第3話

 天狐は草むらに寝かされた百姫に目をやった。白く透き通るような百姫の肌はすでに生気を失っていた。傷口のあたりがみるみるうちに肌はどす黒い土色へと変わっていく。


(……これはただの毒ではないな。おそらく大蛇の呪い毒。このままでは人としての命を失うだけでなく、醜い大蛇になってしまうだろう)


 天狐は悲しげな目で百姫を見つめた。


(やはり人間とは、か弱いものだな……)


 そしてゆっくりと身体を百姫に寄せると、首の傷跡を優しく舐めた。やがて百姫の体は徐々に白い光を放ち宙に浮いた。


(もうこのような弱き人間の命など捨てて、これからは妖狐に戻り私達と共に生きてゆくのだ)


 すると光に包まれた百姫の肌からうっすらと白い毛が生え始めた。手足は徐々に獣のように曲がり、その爪はみるみる伸びて鋭く尖っていった。彼女は今まさに妖狐へと変化しているのだった。

 

「あなたは……誰?」


 百姫は意識を取り戻した。変化しながらもうっすらと目を開け、座してこちらを見ている天狐に目をやった。


「私は天狐。お前に人としての命を授けた母だ」


 百姫は手足を動かそうとしたが全く自由が利かなかった。噛まれた傷口の焼けるような痛みは次第に和らいでいき、気がつけば温かく心地よい感覚に包まれていた。それは幼い頃に母に抱かれて眠った懐かしい感覚だった。


(お母さま……)

その言葉を思い出したとき、大蛇の放った言葉が脳裏に浮かんだ。


「私は……本当にあなたの子供なのですか? 」


 百姫の質問に白狐は静かに頷くと言った。


「本当だ。その昔、私の子供がお前の父親に救われた。その礼として私の腹に宿っていた命を一つ、お前の両親に託したのだ。つまりお前は人の子でもあり私の子でもあるのだ」


「それで合点がいきました。幼い頃から習字のお稽古よりも、庭を走ったり石垣を登ったりすることの方が好きでしたもの……」


 生い立ちを知っても百姫は嘆くことは無く、うっすらと笑みを浮かべた。それは城中で過ごした楽しい日々が走馬燈のように思い出されたからであった。


「私はどうなってしまうのでしょうか。このまま極楽へと誘ってくださるのですか」

 

 百姫の問いに天狐は首を振った。


「お前は大蛇の呪い毒に侵されてしまった。人としての魂はすでに風前の灯。このままではお前は人ではなくなり醜い大蛇になってしまうだろう。そこで私があやかしとしての命を再びお前に授けようとしているのだ」


「妖……そうなのですね」


「案ずるな。もう少しでお前は私のような妖狐になれるだろう」


 天狐の言葉を聞いて、百姫の目から大粒の涙がこぼれた。それを目にした天狐は言った。


「妖狐になることが怖いのか?数十年しか生きられぬ人と違って我らは長寿。さらに千年も生きれば私の様に天狐となり天を自由に駆け巡ることも出来るのだぞ」


「いいえ、怖くはないのです。ただ……お父様や城内の者たちにもう会えなくなることが悲しいのです」


 意識が薄れていくなか、百姫の脳裏に浮かんだのは左京ノ進の面影だった。


「言いたかったことも言えないまま、人で無くなることが悲しいのです」


 百姫はすすり泣いた。しかしその泣き声はすでに人のものではなくなっていた。低くうなるような泣き声が夜風に乗って草原に響く。天狐は訊ねた。


「言いたかったことだと?それはお前が嘆き悲しむほど大切なことなのか? 」


 すでに百姫は人の姿を留めておらず、白い狐に変化していた。人の言葉を話せなくなった百姫はゆっくり頷いた。


「そうか……」


天狐は流れ落ちる百姫の涙を見て呟いた。


「ならばお前に少しだけ時間をやろう……」


 そう言うと天を仰いで雄叫びを上げた。すると天を厚く覆っていた雲が一瞬にして消え去り、満月が再び顔をだした。天狐が宙へ高く飛び跳ねてその四本の尾を真っ直ぐ立てると、月明かりに照らされた白銀の毛並みは徐々に輝きを増していく。


「そなたに授けよう。妖怪変化に打ち勝つ力を! 」


 次の瞬間、天狐の体から一本の尾が切り離された。それは直視できないほど眩い光りを放つとやがて花火のように弾けて消えた。そして天空には細長く光る物体が浮いていた。


ーーそれは一本の弓だった。弓は白狐の毛並みのようにきらきらと輝き、まだほのかに光を放っている。弓は百姫の元へ飛んでいくと体の上でぴたりと止まり、自ら放った光で百姫の体を包み込みはじめた。すると不思議なことに体中から生えていた毛は徐々に消え失せて、また元の美しく艶やかな肌を取り戻していくのだった。


(その弓に私の妖力を封じた。弓の側にいる間は私の妖力で大蛇の呪いを抑えることができる。これでそなたは人の姿を保つことができよう)


「この弓を肌身離さず持っていれば、私は人の姿でいられるのですね……」


(お前はいま私の妖力で人の姿をしているに過ぎない。次に満月を迎えるときお前は大人になる。さすれば私の妖力が無くとも本来の妖狐に戻れるだろう。それまでの残された時間で親しき者に想いを告げてくれば良い)


「一つだけ……教えて下さい。私が人に……元の姿に戻る方法はあるのでしょうか? 」


(妖力が抜けた途端、お前は妖狐の姿に戻ってしまう。元に戻るには人の魂に再び火を灯すしか無い。だが、おまえの人の魂は大蛇の呪いに犯されているのだ。その呪いを解く手段はただ一つ。呪いの主である大蛇を討ち滅ぼす他にない)


「では大蛇おろちを討つにはどうすれば良いのですか」

(それは無理だろう。おそらく人の力では大蛇を討つことはできない)


 人の姿に戻った百姫は慟哭した。その姿を見て不憫に思った白狐はそっと告げた。


(弦を引いてみよ)


 百姫は涙を拭くと弓を手に取り弦をゆっくりと引いた。すると何もつがえていなかったはずの弓に、一本の青白く光る矢がうっすらと姿を現した。驚いて百姫が弦を手放すと、矢は一瞬で消滅した。


(それは破邪の矢。お前の妖力を具現化したものだ。邪悪な者の魂を断つことができる)

「この破邪の矢であの大蛇を射れば倒すことができるのですか?」


 白狐は静かに首を振った。


(今のお前の妖力では、大蛇に傷を付けることはできても命を奪うことはできないだろう)

「それでは……やはり諦めて妖狐になれとおっしゃるのですか」


(そうではない……だが……)


 天狐は一瞬言うのをためらったが、百姫の必死な目を見るとため息をついて重い口を開いた。


(破邪の矢は妖の力を吸い取ることができる。お前がその矢で数多の妖怪を討ち、妖力を十分に貯めることができれば、大蛇を射ち抜くほどの力を得られるかもしれん。だが無駄に射ち過ぎれば自らの妖力を失う。その瞬間、お前は醜い蛇の姿になってしまうだろう)


「つまり人の姿に戻るには妖怪を退治する他ないと……」


 自信無さげにうつむく百姫に天狐は言った。


(できぬと思うなら今すぐ親しきものに別れを告げた後、妖狐として我らと共に生きよ。どちらの道を選ぶかはお前次第なのだから)


 百姫は覚悟を決めた。自分が選ぶ道はただ一つしかないと。百姫は天狐の弓を抱きしめると、力強い声で叫んだ。


「ではどうか我に力をお貸しください。そして妖魔に……己にも負けない強い心を下さい」


(良かろう。ならば私が授けたその魂、妖を討つために使うが良い。今よりお前は人ではない。妖狐でもない。お前は半妖の化姫じゃ)

 

 天狐の弓は百姫の胸元で一層光り輝くと、やがてその身体をぼんやりと包み込んだ。天狐の弓が放つ光は何処か優しく暖かくて、安堵した百姫はその場に倒れ込むとそのまま眠りについた。


(敢えて運命に抗うか……妖狐として生きれば苦しむこともなかろうに)


 百姫の頰に伝う一筋の涙を見た天狐は、大きな体を百姫の側に侍らせ、母狐が小狐を包み込むように丸まった。


(人に預けたとはいえ、かつては我が腹の中で育んだ命。せめて今宵だけでも、母らしくお前の側にいてやろう)


 静まりかえった草原で聞こえるのは草花が夜風になびく音と虫の声だけだった。暗闇から差し込む月光が百姫と天狐を優しく照らしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

化姫伝奇 ねこめぐる @nekomeguru

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ