第2話

  その夜、百姫は眠りにつけずにいた。頭の中で何度も繰り返される左京ノ進の言葉。左京ノ進が少しも躊躇することなくお輿入れを後押ししたことに強い憤りを覚えていた。しかし竹を割ったように真っ直ぐな左京ノ進の性格を思えば、それは予想できる答えであった。

 

(左京ノ進は只の従者。今まで私のことを案じてくれていたのもそういう役目だからに過ぎない。勘違いしてはいけないのよ)


 姫はそう自分に何度も言い聞かせた。しかし想いを断ち切ろうとすればするほど、姫の心には左京ノ進のの言葉や仕草が浮かび、その度に胸が締め付けられる思いがした。


「姫様、姫様」


 寝所の障子の向こうから姫を呼ぶ声がする。月明かりに照らされて障子に映る見覚えのある影。百姫の胸の鼓動は急速に高まった。


「そこにいるのは……左京ノ進か?」

「はい。左京ノ進でございます」

「こんな夜更けにどうしたのだ?」

「実は姫様にお話したいことがあります」


 姫は胸の高鳴りを悟られまいと深く息をすると、そっと障子を開いた。廊下には確かに左京ノ進が跪いていた。


「どうしてここへ?こんな夜更けに何の用だ?」


 すると左京ノ進は突然身を乗り出して百姫の手を強く握りしめた。百姫の頭は真っ白になり言葉を失った。


「逃げましょう、姫様。私とどこか遠くへ」

「正気か左京?何を馬鹿なことを! もう一度満月を迎えるまで城からは出るなと、父上からきつく言われておるのは知っておろう」

「知っております。だから今しかないのです!」


 戸惑う姫をよそに左京ノ進は姫の手を引き、半ば強引に外へと連れ出した。


「待て、待つのだ左京。もしも父上に見つかったらそなたただでは済まぬぞ」

「いいのです!早く参りましょう!」


 二人は辺りを気にしながら城内を駆け抜けていった。不思議なことに城内の者は皆、魂が抜けたように座り込んで寝ていた。左京ノ進は繋いでいた馬に跨ると姫を背後に乗せ、城の外へと馬を走らせた。


 生まれて初めて見る城外の景色。百姫は不安よりもいつもお城の上から眺めていた景色が、こうやって間近に見られることに感動した。そして何よりも左京ノ進と共にいられることが嬉しく、姫の心は喜びで満たされていたのだった。


 草原を駆ける二人の頭上には満月が輝いていた。百姫は左京ノ進の背中で、びゅうびゅうと過ぎていく景色を眺めながら、これはきっと夢なのだと自分に言い聞かせた。思い焦がれた外の世界を、左京ノ進の背中越しに眺めていることが今だに信じられなかったのだ。


「左京、どうして私を連れ出したのだ?」


 しかし姫様の問いにも左京ノ進は無言で、ひたすらに馬を飛ばした。百姫はそれ以上問いかけることもなく、振り落とされないよう背中から強く抱きしめた。


 どれくらい馬を走らせただろうか。大きな森の手前にある草原で左京ノ進は突然馬を止めた。


「姫様、さぁ馬からお降りください。迎えの者がそこで待っております」

「迎えの者?左京一人ではないのか?」


 百姫は少しがっかりして肩を落とした。


「これからの旅路、私一人では手が足りぬ故、ある者に手助けを頼んだのです」


左京ノ進はそう言うと、早足で歩き始めた。


「その者はどこにいるのだ?人影などまるで見当たらないが……」


 百姫は不安を感じ、左京ノ進の袖をぎゅっと掴んだ。


「人影など見当たらなくて当然です。なにせ人など居りませんから」

「左京、何を言っているのだ?お前の言っている言葉の意味がわからないのだが……」

「ならば教えて差し上げましょう」


 そう言うと左京ノ進は百姫の方を振り返り、両腕で百姫の両肩を掴んだ。

普段とは違う左京ノ進に違和感を感じた百姫は、一歩身を引いて左京ノ進に訊ねた。


「左京、様子が変だぞ……何をするつもりだ?」


 困惑する姫をよそに、左京ノ進の身体はみるみる変化していった。両肩を掴んでいた腕は段々と細くやせ細っていき、首は異様に伸び始めた。


「お前は左京では無いな?」


 そこに左京ノ進の面影は微塵もなくなっていた。頭髪が抜け落ち、目はみしみしと音を立てながら左右へと離れていく。それは全身が漆黒の鱗に覆われた人外の姿、大蛇おろちだった。

 ゆっくりと持ち上げたその頭は天を仰ぐほどに高く、その体格はまるでそびえ立つ千年の大木のように太い。目の前で起きている奇怪な出来事に姫は言葉を失い、とうとう腰を抜かしその場にへたり込んでしまった。


「どうした? 腰を抜かしたのか?」


 大蛇は地響きのような低い笑い声を発した。


「お前がこの世に生を受けて以来、わしはお前を喰らうことをずっと楽しみにしてきたのだ」


 そう言うと気味の悪い紫の舌をペロペロと出しながら、姫の鼻先まで顔を寄せた。


「なるほど確かに美しい顔だ。頭からひと思いに食べてしまうには余りに惜しい。さぁどうしてくれようか」


 大蛇の側には人と同じほどの無数の大きな蛇が、今にも百姫に襲いかかろうと頭をもたげている。


「その白い身体を皆でじっくり味わい、苦痛に歪む顔を眺めるのも一興……」


 百姫はあまりの恐怖に涙を浮かべ震えていた。それでも百姫はか細い声をようやく絞りだし、大蛇に訊ねた。


「なぜ……私を食べようとするのだ?  」

「お前を喰らう理由?」


 大蛇は横に大きく裂けた口元をにやりと開いた。


「妖狐が産んだ子を大人になる前に喰らわば、その妖力を得て寿命が千年延びるという。故に私はお前を喰らうのだ」


「違う、私は人間だ。狐ではない!」


 首を左右に振って否定する百姫を見て、大蛇は再び不気味な声を響かせて嗤った。


「お主知らぬのか。人の腹で育ったゆえそのように人の姿をしておるが、お主の本当の母は千年を生きる天狐。その身体には天狐の血が流れておるということを」



 百姫はその場にひれ伏すと、手を合わせて命乞いをした。

「それは何かの間違いだ。あなたの望む物は何でも差し上げます。だから命だけはお助けください」


「ならぬ!」


 大蛇は取りつく島もなくそれを拒むと、首をゆっくりと伸ばして百姫の鼻先で大きく口を開いた。


「私はお前の命が欲しいのだ!」


 百姫は思わず目を閉じると、心の中で助けを求めた。


(お父様!左京!助けて!)


 その時だった。一閃の眩い光が大蛇の目の前を横切った。


「くっ……誰だ?」


 大蛇が振り向いた先には、大きな白狐が百姫を口にくわえて立っていた。


「お前は天狐!?」


 白狐の体は月光に照らされて神々しく輝き、身体の長さほどある四本の尾は夜風になびいている。白狐は大蛇に背を向けると、気を失ってだらりとうなだれた百姫をくわえて駆け出した。


「おのれ!逃がすものか!」


 大蛇たちは白狐を追いかけたが、天を飛ぶように駆ける白狐の背中はみるみる遠ざかって行く。到底追いつけないことを悟った大蛇は、大地をびりびりと振るわせるほどに叫び声をあげた。


「ならばお前に呪いをかけてやる!死ぬまで自らの血を呪い、もがき苦しむがいい!」


 するとみるみるうちに漆黒の低い雲が現れ、その雲は満月を覆い隠した。やがて大粒の雨がぽつぽつと降りはじめ、地面は一瞬にして黒く染まった。

 次の瞬間、稲光が漆黒の雲をジグザグに切り裂いたかと思うと、そのまま白狐に向かって落ちていった。


 白狐は素早く飛び跳ねて稲妻をかわしたが、その衝撃で百姫を口から離してしまった。すると稲光だと思っていた閃光は一瞬にして蛇に形を変え、空中に投げ出された百姫に襲いかかった。


 それに気づいた白狐はすぐに百姫の方へ身を翻したが、百姫の身体にはすでに蛇が巻きつき、今にも噛み付こうとしていた。


「させるものか!」


 白狐は大きく跳躍し、蛇に向かって前足を伸ばした。だが鋭い爪先は僅かに蛇の皮膚をかすめただけだった。


(しまった!)

 地に脚をつけて再び跳躍した白狐は、その伸ばした鋭い爪先で蛇の首元を切り裂いた。蛇は甲高い断末魔の叫びを上げながら、やがて黒い煙となって跡形も無く消散した。


 白狐は空中に放り出された百姫に飛びつき口で受け止めると、そっと地面に寝かせた。百姫の白い首元には蛇の歯型がくっきりと残り、咽を伝った鮮血はみるみるうちに衣服を真紅に染めていった。

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