化姫伝奇
ねこめぐる
第1話
昔あるところに、誠実で民にとても慕われたお殿様がいた。殿様と奥方はなかなか子宝には恵まれなかったが、仲睦まじく暮らしていた。
ある日、殿様が狩りに出かけたところ、一匹の狐を見つけた。それは全身がまるで雪のように白く美しい狐だった。
あまりの美しさに心を奪われた殿様は弓を構えたが、すぐに張っていた弦を緩めた。なぜならその狐は後ろ足を引きずっており、明らかに弱っていたのだ。
「おお、可哀想に。罠にでもかかったのか」
殿様は馬から降りて近付こうとしたが、白狐は唸り声をあげて身構えた。その様子を憐れに思った殿様は部下に命じて、仕留めていたキジを持って来させ白狐の足元に置いた。
「何もしてやれることはないが、これでも食べて養生しなさい」
白狐は恐る恐る近寄ると、キジを咥えて足を引きずりながら茂みの中へと消えて行った。
その夜のこと。殿様は不思議な夢を見た。どこまでも続く暗闇の中にただ一つのまばゆい光。その中心にいたのは白い狐だった。狐は赤く鋭い目で殿様を見つめると言った。
「今日の昼間、弱った白狐を助けてくれたのはお前か」
「いかにも儂だが、狐がなぜ人の言葉を話すのだ?まさか……お前は妖狐か?」
「左様、私は妖狐だ。そして今日お前が助けてくれたのは我が子。その礼として願いを一つだけ叶えてやろうと思ったのだ」
殿様はきっと狐につままれているに違いないと思ったが、藁をも掴む思いで一つだけお願いをした。
「儂は子供が欲しい。男子でも女子でもいい。健やかな子供が欲しい」
妖狐は頷くと、赤い目を大きく見開いた。
「その願い聞き入れた。ではそなたらに授けよう。我ら妖狐の加護を得た元気な子を」
殿様は夢であることも忘れてたいそう喜んだ。
「ただし妖狐の血を引く子は怪異なる者から狙われやすい。我ら妖狐は生を受けて百たび満月を迎えると初めて妖力を得て、もう百たび満月を迎えることで大人の妖狐となる。大人になるまで決して目を離さぬことじゃ。ゆめゆめ忘れぬようにな」
そう言うと狐の体はどんどん輝きを増し、ついに光そのものとなって消え去った。
あまりの眩しさに殿様が目を覚ますと、寝ていた奥方の腹の上に眩い光の球が浮いていた。殿様は何度も目を擦って辺りを見渡したが、その光はだんだんと強くなり、やがて寝所を昼間の様に照らしていった。
殿様が触れようとすると、その光の球は弾けるようにして一瞬で小さくなり、奥方の体の中へすうっと吸い込まれていった。
「これは夢か。それとも……」
殿様は一瞬の出来事で信じられずにいたが、その後妖狐が言った通り二人はついに子宝に恵まれた。それは雪のように白い女の子だった。
二人は姫に百歳まで長生きしてほしいとの願いを込めて、
百姫はその願い通り、すくすくと元気に育った。快活な姫は幼い頃から琴や習字の稽古よりも、乗馬や弓などの武芸を好んだ。お殿様も白狐の言いつけを守り百姫を城の外へ出すことはなかった。
ある春の日のこと、百姫が城内の暮らしに退屈している様子を見た殿様は、奥方と大勢のお供を連れてお花見に出かけた。しかし花見の最中、桜の木の上から大きな蛇が百姫目がけて襲いかかってきた。奥方は咄嗟に百姫をかばったが、その時噛まれた傷が元で亡くなってしまった。百姫が八歳の時であった。
それ以来、殿様は百姫を城から出すことも、他人に会わせることもなくなった。
天真爛漫で笑顔の絶えなかった百姫も、感情を無くしたかのように笑わなくなり、やがて部屋でふさぎ込むようになった。
心配した殿様は世話役として一人の小姓を付けることにした。小姓の名は望月左京ノ進。姫より二つ歳上の気性の穏やかな少年だった。最初は左京ノ進に全く心を開かなかった百姫も、彼の純朴な気性に触れて、次第に笑顔を取り戻していった。
左京ノ進と百姫はまるできょうだいの様に育っていった。百姫は弓の腕が達者で、ある日庭に実った杏の実が落ちるのを矢で射て皆を驚嘆させるほどであった。一方の左京ノ進も槍の扱いに長け、若くして免許皆伝の腕前となった。
やがて年頃となった百姫は、美しい女性へと成長した。初雪の様に透き通った白い肌と絹糸の様に艶やかな黒髪。姫の美しさはいつしか諸国に知れわたり、婚姻を申し込む殿方は後を絶たなかった。
百姫が十六歳になると、ついに殿様は隣国の若君との縁談を承諾した。生まれて二百回目の満月を迎えたのちに、お輿入れをすることに決めたのだった。
お輿入れまで一月を切ったある日のこと。弓庭では百姫が何かに取り憑かれたようにひたすら矢を放っていた。姫が放った矢は二十間先の的の中央に、吸い込まれるようにして当たっていく。
「姫様、日も暮れて参りました。そろそろお止めください」
側に控えていた望月左京ノ進が何度も進言したが、百姫は全く耳を貸す気配はない。
城の外へ出られなかった籠の中の鳥のような日々がもう直ぐ終わる。けれどそれは籠が変わるだけのことで、きっと退屈な日々は続くのだろう。百姫の胸には不安と失望が渦巻いていた。けれど自分ではどうにもできないと言う歯がゆさ。百姫はそんな気持ちを少しでも紛らわしたかった。
「左京、良いではないか。こうやって矢を射られるのも一月後の輿入れまで。ここにいる間くらい私の好きなようにさせておくれ」
左京ノ進は膝をついたまま深いため息をついた。
「これからは武芸より奥方としての立ち振る舞いを学ばれてください。婚礼の儀までひと月少々というのに、姫様がそのような心構えでは困ります。せっかくの縁談を無駄になさるおつもりですか? 」
左京ノ進の小言に心を乱された百姫は、構えを解くと横で跪く左京ノ進を見下ろした。
「お前は私が嫁ぐことがそんなに嬉しいのか? 」
「勿論です。隣国の若君は名君と呼ばれた先代にも劣らぬ聡明な方。家柄も良くこれほどの良縁は滅多に無いと……」
「わかった!もうよい、退がれ!」
百姫は語気を強めると、矢を再び番えて力一杯に弦を引いた。勢いよく放たれた矢は的の中心を大きく外れると土壁に突き刺さった。百姫は眉間にしわを寄せると左京ノ進に言い放った。
「聞いた私が馬鹿だった。そなたの望み通り、顔も知らぬその賢い殿とやらに嫁いでやろう。それで文句はあるまい!」
姫のあまりの気迫に押されて一瞬怯んだ左京ノ進だったが、すぐに姿勢を正すと無言で頷いた。
「はい。文句などございませぬ」
百姫はその返答を聞くと唇を強く噛みしめて口を真一文字にし、早足で弓庭を立ち去ってしまった。
左京ノ進は百姫を呼び止めようとして声が喉まで出かけたが、それをどうにか飲み込んだ。
たとえ自分が嫌われようとも、姫が幸せになれるのならこれで良いのだと。
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