がやかましく鳴り響く。その中を、レクシオは無言で疾駆していた。魔獣の影を見かけるたびに、鋼線を伸ばして振るう。銀糸の軌道に合わせて金色の光が舞って、魔獣の体を切り裂いた。

 ステラが軍部に向かったからには、ディーリア中隊が動き出すのも時間の問題だろう。そうなれば、レクシオが市街で動き回る必要はない。むしろ、誰かに見られる方が危険だ。

 建物の壁をつたって、屋根の上までのぼった。翼を持つ魔獣を一体屠ったところで、あわただしい足音を聞き取る。軍人たちが来たらしい。ほどなくして、足音は銃声にかき消された。

 その後もしばらく魔獣の掃討を続けていたが、外壁近くにまで来たところで、通信機の反応に気がついた。レクシオは左手で通信機を器用に取ると、大声で呼びかける。

「ステラ?」

『あ、レク! そっちは大丈夫?』

「だいぶん片付きましたよ。どうした?」

 口早に問うと、ステラはレクシオが眉をしかめるような状況を教えてくれた。魔獣討伐に向かっていたディーリア中隊のうち、第四班に振り分けた人たちと連絡が取れなくなったという。その近くで対処に当たっていた第三班を捜索に向かわせたが、ステラとしてはそれだけでは不安らしい。レクシオも、同感だった。

『導師とやらが関わっている可能性もあるわ。だから、レクにも様子を見にいってほしいんだけど』

「なるほど、了解」

『……ごめん、ありがとう』

 通信機のむこうの声は、心底済まなさそうだった。レクシオはほほ笑む。

 ステラが謝る必要は、どこにもないのだ。この道を選んだのは、彼自身なのだから。

 彼は、そのことを口に出しはしない。かわりに、まったく別のことを言った。

「極力、おまえの部下に正体を知られないようには注意する。だけど――危なそうだったら、さすがに手ぇ出すぞ」

『わかった。……部下を、よろしくお願いします』

 ――その声に応えて、レクシオは通信を切った。足もとを軽く蹴って、駆ける。

 のんびりしている暇はない。連絡がつかない、ということは、すでになにかが起きている証拠だ。

 帝都を出る。門扉もんぴは固く閉ざされていたが、外壁を飛び越えるレクシオには関係のないことだった。ひたすら駆ける。目指すは郊外の、森の中。それはステラに確認するまでもなく、わかったことだ。強力で、まがまがしい魔導士の気配が、そちらからする。

 気配を追って、駆けていく――その先で、レクシオは、赤毛の少年と対峙するキリクを見た。



     ※



 黄色い明かりは、宵闇よいやみの中で数少ない目印であるように思われた。ステラは、胸一杯に夜気を吸いこみ、長く吐きだす。それから、弾むように歩調を上げて、我が家の前にたどり着いた。そこでようやく、肩の力が抜けた。先ほどまで上官に誘われて酒場に行っていたのだが、やはり女性ということもあり、たびたびからまれていたのである。おかげで、途中からは意識して気配を鋭くせねばならなかった。

 見慣れた茶色い扉を開くと、なじみ深く温かいにおいが漂ってくる。ステラが息を吐いて「ただいま」と言うと、青年の声がそれに応じた。見れば、彼女の夫が寝室へと続く扉から顔だけ出して笑っている。妻がへいしきっているのを見越して先回りしたのだろう。相変わらず抜け目のない奴である。

「お疲れさーん」

「疲れたー。ほんっと疲れたー。水持ってきて、水ー」

 ふらふらと歩くステラに「はいはい」と笑いかけ、レクシオが寝室を飛び出した。「そんなん自分でやれ」と言わないあたり、彼女を気遣ってくれているらしい。寝室に入ったステラは、古びた衝立が立っている裏に入り、手早く着がえを済ませた。ゆったりとした白い寝間着のまま、寝台に勢いよく飛びこむ。

「おーい、起きて飲めよ」

 すぐそばに聞こえた声に「あい」と間抜けな返事をし、ステラは気だるい上体を起こした。水の入ったグラスを受け取ると、ひと息にあおった。グラスを脇の小机に置いたとき、水がすっと全身にしみるのを感じて身震いする。

「ああ、助かった……」

「珍しいな。そんなに飲んだのか」

「いやー。どちらかというと気疲れ」

 ずいぶん前に家を飛び出したおかげで庶民生活の方が長いとはいえ、もとは貴族の子女である。ステラはいつも、酒はたしなむ程度にしか飲まない。この日もそれは変わらなかったが――彼女が誘われたのは貴族の社交場ではなく、庶民の酒場なのだ。当然、不逞の輩もいれば下世話な話も転がり出てくる。

「ほんっとにもう、しつこいんだから。夫いるって言ってんでしょうが。なんなんだよ、下心丸見えだよ、もう少しで下顎殴りつけるところだったよ!」

「下顎はやめとけ。おまえが急所狙ったら痛いじゃ済まない」

 レクシオの言葉は、いささか的外れであった。だが、下手に応酬をしようとしないことが、今のステラにはかえってありがたかった。とにかく愚痴をこぼしたいだけなのである。

 そうしてしばらく、ステラは体を休めつつ、夫に愚痴を吐き続けた。レクシオは気のない相槌を繰り返しつつ、もたれかかってくる彼女の頭をなでる。犬か子どもにするようなことだったが、ステラはそれで気が安らぐのか、目を細めた。

 言葉の洪水が落ちついたところで、レクシオが平生へいぜいの口調で切り出した。

「そういえば、キリク君はどうなったんだ」

「ああ……。うん、なんか、ふっきれたみたいだったよ」

 ステラも、ようやくいつもの調子で答えを返す。しかし、レクシオに身をゆだねるのはやめなかった。

 帝都の街中で話したあと、今日中に何度かキリクを見かけた。ここ数日の沈んだ様子が嘘のように、いつもどおりだった。いつもと少し違ったのは、夕食のときに一人で粥をすするのではなく、三人ほどの少年兵と固まって食べていたことである。

 少年兵の様子を伝え聞いたレクシオが、優しく目もとをゆるめた。

「そうか。ま、立ち直ったんならよかった、よかった」

 彼の言葉にステラも笑う。だが、すぐ後、苦い顔になった。大事なことを思い出したのである。

「それと、レク。あたし、『銀の翼』って見抜かれた」

『大事なこと』をひと息に伝えると、レクシオは目を丸くする。

 ラフィアが一時代に二人を選び、魔力を授ける存在。それが『翼』だ。正しくは、女神が直接選ぶのが『銀の翼』、その『銀』が選ぶのが『金の翼』である。が、市井の人々は、そこまでは知りようがない。

「あんたが『金』だとは、たぶん、見抜いてないけど。うすうす察してはいるんじゃないかな」

 女神の選定――当事者いわく「不幸な事故」――により当代の『翼』となったステラは、片翼に目をやった。彼は少し考え込んだ後、ひとつ、うなずいた。

「まあ、感づかれてもおかしくないわな。あの山にも来てたし、おまえの剣の光も見てる。教会の跡継ぎ候補だったから、言い伝えのことも知ってるはずだ」

「うん」

 ラフィアと『翼』の言い伝えは、原則、他言無用と言われているらしい。セレスト家の人間はそれもあって、キリクを聖職につけたかったのだろうが。ステラには、あの少年がそうほいほいと口外するとは思えなかった。ゆえに、彼らの身分や素性が割れることは恐れなくてもよさそうだが、キリク自身の処遇をどうするかは少し悩む。そうステラが打ち明けると、レクシオはあっけらかんとして言い放った。

「どうも何も。この際、こき使っちゃってもいいんじゃね」

「えっ? それってどういう……」

「表向きにはなにも変わらず。けど、裏では俺たちの協力者として動いてもらう、とか」

 おもしろがっている夫をステラは冷やかに見つめ返した。すると彼は、大げさに両手を挙げる。

「なにも、むりやりそうしろって言ってるわけじゃないっしょ。すべてはキリク君の意志しだいだ。ただまあ、彼もここまで関わって、素知らぬふりはできないと思うね」

 おそらくこれから、セルフィラ派の動きはもっと活発になる。レクシオはそれを言っているのだろう。ステラが眉を寄せて考えこんでいると、温かい手が頭をなでてきた。何度か髪の毛を梳くように滑った手は、最後に軽く叩いてくる。

「レク」

「……とりあえず、寝るか。難しいことは明日から考えようぜ。おまえ一人で悩んでても、頭爆発するだけだろ」

「うん」

 うなずいた後、ステラはほっと顔をほころばせた。

 二人で少しの間に笑いあったあと、ステラが少し背伸びをすると、レクシオは苦笑した。優しい口付けのあと、どちらのものともわからぬ「おやすみ」のひと声が、夜に響いて溶けあった。



(金銀暗躍・完)

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