舞台裏の物語
金銀暗躍 前篇
ステラ・イルフォードは、幼い頃から、父の所属する宮廷騎士団にあこがれを抱いていた。幼い娘の憧憬が人生の一大目標に変わるのに時間はかからない。幼少の頃から行動力だけは誰にも負けないほどであった娘は、目標のためだけに剣を磨き、苦手な勉学に励んだものである。努力のかいあってか、または途中に巻きこまれた戦いでの功を認められてか、学生の身でありながら騎士団に引き抜かれた。人生の目標は、本人の予想以上に早く達成されたのである。
だが、何が起きるか知れぬのが人生であり、この世界だ。自身の行く先ですら、人の身には見通しきれない。まして、自分自身より外で起きた出来事に関してならば、なおのこと。
ステラの入団からわずか半年後に、宮廷騎士団が帝国軍に吸収され、『皇室師団』という軍のいち組織になってしまうなどと、下っ端の兵士に予想できようか。
もちろん、以前から、騎士団と軍部の統合の話は出ていた。いわば宮廷騎士団とは、常備軍がなかった時代の名残である。皇族に大きすぎる軍事力を与えてしまうという点を危惧する声があがったこともあり、その話はステラが学生だった頃から、かなり現実味を帯びていた。――だが、一度話が決まってからの動きが、あまりにも早すぎた。
おかげで古参の騎士は流れに取り残される者も多く、皇室師団成立当初は、陸軍側との争いも多く起きた。砲も投石機も扱ったことのない騎兵と歩兵は、銃火器という未知の武器に戸惑い、軍部との統合を理由に、皇室師団を抜ける者が続出した。
ステラはその点で、上層部の人間からにらまれていたような記憶がある。イルフォード家は、帝国が王国だった頃から存在する騎士の一門だ。新しい流れを嫌がると思われたのだろう。
だが、それを知ったときのステラは、カンタベル公爵にして連隊長である男に言い放った。
「ばかばかしい。皇族を守る軍隊、という役割が変わらぬ以上、私もそれに従うだけです」
「ばかばかしい、とはさすがの仰りようだ、ステラどの。では、貴殿は宮廷騎士団が軍に変わったことに対し不満もなく、剣を捧げ続けると?」
二人だけの場で、アーサーが意地悪に問いかえせば、彼女は毅然として続けた。
「多少の不満はございます。ですが、そんなことはどうでもよろしい。軍となった騎士団にもいずれ馴染めるでしょう。組織の形がほんの少し変わっただけで逃げだしたとあっては、皇室のまことの騎士とはいえません」
要は、「やることは同じなんだから、その他もろもろ些細な違和感はどうでもいい」というわけである。彼女はこの言葉どおり、軍隊という異質な環境にも早々に溶けこんでゆくのだが、当時は本人も相手のアーサーも、そこまで想像していなかった。
アーサーは、笑った。相変わらず楽天的なのか豪胆なのかわからない娘だ、と彼女を評した。
だが、ステラが退室したのち、その笑みはとげをまとって変質する。
「皇室のまことの騎士、か。よく言ったものだな。貴殿はすでに、皇帝でも皇族でもないただ一人に、忠誠を捧げているのだろう?」
その意味を知るのはステラと一部の知り合いのみ。彼の言葉は虚空に消え、誰の胸にもどこの歴史にも、残らない。
ステラは、兵士たちの起床時間の一時間前に皇室師団本部へ入る。簡単な武器の点検を済ませたあとは、自分と同じ「通い」の軍人たちと情報交換をしたり、小さな休憩室で時間をつぶしたりする。その日、ステラが選んだのは後者だった。
休憩室は、さほど広くない。大人が五人入ると息苦しくなるくらいである。その狭い部屋に、本棚とテーブルといくらかの椅子がある。隣には給湯室があり、そこで淹れたお茶を持ってくることはできるが、それにしても殺風景だ。
そっけない椅子に腰かけると、昨日のなごりか、煙草のにおいがした。ステラは軽く顔をしかめる。吸うなら外で吸え、と彼女もほかの高官もさんざん言っているのに、それを守らない
「殺人事件……?」
正確には、殺人未遂のようだ。
悲しいかな、殺人や傷害といった事件は、帝都ではたびたび起きるものだ。だが、この事件は何やらただ事ではない雰囲気が漂っている。そもそも、ここ何週間かは同じような事件の見出しを目にしているのだ。
「きな臭いなあ」
ステラは、他人事のように呟いて、その記事を熟読した。ややして休憩室の外が騒がしくなってくると、新聞をきれいに折りたたんで元のとおりに戻し、部屋を後にした。
直接の上官であるアーサーに呼び出されたのは、数時間後のことだった。第一連隊の隊長であり、現皇帝アデレードの弟でもある彼は、ステラが入室すると、最近お互いが抱えている案件について話しだした。
「新兵の宮殿警備の件だが。ディーリア中隊の方はどうなっている」
「は。ひとまずは、新兵の中で優秀な者を何人か選出しました」
「うん。まあ、いずれは全員にやってもらわねばならんことだ。見本を見せるという意味でも、妥当な判断か」
ステラが持参した紙束を、アーサーは「ありがとう」と言って受け取る。傲然としているように見える彼だが、礼を示すべき時には示すのである。彼が書類に目を通し、決裁したところで、ステラはそっと切り出した。
「しかし、新兵たちを警備につけるのが早すぎませんか」
「イルフォード中尉までそれを言うのか」アーサーは、屈託なく笑った。その後、急にまじめな顔になった。
「早めに、警備の強化をせねばならん事情ができた」
「事情、ですか」
ステラは首をかしげる。皇族でもある上官の表情から、まだなにか裏があるのでは、と思ってしまったからだった。しかしアーサーは、まじめに言葉を続ける。ステラが意味を取り損ねたと思ったのか、そう思うふりをしているのか。
「帝都で起きている殺人事件のことは知っているか」
「はっ。存じております」
ステラは胸中で舌打ちする。新聞記事の見出しを思い出す。実に嫌な予感がした。
彼女が何事かを悟ったと気づいたのか、アーサーはおもしろがるように目を細めた。
「姿の知れぬ犯人は、セルフィラ神の名を出したという。今朝、陸軍を通じて警察から報告があがったが、同様の事件がほかにも四件ほどあったそうだ」
「何件か……ということは、同一犯か、組織的犯行でしょうか」
中尉の脳裏に浮かんだのは、セルフィラ信者がつくる団体のことである。今まで、取り立てて実害のない組織に関しては目をつぶっていたが、そういうわけにもいかなくなるかもしれない。若き中隊長は暗雲の到来を予感し、目を伏せた。アーサーも苦々しい顔で呟く。
「まったく、もっと早く助けを求めてくればよいものを。軍の力を借りず終わらせたい、と思っておったのだろうな、警察の連中は。神がからむ事件を、ただの人間だけで解決できるわけがないというのに」
「しかたありません。ほとんどの人が、神の実在を知らないのですから」
ステラはふっと、笑みをこぼす。述べているのは事実であり、瞳の裏には皮肉っぽい光があった。
自分たちが『神』と呼ぶ存在が実在している。それも、理想とは程遠い形で。そんなことは、誰も、思わないだろう。思い当ったとしても考えたくはない。少なくともステラとアーサーはそう考えていた。ままならなさにため息をついた二人はそれから、どちらからともなく互いの顔を見やる。
命令を下したのは、むろん、アーサー殿下の方であった。
「ともかく、こうなっては無視できん。ディーリア中隊隊長、ステラ・イルフォード中尉に命ずる。警察と連携して本件の調査に当たれ。必要とあらば『力』も使え」
「……了解」
ステラは一瞬、酸っぱい物を食べたように目もとをゆがめたが、すぐに無表情の仮面をまとい、敬礼する。「失礼いたします」の一言とともに踵を返した彼女の背に、真剣な一声が投げかけられた。
「言わずとも承知しているとは思うが。おぬしのご夫君にも忘れず伝えてくれ」
「は――」
短く応答の声を発し、ステラは扉を開けた。
本当ならば、夫を巻きこまずに決着をつけたかった。その内心を読みとられたのだろうかと、ステラは一人になってから肩をすくめる。廊下を進む足取りが逃げるようにせわしくなってしまったのは、しかたのないことだった。
軍部がひいきにしている魔導技師が来た。その知らせを受けたのは、二日後の夕方のことである。息せき切って走ってきたセレスト一等兵についてゆくと、黒髪に緑の目の青年が、別の中隊の隊士相手に談笑していた。彼はステラに気づくと、髪留めからこぼれた前髪をすくあいげてから、ほほ笑む。
「ヴィナード!」
その名を呼ぶ自分の声が、意外なほどに輝いていて、ステラは苦笑してしまう。それでも、いつものようにやり取りをし、兵器管理部に連絡を取り、魔導具点検の約束を取りつけた。後ろで新兵たちが野次馬と化しているのには気づいていたが、無視した。
別れ際、ステラはヴィナードの背に呼びかける。彼が振り向いた瞬間、わずかに声を潜めて言った。
「中庭のダリアが、すごくきれいに咲いたのよ」
青年は、視線だけで振り返る。それから、にこりと笑った。
「それは素敵ですね。一度は見てみたいものです」
「かけあってみましょうか」
「イルフォード中尉にそこまでの迷惑はかけられませんよ」
ヴィナードは穏やかな声を残し、夕日の中へ歩いていった。
太陽の半分が地平の下に隠れ、月に天の御座を譲ろうとしている頃。ステラは、剣もさげずに、本部の中庭を訪れた。風にそよぐ草は人の手によって整えられ、土の上には砂利がまかれたり石畳が敷かれたりして、ひとつの芸術品に仕立てられている。その、庭の奥。丸い石で区切られた場所に咲くダリアに目をとめて、ステラは立ち止まった。
「本当に見事に咲いたな」
声は、上から響いた。咲き誇るダリアの園のすぐ近く。そびえ立つ木の中に、人の影がある。外套をまとい顔をフードで隠した彼は、器用に枝に座っていた。今日の外套は、夜に溶け込む漆黒ではなく、草葉に溶けこむ苔色。その彼に、ステラは軽くほほ笑みかけた。
「仕事は本当に大丈夫?」
「昼から休みってのは本当よ? ここに来るまではゆっくりさせていただいたので、中尉殿は気にしなさんな」
「それならいいけど」
ステラが言うと、彼はふっと相好を崩した。フードを外しはしなかったが、陰に隠れている若草色の瞳が、ちかりと輝いた。
魔導技師ヴィナード。ふだんはそう名乗っているステラの夫は、本来の調子で口火を切った。
「で? 例の殺人事件について、なんか分かったのか」
「今のところ、手がかりがないわ。つかめた情報といえば、正確な事件の件数くらいなものね。殺人事件は四件だけど、未遂事件は二十件近く起きてるわ」
「げ。めんどくさ」
彼はぼやいて、伸びをする。ステラの無言の催促に気づくと、おもむろに口を開いた。
「こっちもちょっと探ってみてんだけど。被害に遭ってんのは、『敬虔なラフェイリアス教徒』ってご近所でも有名な人。それから、ラフェイリアス教の神官たち。教会の神父さんは今のところ誰にも襲われてないって言ってたから、一人にならないようにとは言っといた」
「ありがと」
ステラは、ぬかりない夫をねぎう。そして、顎に手を当てた。
「でも、被害者がそういう人たち、ってことは」
「ふりじゃなくて、本気でラフェイリアス教にけんか売ってんのかもな」
声音こそ軽かったが、青年のまとう気配は鋭さを増していた。無言でうなずいたステラは、再び大樹を見上げる。
「了解。じゃあ、レク、もう少し探ってみてくれる? こっちも進展があったら連絡するから」
「ほいほい。無理すんなよー」
夫――レクシオ・エルデは片手を上げてそううそぶくと、ひょいっと立ち上がって木の枝を蹴る。外套は、あっという間に建物の屋上に飛び移り、夕暮れの空の先に消えてしまった。
※
蒼い闇の端に金色の光が広がって、今日の夜明けを静かに告げた。光の色に染め上げられた千切れ雲のただよう空に、厳かな鐘の音が染みわたる。それを待っていたかのように、街はざわめき、ゆっくりと動き出した。
もはや誰も本来の名を呼ばぬ帝国の、長い繁栄を支える都。そこに暮らす人々の朝は、このように、早い。だが、帝都の東の街角にたたずむ、小さな民家の朝は、さらに早かった。鐘の音が鳴り響く頃には、すでに炊煙が立ちのぼっている。
その家の住人たる青年は、若草色の瞳を窓の外に向けた。今頃の帝都では、昼間になると天が煙でかすんでしまうから、澄んだ空は朝方か深夜にしかおがめない。美しい
空をながめながら鞄の中身を確かめていると、ふわり、と食欲をそそる匂いが漂ってきていた。彼の妻が、パンとおかずの乗った皿と、スープカップを運んできているところだった。
「やー、今日はうまくできたわ」
もとは学友である妻は、朝から明るい笑顔を振りまいている。いつもどおり、というよりいつも以上に明るい彼女に、青年は苦笑した。
「学院卒業してから、料理に失敗したことなんてないだろ」
「あたしのなかでは失敗、って思うときがあるのよ」
胸を張る彼女の姿には、年齢に似合わぬ稚気が感じられる。おかしさが限界に達し、とうとう彼は声を立てて笑った。
「やれやれ、意識の高い奥様に育ったな。十年前は炭を生み出す天才だったのに」
「言うなよ! レクのぶん、食べてやろうか!」
「それは困る」
慌てるふりをしておどけた青年――レクシオは、急いで食卓についた。夫婦そろって短い祈りを捧げたあと、まずはスープに口をつける。近郊でとれる野菜をふんだんに使ったスープは、朝の空気で冷えた体を、じんわりと温めた。
「お、うまい」
「へへ……ありがとう」
少年のように笑うステラ・イルフォードは、レクシオの目から見ると、学生時代とさほど変わっていないように思える。まあ、卒業してから一年程度しか経っていないのだから、そう思っても不思議ではないだろう。
優しい朝食を半分ほど胃に収めたところで、レクシオは口火を切った。
「それで、イルフォード中尉は今日も忙しいのか」
「そうねえ。今日は新兵を何人か、宮殿警備に回すことにしたから。その監督が大変かも」
レクシオは、カップを手にしたまま、目をみはった。
「え、早くねえ?」
思わず言ってしまえば、ステラがわずかに顔をしかめる。
「連隊長の提案なんだけど」
「……あの御仁は、相変わらず何考えてるかわかんねえなあ」
カンタベル公アーサー、またの名をアーサー・オルディアン。その顔を思い浮かべ、レクシオはかぶりを振った。彼がまだ皇子と呼ばれていたときに共同戦線を張ったことがあるが、そのときから、底が知れない人だとは思っていた。もっとも、むこうもレクシオに対して、同じことを思っているのだろうが。
「何事も起きないことを願う」
「同じく」と笑ったステラは、レクシオの方に水を向けてきた。
「ヴィナードさんはどうなの。なにか動きがありそう?」
仕事名で呼ばれたレクシオは、卵と豆の炒め物を口に運んだ。
「いやー。いつもと変わんねえんじゃねえかな。あ、確か、昼過ぎに軍部の技術者のとこに行けって言われてる」
「じゃあ、また会うかも」
「そうねー、多分」
軽い調子で答えたレクシオは、拍子に伸びをする。あくびを噛み殺したついでに、にじんだ涙をぬぐった。苦笑する妻と目を合わせて笑いあい、朝食を平らげる。そして、朝の凍てついた空気のなか、それぞれの職場に向かったのである。
帝都の一角、大通りと接続する西の小路を越えた先には、庶民向けの商店街がある。あるいは屋台のように品を広げ、あるいは小ぢんまりした建物の中で食物や雑貨を売りさばいているのだった。
舗装された通りを、郵便屋の鞄をかけた少年や、牛乳瓶を手からぶらさげた男が歩いてゆく。そして彼らの気配をもみ消すように、大きな乗合馬車が乾いた音をまき散らして走っていった。
雑多でかしましく、しかし生活の温かみにあふれた一角。そのさなかに、場違いな雰囲気を振りまく建物がある。ただし、外観はそこらの商店と変わらない。赤煉瓦の外壁に、いくつかの窓とこじゃれた茶色い扉がひとつ、という具合だ。窓からのぞく、店先に並ぶ品物ばかりが異様だった。分厚い鉄の板や、光り輝く粒で飾り立てられた鉄砲、くるくる回りその表面に光でつくられた地図を浮かび上がらせる透明な球。
扉の上に打ち付けられた看板の文字が、その奇妙な品々の正体を示していた。
『魔導具工房・太陽の石』――帝国屈指の魔導具工房のひとつだ。製造と出荷を主としつつ、時には直接魔導具を売りさばく。腕ききの職人や技師が多くいることでも知られており、レクシオもここに籍を置く一人だった。
「ヴィナード、工房長が呼んでるぞ!」
いくつかの長机を飛び越えて、男の渋い呼び声が青年の背中を叩いた。魔導技師ヴィナードと名乗って働いているレクシオは、構成式の金属板を机に置くと、振り向いた。
「はい。今行きます」
立ち上がって、その拍子に髪留めからこぼれた前髪をすくいあげる。気休め程度の変装だが、ステラいわく、額を見せるだけでもずいぶん印象が変わるらしい。そのおかげなのか、今のところ、ヴィナードとレクシオが同一人物だと看破した人の数は片手の指で数えられるだけだ。
広い部屋の戸口で、工房長が待っていた。筋骨隆々、ずんぐりとした体格で、立派な茶色い顎ひげを生やした偉丈夫である。彼がにやりと笑ったところで、レクシオは扉を後ろ手に閉めた。すると、いきなり、文字がびっしり並んだ紙を突きだされる。
「よう、ヴィナード。昼から軍部に交渉に行くだろう?」
「はい」
「これ、追加の品だ。うまく売りつけてこい」
「簡単におっしゃいますね……」
あっけらかんとした上司の態度に、つい、レクシオはため息をついた。すると彼は、豪快な笑い声を上げる。
「おまえだからこういう無茶を頼むんだぞ! 十二年間、あの帝国学院の連中を騙しぬいたっつー根性があればできる!」
「そこでまさかの根性論ですか」
レクシオは、つい目を細めてから、かぶりを振った。一瞬、『レクシオ』の面が出てしまったではないか。くわえて、いろいろと反論したいことが胸の中に噴出する。けれどもそれらをすべて飲みこみ、彼は「分かりました。頑張ります」と笑った。どのみち、工房のなかで軍部との交渉を有利に運べるのは、ヴィナードしかいないのだ。
彼が請け負うと、工房長は目に見えて嬉しそうな顔をした。大きな手で青年の肩を容赦なく叩いてくる。
「気をつけて行ってこいよ」
気遣いの言葉に、レクシオは軽くうなずく。しかし、次の言葉で眉をひそめた。
「最近、妙な事件が多いからなあ。不審者の情報も出回ってるし。今朝も、皇室師団の本部のまわりを変な男がうろついてた、なんて話を聞いたぞ」
「……それは確かですか?」
「んん、噂の又聞きだから俺にはなんとも言えねえよ」
うなった工房長はしかし、続けて「奥方は平気かねえ」と呟く。『ヴィナードの奥方』が皇室師団の所属だというのは、この工房における公然の秘密だった。
レクシオは、表情を崩さず肩をすくめる。
「彼女の心配は無用でしょう。立場上、現場にはあまり出ませんから。それに、ただの不審者にやられるほど弱くはありませんよ」
「それならいいが」
工房長の声音は曇ったままだ。レクシオも、顔で笑って心では苦々しく思っている。
『今日は新兵を何人か、宮殿警備に回すことにしたから』
今朝の妻の言葉が、頭の奥で響いた。
念のため様子を見にいった方がいいだろう。脳内の予定表にそのことを書きこんで、レクシオは軍部の方へ向かった。
そして宮殿の前へ差しかかろうとしたとき、彼は見事に『事件現場』に居合わせた。衛兵のものであろう、叫び声を聞いたとき、彼はざっと周囲を見渡した。ひとけが少なく高い建物を探す。宮殿そばの店舗に目をつけると、路地裏へ駆けこんで、そこから店舗の隣の家の屋根に飛び乗った。地上の状況を目で追いつつ、突き出した右手で虚空を薙ぐ。生まれた風に体を乗せて、店舗の屋上へ跳んだ。
宮殿の前で老紳士が衛兵に取り押さえられている、ように見える。しかし事はそう単純ではない。地上で騒ぎを目撃した瞬間から、レクシオは老人がただの不審者でないことに気づいていた。
「今頃
低く毒づきながら、レクシオは
魔導術が役目を果たして消えた、すぐ後。騒ぎを聞きつけたのであろう軍人たちが駆けつける。事態の終息を見て、レクシオもその場から去ろうとした。彼が踵を返した瞬間、叫び声が地から天を貫く。
「我らが
それは――彼らが心のどこかでもっとも恐れていた言葉だ。
※
「君、大丈夫?」
彼に声をかけたのは、レクシオのほんの気まぐれだった。
無事に軍部との交渉を終えた後。安堵しつつその場を辞したレクシオは、帰路の途中で足を止めた。まだ軍部の建物が背後に見えるそこで、皇室師団の制服を着た少年を見かけたのだ。おそらくまだ新人であろう。ただ新兵にしてはどこか厭世的な雰囲気を漂わせている。その有り様になんとなく惹かれて、レクシオは声をかけていた。本当に軽い気持ちだった。
しかし、ハシバミ色の瞳が自分を見たときには息をのんだ。そこにいたのは間違いなく、四年前に関わった、田舎町の司祭の息子だったからだ。当時からどこか淡白だった少年は、今も変わらず――むしろ、より達観してしまったようにも感じられる。
次男はラフェイリアス教への関心が薄く……と、司祭がこぼしていたのを思い出す。だが、だからといって軍人になっているとは思わなかった。ステラから話は聞いていたが、実際に目にすると、感慨もひとしお、である。
懐かしさのあまり、ついつい彼と話しこんでしまった。ヴィナードの格好をしているレクシオは、その足で石畳の道を駆けた。少しの寄り道ならば、ばれずに済ませられる自信がある。
帝都の端に、小さな教会がたたずんでいる。円錐形の屋根を目印にして教会の前までやってきたレクシオは、そこで予想どおり、妻と出くわした。
「あらら、心配かけちゃったか」
『ヴィナード』を見るなり、ステラは苦笑した。疲れているように見えるのは、夕日のせいだろうか。
「今のところ、大きな騒ぎにはなってない。教会も、まだ介入しないってさ」
「そうか。まあ、そうだな。襲われてたのがおまえだったら、話が変わってたと思うけど」
「うん。あたし、指揮官兼監督でよかった!」
拳をにぎるステラを見、レクシオは吹き出す。だが、自分の言葉が笑いごとでないことは、自覚していた。
ステラとレクシオは、ラフェイリアス教にとって特別な存在だ。もし、セルフィラ信者が彼らの正体を見抜いて直接攻撃してきたら、聖職者たちはすすんで武器をとるだろう。四年前のように。
「そうなる前に、終わらせなきゃね」
ステラの言葉にレクシオはうなずいた。そして、なんの気もなく思いだしたことを口にした。「さっき、セレスト家の次男坊に会ったぞ」と。一気に翳った妻の顔を見て、青年は己の発言を少し悔んだ。
「実は、不審者と揉めたの、彼なんだ」
「あー……」
キリク・セレストは司祭――先代司祭の次男だ。直接聖職に関わっていないにしろ、セルフィラ信徒からすれば目の敵にするにはじゅうぶんすぎる人物。そのことに気づいて、夫婦は揃って頬をひきつらせた。
「大事にはならなかったけど、面倒事になりそうだな」
レクシオのその言葉は、ほどなくして的中する。
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