第七章:虫だらけの異世界に誘われました

「いつの間に制服がこんなに豪華になったんだろう、インスタ映え必至よね」

 椿は制服が華美に変色したことに狼狽えたり、憤ったりするばかりか、完全にその気になって喜んでいた。

「いやいや、そこはせめてもうちょっとネガティブなリアクションをするべきじゃないかな? だってほら、校則違反って言うかなんていうか……」


「昼休みが終わるまであと五分か」

 美緒が教室の壁にかけられた時計を確認する。

「体操服を持っているなら着替えておいた方がいいぞ。そんな格好じゃアンタの内申書にもキズがつきかねないからな」

「分かった。それじゃあ、また後でね」

「う、うん」

 オレは急ぎ気味な椿と軽く手を振り合った。


「でも、本当は先生たちもこれで分かってくれるかも」

 美緒がオレにスマホを見せた。そこには、「謎の寄生虫『ムシデキズ』流行、奇妙な中毒症状続出中」という文字が躍っていた。

「ちょっと待て! ネットニュースになってんじゃん!」


「私たちが思っている以上に、あの虹虫は色んな所を回っている。営業マンみたいに色んな人たちのもとへ飛び込んで行っているようね」

「冷静に何フザけたこと言ってるの。これシャレにならないよ。みんなモテモテになるだけなって、次の日には副作用にとことん苦しめられるんでしょ」


「ヘクシュン!」

「きゃあああああっ、チョーキモイ!」

 くしゃみをした男子が、大量の糸を口から思いっきりぶちまけ、周囲が一斉に退散していた。その男子はの頭からは、触覚が生えている。

「ごめんムシ、悪気なかったんだムシ」

「もしかして、アイツも虹虫にやられたか」

「それだけじゃないわ」

「脇田くん、大丈夫?」


「今のくしゃみでカゼがうつっちゃったら大変よね」

「みかん食べる? ビタミンを取れば体が強くなるから」

「ありがとう、いただきます」

 脇田は、六人ほどの女子にベタベタされながら、二房のミカンを口に放り込んだ。

「確認だけど、あれも虹虫のせいか?」

「そう、ムシデキズに刺された。脇田が女の子と一緒に何かしている姿なんて夢のまた夢だと思ったもん。アイツが愛するのはガンプラだし」

 無駄な暴露にオレはちょっと呆れた。


 オレが視線を変えると、今度は女子のクラスメートである大橋さんが、窓に体ごと張り付きながら、セミのような鳴き声を上げていた。

「あれは何かな?」

 オレは薄々感づきながらも、美緒に問いかけた。

「フザけているだけかも」

「ねえねえ、今、脇田くんが口から思いっきり糸を吐き出したんだけど……」

 もう一人の女子のクラスメートである坂岡さんが大橋さんに近づいたその時だった。

「ピシャッ」

「イヤアアアアアッ!」


 何と大橋さんは、両耳からおぞましい色合いの液体を飛ばし、その一方が坂岡さんの顔面にジャストミートしてしまった。

「何これ! キャアアアアアッ!」

 坂岡さんが絶叫しながら教室を飛び出した。大橋さんの周りに群がっていた三人の男子もドン引きしている。


「やっぱりアイツも虹虫にやられたわ」

「淡々と事実を述べている場合じゃないだろ! 耳から汁が飛ぶなんて、あんな副作用までは聞いたことがないぞ!」

「ちょっと待って、確かここには……」

 美緒がスマホをスクロールする。記事の下の方にも重要なことが書いてあるようだ。


「ムシデキズは個体によって多様な体色を持っており、どの種類のムシデキズに刺されたかにより、人体への影響が異なります」

 これで耳から汁が飛ぶ現象にある程度合点がついた。いや、それで済む問題じゃない。他を見渡しても、机に座ったまま誰かと話す素振りをしている女子がいる。まさか、いつかのライトノベルで見た「エア友達」と話している状態が、ここでも実現してしまっているのか。て言うかウチのクラスには今まで「エア友達」と話す奴なんかいなかった。つまりこれもムシデキズのせいっぽい。そうかと思えば、今度は教室の外から救急車のサイレンが聞こえる。


 いつからこんな物騒な世界になったんだ、この学校は。

 チャイムが鳴り、五限目の授業である世界史が始まる。ところがこの授業にも、最初から異変が発生することになった。いつものように教室へ歩み入った、世界史の木村先生の左腕に、箱のようなものがはまっているのが見えた。

「木村先生、何ですか、それは?」


 すると木村先生は、左腕を見せつけた。何と左腕には、海苔が入った缶「桜吹雪」のデザインが、そっくり描かれていたのだ。隣にはもう一本の桜吹雪の缶を模造したボール紙の物体が並べられ、二本まとめて、お中元サイズの箱に収められた状態になっている。てことは、そのうちの一本が本当は先生の落書きされた腕だから、あの人の腕は箱を貫いたように見える……。


 教室内がそのリアリティに溢れた出来栄えに大きく息を呑んだ。

「知っている人は知っていると思うが、入川堂が誇る創業百周年記念の海苔、その名も、桜吹雪だ」


「先生、すごいじゃないですか」

「何か仮装大賞みたい」

「て言うか、何でそんなことしたの?」

 きっと彼も虹虫の餌食になったからだ、と思う。てことは、少なくとも昨日までは推定年齢五十歳の木村先生も女性方にモテモテになっていたんだろうが、想像はしたくない。


 その日の放課後、オレは校舎の出口の、階段前から横に逸れた余分なスペースのところで、頭を抱えて座り込んでいた。体調不良ではない。良くないのは先生までもが奇行に走ってしまう現実だ。

「大丈夫?」

「オレはな。だが周りは大丈夫って言えるか?」

「それぐらい分かってる」


 美緒の受け答える姿はあまりにも落ち着きすぎていて、時々彼女には、本当は何の感情もないのかとさえ思えてくる。

「校内でも被害者絶賛急増中だもんね」

「オレの時みたいに、ジェットコースターに乗せて強い風に当てでもすれば、元通りになるんだろうけどな」

「助けて、あああああっ!」


 一人の男子が、男子どもに担ぎ上げられながら、階段前を通り過ぎ、校舎前の奥の曲がり角へと消えて行った。

「虹虫に刺されたら一時的に超絶モテモテになるとは聞いてたけど、まさか男が男にモテモテになるなんてね」

 美緒はこの時ばかりは、連れ去られた男子に同情しているようだった。


「おい、あの椿がグラウンドで大暴れしてるぞ!」

 校舎の中から聞こえた、男子のただならぬ声に、オレは戦慄した。

「美緒、今の聞こえたか?」

「行かなくちゃ」

 オレたちは迷わずグラウンドに駆けつけた。


「とおりゃああああああああああっ!」

 椿は逆立ちしながら、まるでコマのように軽々と回転しながら、三人の男子を次々と足で蹴散らしていた。さらなる周囲には、彼女の常人離れした動きに戦慄する男子どもの姿がおびただしい数ほどに存在していた。その数は、あたかも男子と女子を合わせた学年一つ分に相当するんじゃないか、というぐらいだ。もちろん、この時あの場所にいる女子は、椿一人だけだったが。


「アンタたち、私が朝学校に来るたび、授業が終わって休み時間が来るたび、群がりに群がりまくって、気持ち悪いんだよ。て言うか大量の男子に常時囲まれていると、プレッシャーと生々しい体臭が半端なくて、リラックスできなさ過ぎてたまらないのよね~」

 身も蓋もないことを言い放つ椿に、オレは唖然とした。


「やっぱりさ、人間、特に男子なんてこんなもんなのね。何も考えずにとりあえず噂にすり寄って。少しは勉強しろ、異性に振り向いてもらいたきゃ自分を磨けっつうの」

 椿は吐き捨てるだけ吐き捨てたことに満足したか、近くにある自分のカバンをひょいと拾い上げた。


「何言ってんだ!」

「折角好きになってやってんのに、その言い方はないだろ!」

 野次の聞こえる方を椿が睨み返す。すると野次の主である二人が、急に怖気づいて、その場で固まってしまった。この時、オレには椿の後姿しか見えなかったが、彼らのリアクションの域を超えた過剰反応から察するに、椿が浴びせた視線は、想像を絶するようなものだったのだろう。


 しかし椿は、肩の力を抜くと、何事もなかったかのように朗らかな表情でこちらを振り向き、オレの方へ歩み寄ってきた。

「私にとって頼れる男子はあなた、白藤翔太ただ一人。私には見えるのよ、あなたの中にしっかりと根付いたその誠実さが」

 先ほどとはギャップあり過ぎな優しさに、オレはどうアンサーすべきか迷った。その間にも、椿はオレの手を掴み、再びその周辺に金、銀、銅の輪を輝かせた。

「紹介したい相手がいるの。行こう」

 椿は有無を言わせることなく、オレを連れてまたも上空へ飛び立った。


 オレの下で小さくなりながら流れていく街並みを一瞬眺めると、ちょっとした恐怖心に身が震えた。オレはカバンを持つ手を握りしめ、椿が誤って手を放さないことを心の中で祈り続けた。

「さあ、ここよ」

 椿がオレを連れ出したところは、学校近くの裏山だった。椿はここに差しかかると、徐々に高度を下げ、二人揃って砂地に着地した。


「ここに何があるんだ?」

「まあまあ、見ていて」


 椿になおも手を握られたまま、左のカーブを曲がると、その先は、広場のようにだだっ広いスペースが、木が立ち並ぶ斜面でできた行き当たりの手前にあり、そこで金、銀、銅の三色を優雅に染め分けたドレスに身をまとい、背中からまさに巨大な蛾のような形をした、天の川のようなきらめきを放つ羽根を持った美少女が待ち構えていた。その周囲には、オレを刺した虹色の体模様をした虫から、赤、青、黄色、緑など、前から後ろへ薄い状態から段々濃くなった目もあやな色彩を誇る虫たちが、数十匹規模で集結していた。


「まさか、椿が語っていたムシデンプレスって」

「その通り」

「アタシがムシデンプレスよ、どうもよろしく!」

 王妃のような見た目とは裏腹な、品格のカケラもなく露骨に横柄な態度で噂の虫軍団のリーダーが名乗りを挙げる。


「早速だけどさ、何でアタシらがここにやって来たか分かる?」

 ムシデンプレスからの急な質問にオレはどぎまぎする。

「えっ、よく分からないんですけど……」

「虫の威厳を、人間という名のクズ生物どもに叩き込むためよ!」

 ムシデンプレスはいきなり高らかに物騒なこと的なものを唱えた。

「人間に、何を叩き込むんですか?」

「人間という名のクズ生物!」

 ムシデンプレスは何故か人間がクズであることを強調してくる。


「どうして、人間をそこまで恨んでいるんですか?」

「イメージしてごらん。人間は虫に対して、普段何してる?」

「虫を獲ったり……」

「それがいけないの! この世には、昆虫の尊厳の『そ』の字さえ考えることなく、彼らを不法に乱獲する人間という名のクズの輩がうじゃうじゃいやがる!」

「ええええええええええっ!」


 虫が捕まえられているという理由で、ここまで人間を十把一絡げに憎む「虫」を見ることになろうとは、夢にも思わなかった。

「でも、その人たちは、決して悪気はないわけだし……」

「そんな口先三寸、聞きたくないっつうの!」

 一歩踏み出して怒鳴り散らすムシデンプレスに、オレは思わず震え上がった。


「椿、この人、いや、この虫、一体何なの?」

「ムシデンプレスよ。さっき自己紹介なさったでしょ」

「名前は分かっている。オレが聞きたいはその、プロフィール的なことだよ」

 オレは軽くパニックになりながら椿に訴えた。

「アタシ? アタシはバグランドからここにやって来たのよ」

「バグランド……」


 聞き慣れない固有名詞がムシデンプレスの口から語られる。まさか、ライトノベルでおなじみの、異世界の名前だったりするのか?

「そこでは数多くの昆虫及びそれに準じる生命体が暮らしている。昆虫の、昆虫による、昆虫のための世界そのもの」

 異世界からやって来た身としては、やけにオレたちにとって親近感のある偉人の名言っぽい言い方をしてくるじゃないか。

「アタシはもっとも、妖精的な昆虫、つまり『妖精(ようせい)虫(ちゅう)』の女帝よ。まあ、一つの昆虫たちで組んでいるグループの長として、バグランドにて我ながら重要な役割を担わせてもらっている」

「もしかして、それって政治的なこととか……」

「いや、我々はむしろ活動団体的な存在ね。そう、アタシはいわば昆虫活動家そのもの」

 ムシデンプレスは胸を張り、そこに拳を当てて語った。て言うか、活動家のリーダーであるだけで「女帝」を名乗るって、調子に乗り過ぎやしていないか。


「つまり我々は、バグランドに対し、どういう施しを加えれば昆虫にとってよりよい世界を実現できるかを考え、実践し、バグランドに幾度となく貢献してきたと自負している。その理由は、我々に昆虫としての確固たる誇りが存在しているからよ!」

 ムシデンプレスの威風堂々の語り口に、オレは軽く背をのけぞらせる。何て言うか、語っている時に彼女の体から放たれるオーラ的なものの半端なさに、オレは圧倒されているのだった。


「バグランドの風の噂で、地球などに住む人間という生物は、昆虫に対し思いやりがないことを聞いていた。それでこの世界にトリップホールを使い乗り込んだと思ったら、想定以上に人間どもは昆虫に対し、不敬であることが分かったわ!」

 何か、オレが人間代表として集中砲火的に責められている気がして、思わず椿よりも後ろのポジションまで引いてしまった。


「その一、昆虫に対する無法な乱獲! 何も考えずに虫が出たらとりあえずみたいなノリで捕獲し、それぞれのアジトへ拉致し、何やら透明で小さな部屋に監禁!」

「ちょっと待ってください!」

 オレはたまらずムシデンプレスに待ったをかけた。


「ムシデンプレス様が語ってる時に話の腰を折るとは、お前はなおさら不敬なクズ生物か!」

「えええええっ!?」

 何か知らないけど怒鳴られた。話を遮ったと怒鳴られた。

「すみません。ただ、あなたがアジトと言っているのは、虫を捕まえた人たちのお家であり、小さな部屋は、虫カゴであり、彼らはそこで虫を飼うんです。つまり、ペットですよ。虫をペットに……」


「我々は犬や猫なんかではない!」

 またムシデンプレスに怒鳴られた。しかもまるで自分たちは犬や猫よりも上位の存在であるかのように。オレは今まで、少なくとも虫を犬や猫以上に愛すべき存在として認識したことがないので、得体の知れない違和感さえもムシデンプレスの言葉に混ざっているのを感じる。


「アタシらは、自らをあるがままに、緑や水などが豊かな大自然と調和し、共存するために出来た存在なの。それを人間という名のクズどもが、アタシらの気も知らないで、何の予告もなしに生活感ありまくりの建造物の中へ拉致しやがって、おまけに捕まえておきながら、臭いものみたいに小部屋に放り込んで屋根を閉じる! これを監禁と言わずに何と言う! そこのオスのクズ!」


 ムシデンプレスは思いっきりオレを指差した。

「何メスの陰に隠れているの! ここに来なさい」

 それはつまり、前に進んで来いという命令だった。オレは恐れながらも、ムシデンプレスの目前に重い足を進める。

「ここまでの話で、何か言うことはないの!?」


「まあ、確かに、人間たちが虫たちの気持ちを考えないで捕まえていたことは、申し訳ないなとは思うよ」

「それもどうせ口先三寸! 人間って大体そうよ! 悪いことしているのがバレたら、安い頭だけ下げて、またコッソリ悪行に走る! そんなノリでまた虫を延々と捕まえ続ける!」

 ムシデンプレスはオレの詫びに応じるどころか、さらに勢いづいている。


「もう一つ! これはさらにひどい例ね! 昆虫の中にも多種多様な生物が存在しているのは知ってるわよね!」

「はい」

「バグランドでは、ありとあらゆる昆虫が、一つの世界で共に生きている。つまりは昆虫のるつぼよ。バグランド憲法では、全ての昆虫は、法の下に平等であることが綴られている」


 虫の世界にも憲法があったと聞くと、何か不思議な印象を抱くが、これも人間と同じく一つの世界を分け合って暮らす生物のさだめなんだろう。

「しかし! この地球では、人間という名のクズは虫を自分たちと平等に敬うどころか、虫を捕まえて小部屋に閉じ込めている! それどころか、虫の種類によっては、捕まえもしないで、殺してしまう猟奇的かつ野蛮極まりない行いを習慣のように行っているでしょ!」


「どういうこと?」

「とぼけるんじゃない! ピンクのムシデキズに刺してもらうわよ?」

 確かに、ムシデンプレスの背後を固める虹虫たちの中には、ピンク色のものも数匹存在していた。


「そのピンクのムシデキズに刺されたらどうなるの?」

「そうね、刺されてから四十八時間後に、どこにいようが衝動的に身に着けている衣服を、下着も含め全て脱ぎ捨ててしまうことかしら」

「そんなの絶対イヤだ! 恥ずかしすぎて仕方ないから!」


「じゃあ認める? 人間という名のクズどもが、ハエ、蚊、ゴキブリなどに対しては問答無用で殺しちゃっていること」

「だって、何か目障りだし」

「ピンクのムシデキズ~」

「ああっ、やめてください、ごめんなさい、ごめんなさい!」

 オレは咄嗟にムシデンプレスに頭を下げた。確かにオレもついこの間、ハエを衝動的に殺したばかりなので、ここは本当に頭を下げるしかなかった。


「もう一切、ハエとか蚊とかゴキブリを見ても、すぐに殺したりしませんから!」

「すぐに? じゃあ一分待ってから殺す気?」

「いやいや、何分、何時間、何日、何年かかっても殺したりしませんから! 許して!」


「いいわ、頭を上げて」

 オレは言われた通りにムシデンプレスの方へ向き直った。その時、椿がオレの隣まで歩みを進めて、こちらに目を合わせた。

「翔太に知らせなきゃならないことがあるの」

 真顔の椿に対してオレはどんな言葉が来るのか構えた。


「私とバグランドへ行きましょう」

 オレは呆然とするしかない。自分でもよく分かるくらいオレの体は固まっていた。それもある意味当然だ。椿は一体何を言い出しているんだ。

「ほら、翔太もバグランドへ行くの。私と一緒に」

 椿はなおもオレの手を取りながら訴えてくる。でも、素直に「はい」だなんて言えるわけもない。正直、今オレが目にしているのが、現実なのか夢なのかさえも判然としないぐらいだった。


「ほらほら、これは夢じゃないよ。アンタもバグランド行きだからな~」

 ムシデンプレスがからかうようにオレに囁く。

「オレが、ムシデンプレスの故郷へ行くの?」

「その通り」

 ムシデンプレスは淡々と受け答えるだけだった。てことは、オレ、虫だらけの異世界へ行くってことか?


「……何でだあああああっ!?」

 オレは気が動転する余り、絶叫した。

「ちょっと待て、何で!? 何で急にムシデンプレスの故郷へ行こうって話になった!? 家族にはどう相談すりゃいいの!? 『突然ですがオレ、虫だらけの異世界へ行くことになりました』って言えばいいの!? て言うかそんなこと気軽に話せると思う!?」


「ほらほら、ライトノベルにも異世界へ旅立つ高校生のお話がいっぱいあるでしょ。あなたもその当事者になったと思って。私もそうなるんだけどね」

「いやいや、待って! いくら椿の言うことでもこれは受け入れられないよ!」

 オレは咄嗟に椿の手を放し、距離を取った。

「大体、何そのプラン!? 何の目的があってオレをそのヘンテコな世界に連れて行こうとするの!?」


「私の住む世界をヘンテコって言った!? やっぱりアンタも虫を差別するクズなのね!?」

 またムシデンプレスが感情的になり始めた。

「ああ、ごめんごめん。ちゃんと言葉には気をつけるよ。でも、異世界って言うのは、本来軽い気持ちで行ける場所じゃないと思うんだよ。ライトノベルで異世界に行った奴らだって、大体現世に戻ってきたって話はあんまり聞かないだろう?」


「別にいいでしょ。私とあなた、見知らぬ世界でずっと二人きり、それだけで充分素敵だと思うけど?」

 椿に両手を優しく握られた。再びその周辺が、金銀銅のオーラに包まれる。オレは思わずそれに見惚れるが、すぐに頭を振って我に返った。


「いや、やっぱりオレは、君とはこの世界で愛し合いたい」

「どうして?」

「オレはやっぱり、人間の国で、人間として君と愛し合いたいからだ。虫の国へ移ると、何か人間として負けた気になったまま暮らし続けることにならないか? それじゃあ、君と一緒にいる楽しみも半減しちゃうと思うんだ。それに、ムシデンプレスにああやってずっと睨まれながらじゃ、息もつけないだろうしね」


「どうして虫の国に行くのが嫌なの?」

「オレが好きなのは、虫よりも君。人間としての君なんだ。ほら、いつの間にか、銀色の触覚が二本、同じぐらいに煌いた角みたいな針が一本生えている。まるでムシデンプレスだ。まるで人間を憎むアイツみたいだ」

 椿は指先で触覚や針をツンツンと触り、確かめた。


「本当だ。ここに来た後でそうなったのかな? でも、いいじゃん。イチャイチャするのは虫も人間も共通だから」

 椿は再びオレの手をつなぎ、愛らしく微笑んでみせた。だがオレは、その微笑みには、今までと同じようで、同じじゃないことに気がついていた。それはまるで、ムシデンプレスか、神の見えざるよからぬ手によって、笑う芝居を押しつけられているような感じだった。つまり、表情に人間味が消え始めている気がした。彼女はいよいよ、ムシデンプレスの手に落ち始めているのだ。


「どうしてだ? どうしてオレをバグランドに誘い込もうとするんだ?」

「私があなたを好きになった気持ちに嘘はない。でもそれは……」

 椿はそこまで言いかけて、何やら深いワケがノドから出かかっているかのように、不自然にアゴを引き、上目遣いをする状態になった。

「言ってやんな、奈村椿」

 ムシデンプレスが悪意の混ざった声で椿に促した。


「あなたなら、この人間界がいかに薄汚れているかが分かると思ったからなの」

 衝撃的な理由である。椿の口からまでも「人間界が薄汚れている」なんてフレーズが出て来るなんて。

「ムシデンプレスから聞いたの。あなたは私とめぐり逢うまで、五百人もの女子に告白しては、追い払われてきたということ」

「何で、椿がそれを知ってるの?」

「その五百人の名前のリストを作っていることもね。永遠にアンタの知人女性でしかないっていう女との会話とともに、知っちゃったのよね」


 さらりとムシデンプレスが挟んだ口は、あの時のオレと美緒の冷たいやり取りを盗み聞きしたという告白だった。その時から、もうオレに目星をつけていたのか。

「ああ、かわいそうな翔太」

 椿はまるでいじめられた息子に寄り添うかのように、オレを抱き寄せ、頭をなでた。何か、本当の母親よりも母性を感じる。彼女の手の温かさは、オレと同世代の女子として、若々しく生きたもので、本当に五百人にフラれたことで織り成された、根深くて凍てついた闇を溶かし始めていた。


「五百人もの女子が、あなた一人の魅力に気づくことなく、無碍(むげ)にしてきた。あなたが受けた心の痛みは、実に壮絶を極めるものだった。でも、そんなことにももうすぐ終止符が打たれる。だから安心して。私があなたをバグランドに連れていけば、きっと誰もあなたを無碍にすることはないわ」


 オレは思い出した。この世界じゃ、オレの存在価値なんて、本当はどうでもいいこと。小学四年、十歳になった頃から恋してみたいという強い憧れを無性に抱いて以来、告白する度にフラれ続けた。小学校では一年から六年まで告白しまくった。中学に至っては、恐らく全校生徒の女子全員に告白したが、オレを受け入れる者は一人もいなかった。モテることに青春を捧げた結果、フラれフラれた五百人。


 そんな時にめぐり逢った椿。ダイヤモンドにも負けない瞳の輝きと、パワースポットにも負けないオーラの主である彼女が現れた時、オレは本気で運命を感じた。彼女は五百一人目の女子じゃない。一人目の彼女だ。オレは本気でそう思った。その椿がバグランドに行こうと誘いをかければ、オレも喜んでついて行く。それが二人の絆なのだろうと考えた。

「分かった。バグランドへ行こう」

「ありがとう」

 椿がありったけに顔をほころばせる。オレも嬉しくなって、顔をほころばせた。


「よし、それなら話は早い」

 ムシデンプレスが決め込んだように口を開いた。彼女は懐から紙を取り出し、ペンとともにオレに渡した。

「今からこれにサインしてくれる?」

 オレは何事かと思い、紙を読んだ。


「誓約書


 私たちは、ムシデンプレス様率いる活動集団ファーバー・バグズの協力者として、ムシデンプレス様の本活動テーマである『昆虫生態系を乱す人間という名のクズどもの成敗』の成就に対する協力に体と心と時間の一切を捧げることを誓います」


 生活感丸出しの手書きで示された内容に、オレは戦慄した。しかも下まで見ると、署名欄の役割となっている線が二つ示され、下の方にはすでに「奈村椿」の名前がサインされていた。オレはそれに目を疑い、椿の方を見た。椿はこんな時でも、一見無邪気にはにんかんできた。


「あの、これ、いつからやるの?」

「もう始まっているんだけど。だから早くサインしろー」

「『成敗』って、どういうこと?」

「ここにいる人間どもを、とりあえず虹虫たちとアンタたちの力を借りてブチのめすことかな」

 ムシデンプレスは悪びれもせずにそう言い放った。

「とりあえず、ここに他の虹虫よりも一際大きな奴がいるじゃない?」

 彼女が紹介したのは、確かに虹虫よりも一回りビッグサイズで、頭の方が真っ白ながら、尻に近づいていくにつれ、灰色化していき、それが段々と色濃くなって、最後尾にはたちまちゴキブリに等しいほどの真っ黒に染まった、まさに白黒の虹虫であった。頭の針はクワガタの角同然の形をしており、六本の足も、見た目以上にガッチリと出来上がっているのが伝わってくる。


「コイツにアンタを刺してもらうから」

「何のために?」

「人間様をブチのめすためよ。コイツは純戦闘エネルギーを他に分け与えることが可能なの。コイツの額の針を通し、エネルギーが注入される。他の虹虫だったら、大体刺されてから二十四時間後辺りで急激にモテモテになって、それから色々な効果が現れるわけだけど、この白黒の虹虫の場合は、刺して三分後からもう効果が出るから。猛烈に筋力が強くなって、超絶な怪力を持ったタフガイになれるわよ。見た目もクワガタっぽい逞しい感じになれるし。人に刺したらコイツみたいな見た目になるけど」


「それってどういうこと?」

「アンタのおでこからも白黒の虹虫みたいなでっかい針が生えて、それぞれの脇腹からは三本ずつ虫の脚的なものが飛び出すってところかしら。その際、服に穴開けちゃうと思うけど」


「嫌だあああああっ!」

 オレはムシデンプレスの言う通りに変身した自分を想像しては、絶叫した。

「それもういよいよ虫そのものじゃん! この間虹虫に刺された後も虫っぽくなったけど、それ以上に虫そのものじゃん! もうそういうのマジで勘弁してくれよ!」

「何よ、どうせ五百人にフラれるような男でしょ。今更身なり気にしようが、誰もアンタのことなんか気にかけやしないわよ。そこにいる椿以外はね。さあ、白黒の虹虫に刺してもらうわよ。普通の虹虫よりもチクリ度合いがちょっとキツいけど、歯を食いしばれば大丈夫よ」


「そういう問題じゃないから!」

「どういう問題よ?」

 ムシデンプレスが不満そうに言い返す。

「コイツに刺されて見た目を捨てて、アンタらと一緒に人間に無差別攻撃仕掛けるんだろ? 確かにオレは五百連敗ボーイだけど、人間としての誇りまで捨てるような虫ケラにはなれないよ!」


「今更遅いわよ。椿はもうサインした。アンタはこの娘の彼女なんでしょ? サインしなきゃ彼女とは破局よ。つまり、椿を取るか、人間という名の、アンタに振り向きもしない不特定多数のクズ野郎どもを取るか、どっちかね」

 オレは切羽詰まった思いで、椿と誓約書を交互に見やった。オレにできることは、椿を取ることなのか、人間を取ることなのか、それとも……?


「悪く思わないでくれ」

 オレはそう呟くと、誓約書を真っ二つに破った。それをまとめ、もう一度、また一度と、何度も細かく破り、その場に捨てた。小さくなった紙の破片が、その場にパラパラと舞い散る。


「全人類を敵に回して潰そうなんて、そんな壮大な悪には染まれない。確かにハエを殺しちまうのは悪かった。ハエにだって立派な命があるのはよく分かった。だがハエが一生懸命生きているのと同じように、人間だって一生懸命生きている。それを憎むような者と行動を共になんて、オレにはできないよ」


「あっ、そう」

 ムシデンプレスはあっさり納得したかのように俯いた。

「椿、一緒に帰ろう。やっぱりコイツはおかしい。君はコイツに騙されているだけだ。人間界にだって、ちゃんと健全な場所はある。そこで一緒に過ごそう。ほら、オレの手を取って、また飛ぼうよ」

 オレは椿に手を差し伸べた。次の瞬間だった。


「バシッ!」

「痛っ!?」

 いきなり椿は、オレの手を蹴り飛ばしてきた。気がつけば、椿の表情は、口角が自然とせり上がっていながら、瞳の奥から感じる爛々とした活気が、いつの間にかきれいさっぱりに消え失せていた。オレは確信した。彼女は完全にムシデンプレスに取り込まれている。

「あーあ、折角のチャンスを不意にして、そりゃ五百人にフラれるわけだわ。道理で学習能力ないわけだわ」


 ここぞとばかりにムシデンプレスの罵倒がオレの胸に刺さる。しかし、オレは言われっ放しでこの場を済ませたくなかった。

「どういうことだ? 説明しろよ」

「知ってると思うけど、アタシ、彼女のこと、この針で思いっきり刺しちゃった。そうなったら、椿は見事に私のしもべという色に染まってくれた」

「しもべだと?」

 オレは憤りながらムシデンプレスに聞き返した。


「そう、アタシの思想の通りに椿は動き続ける。アタシが人間界をメチャクチャにしなさいと言えば、彼女はそれに喜んで協力する。でも、アタシが刺した時に注入したエキスには、この下等な人間界でも一人を選び、その人は徹底的に敬うように本能を仕立て上げる効果も存在する。結果、椿はアンタを指名した。でもその指名がお気に召されないのであれば、アンタも椿の敵になるってこと」

「ちょっと待って、オレは椿の敵になろうと思って誓約書を破ったわけじゃない!」


「それはアンタの勝手な言い訳」

「言い訳じゃない! オレは本気だ!」

 オレはムシデンプレスにそう言い放つと、再び椿の手を強引に掴んだ。

「椿、目を覚ましてくれ! なあ!? あんな野蛮な虫の言うことは聞くなよ! オレ、椿と離れたくない! 例え五百人にフラれようが、誰にもフラれてなかろうが関係ない! 君のことが好きなんだ! 君が人間界を憎むところなんか見たくないんだよ! だから正気に戻ってくれ! 頼む! 頼むよ!」


 しかし椿はオレに痛烈な平手を放った。ただただ非情で、冷たい一発に、オレは思わずその場にくずおれる。その時、オレの腹に鋭角的な衝撃が加えられた。椿がオレの腹を、思いっきり蹴り上げたのだ。オレはたまらず、砂地を転がる。背中の何カ所にも小石がめり込むが、そんなことはどうでも良いくらい、腸に何かが刺さったような痛みが渦巻いていた。

「翔太は人間界を取った。それが現実。人間を取るか、私を取るかに、あなたは列記とした答えを出した。自力じゃモテもしないくせに、あれもこれも欲張るなんて、あなたはどうしようもない泥んこ野郎ね」


 椿はそう言い放つと、座り込んだオレの顔面に更なる痛烈な蹴りを見舞った。骨の髄まで撃ち抜かれるような痛みを感じ、オレは天を仰ぎながら、大の字になった。


「それじゃあ、こんなクズは放っておいて、さっさと行動よ。バグランドじゃ、『後でやろうはバカ野郎』って言う偉大なる虫もいらっしゃるぐらいだからね」

 そう語るムシデンプレスの声が聞こえた後、椿とともに去り行く彼女の足音と虹虫たちの羽音が、段々と遠ざかっていった。

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