第八章:世界が蝕まれ始めました
「翔太、翔太!」
聞き覚えのある女子の声で、オレは目を覚ました。美緒がいかにも心配そうにオレを見つめている。オレは周囲を見渡した。地面には落ち葉が散らばり、木々がこの場所を囲んでいる。つまりここが、さっきまで椿やムシデンプレスたちがいた場所であることに変わりはなかったのだ。
「美緒?」
「もしかして、また虹虫に刺されたとか?」
「いや、刺されてはいないよ」
「良かった……じゃあ、どうしてそんなところに?」
「椿に、やられた」
美緒が信じられないといった表情を見せた。
「彼女、ムシデンプレスの手に落ちちまったんだよ」
「ハッ!」
その瞬間、美緒がさらに大きく息を呑んだ。まるで彼女は、メデューサにでも睨まれたかのように固まっていた。
「大丈夫か?」
思わずオレの方が身を起こして彼女を心配した。
「実は市内で、ムシデキズの大量発生について警告が発されているの。みんな最初は周りの異性から途轍もなくモテモテになるけど、翌日からは、あの時のアンタみたいに見た目が虫人間っぽくなったり、最後には糸を吐いたり、人に噛みついたり、急に通りがかりの人をひっかいたり……」
美緒から淡々と語られる残酷な現実に、今度はこちらが言葉を失った。
「何とかしないと危険よ。どうすれば……」
「そのムシデキズどもを仕切っているのは、ムシデンプレスだ」
「ムシデンプレス?」
「あの虹虫どものリーダー。オレはさっき椿にムシデンプレスの方へ連れて来られた。そこで協力を持ちかけられたんだよ。自分も椿とともに、虫の味方になって人間どもを潰さないか的な感じだった」
「で、アンタは断ったわけね。この状況で分かるわ」
「ああ、そしたら椿はオレを敵と見なして蹴りを見舞ってきた。ムシデンプレスの手中に堕ちた者は、特定の誰かを選び、人間でもソイツには自身から危害を与えず、愛する者として優しく接してくれるはずだった。だが、人間を憎めなんて野蛮極まりない条件がオレには呑めなかった。そしたら椿は……」
オレは悔しさの余りに言葉を詰まらせた。
「結局アンタさえも敵と見なした」
「ううっ……!」
オレは折り重なった落ち葉に顔を埋め、溢れる涙を隠した。しかし、美緒の手により容赦なく引き起こされ、結局、頬が涙に濡れて無様な顔を彼女に晒す羽目になった。
「男のくせに」
美緒が呆れたように目を逸らした。
「何、ここで私がハンカチ出すべきとでも? そんな空気だったら読まないわよ。何故なら、私にとってあなたはただの知人男性でしかないんだから。ハンカチぐらい自分で出しなさいよ」
美緒の棘のある言い方に気圧(けお)され、オレはブレザーのポケットをまさぐった。そして反対側も。
「ごめん」
「何?」
「ハンカチ、持ってない」
「アンタ馬鹿? ハンカチ持ち歩くのエチケットなんだけど」
美緒がさらっと冷たい口調で言い放った。
「仕方ないわね。今日だけ」
美緒はまるでオレにやらされているかのような態度でハンカチを手渡した。オレは申し訳なく思いながらそれを受け取り、濡れた頬を拭い、美緒に返した。
「ありがとう」
「いいけど、早くしないと。アイツら、今頃町に散らばっては、かましまくってんじゃないの」
「でも、うかつに行ったら、オレたちまでまた刺される」
「でも、逃げたムシデンプレスたちを、どうやって見つけるの?」
美緒は相変わらずドライな表情のまま、次の問いかけを作り出した。
「……分からない。今頃どこかでアイツら、やりたい放題だよ」
「椿を連れているなら、彼女にとって心当たりのある場所を巡っているんじゃないの?」
「そうか」
オレは美緒の言葉に合点がいった直後に、背筋が冷たくなった。
「……まさか!」
オレはその場から飛び起き、無我夢中で走り出した。
「ちょっと待ちなさいよ!」
慌てて追いかける美緒の声も無視して、オレは必死で裏山を駆け下りて行った。
息遣いを荒くしながら、一気に学校付近の曲がり角を通ったオレは、その先でとんでもない光景を目撃した。
「キャアアアアッ、何するの、椿!」
「超チクチクする! 誰か助けてえええええっ!」
オレの高校の制服を身にまとった二人の女子が襲われている。一人は、椿が額から生やした角で、思いっきり自らの額のあたりを刺され、もう一人は多数の色彩豊かな虹虫どもの群がりを受け、ハチの大群に襲われているかのように刺されまくっている。いや、アイツら、一匹一匹が、ハチとは比べものにならないぐらい、何ならクワガタばりの大きさだから、ある意味蜂の大群に刺されるよりもゾッとする地獄絵図を描いている。その様子を、嘲笑った様子でムシデンプレスが見つめていた。
「何してるんだ、やめろ!」
オレは思わず奴らの前へと進み出た。すると椿や虹虫たちが二人の女子から離れる。次の瞬間、被害者たちは揃って一目散に、オレの後ろの方向へと逃げ出した。
「翔太!」
間もなく美緒もオレに追いついたが、たどり着くなり、両手をヒザに当て、息を切らしていた。
「もう、勝手に行かないで欲しいんだけど」
「悪かったよ」
「椿……!」
美緒が彼女の存在に気付くや否や、唖然としながらゆっくりと背を起こした。
「何、私たちは人間に蹂躙される虫たちの無念を晴らしているだけ。これはただの破壊活動じゃない。それを了承してよね」
椿は悪びれることもなく美緒に言い放った。彼女はまるで憑りつかれたかのように、口元から純白の歯だけ覗かせていた。だが、その笑顔にはもはや愛嬌の「あ」の字もない。これが本来の椿の姿と言えないのは、オレの目からも、火を見るより明らかだった。
「アンタ、何か変なものでも頂いちゃった?」
「別に、私が自分で決めたことなの。アンタにいちゃもんつける権利なんてないんだから」
「あの娘たちだって、露骨に嫌がってたじゃない。もうこんなのやめて。同級生として恥ずかしいわ」
「恥ずかしがる必要ないのよ。アンタだって、翔太がハエを叩き殺した途端に、烈火の如く怒りを爆発させていたじゃない。つまりアンタもそれだけ虫を愛している。精神構造的にはこっち寄りのはずだと思うけど?」
「いくらセンター女子だからって、甘い考えはよして。私が虫好きだからとりあえずそっちに行くみたいな口振りしてるけど、ああやって人を甚振るのがアンタたちのスタイルなら私は賛同する気ないから」
「折角お友達が誘ってあげてるのに、随分と生意気な口叩くのね」
ムシデンプレスが一歩進み出て、美緒に威圧的な言葉で噛みついた。
「ムシデンプレス、もうこの世界をめちゃくちゃにするようなマネはよせ」
「やなこった。実はここにいないムシデキズたちの中には、集団で学校に乗り込んで、そこにいる生徒や先生たちを刺しまくっているのよね」
「何だって!?」
「私もそっちに乗り込んで、クズたちの無様でも堪能して目の保養にしようと思ってるの。まあ明日になれば学校は至高の愛の園になるでしょうね。でもその次の日からはどうかな?」
ムシデンプレスの確信犯的な笑みが、オレには憎たらしく思えて仕方がなかった。
「この世界、いや、様々な世界で、虫たちがさらわれ、死ぬまで監禁されている。蚊とかハエ、ゴキブリに至っては忌まわしき生物というレッテルを貼る差別的思想のもと、虐殺されているという真実。我々は、この現実から決して目を背けることはできない! この忌々しき事態を解決すべく、人間たちを懲らしめるのよ! 意味分かりますか!?」
「アンタが嘆いていることは、何となく分かったわ」
美緒がムシデンプレスの言葉に一理あるように受け止めた。オレは思わず彼女が敵側へ寝返るのかとビクビクしながら彼女の方を見た。
「私も確かに、目の前でゴキブリが踏み殺されたり、ハエを手でパチンとされて潰されるのを見ると、その人を懲らしめたくなる。その点はある意味アンタと一緒かもね」
「でしょでしょ? ほら、こっちおいでよ」
ムシデンプレスが最後の一押しとばかりに妖しくニヤつきながら、手招きしてみせた。美緒はそれに従うままに彼女の方へ進み出た。
「美緒!? どうしたんだ!?」
オレは思わず狼狽した。美緒はムシデンプレスの真ん前に立ち、間近でじっと彼女を見つめていた。次の瞬間である。
「ギヤッ!? 痛い痛い痛い痛い痛い!」
美緒は何のためらいもなく、虫軍団の長の体に絡み付き、コブラツイストで締め上げた。いくら野蛮な悪行をしていても、相手は組織の長、虫の世界のVIPだ。奴の背景を知らなくても、金銀銅なめらかに分かれた絢爛な色合いのドレスで何となくスゴい「お方」だと分かるはず。そんな相手に何のためらいもなく関節技をかけられる美緒こそ、どんな虫も恐れかねない野獣のようだった。
「人をいたぶる罪な虫までは尊敬できないんだよね~。だからこんなことしちゃうの、分かる?」
美緒は口調と表情はあくまでも冷淡ながら、グイグイとムシデンプレスを締め上げた。
「ちょっとアンタたち、リーダーの危機よ。動きなさい!」
すかさずムシデキズどもが美緒に一斉に群がる。スズメバチのように群がり、美緒の頭、顔、体、手足まで、これでもかと刺しまくった。
「美緒!」
すかさずオレは彼女のもとに駆け付け、ムシデキズたちを追い払わんとする。しかし、憎たらしいほど色彩豊かな虫どもは容赦なくオレの体にも群がってきた。首元や頬などをチクチク刺され、体中の色んな痛点が刺激されるのを感じたが、それでもオレは無我夢中で、地面に伏せた美緒から虫どもを振り払おうと必死だった。
「プシュウウウウウッッッッッ!」
突如として、スプレー的なものが噴き上がる鋭い音が聞こえた。オレは驚いて美緒のもとから離れる。同時に虫どもも美緒の体から、一匹残らず離れた。
ゆっくりと立ち上がった美緒の手には、殺虫剤が握られていた。その傍らでは、青と赤のムシデキズが一匹ずつ、昇天していた。
「美緒、殺虫剤、持ってたんだ」
「虫を潰すには殺虫剤は基本中の基本だからね」
「アンタ、それは……!」
「そう、この缶一つあればアンタたちなんかイチコロってこと。ムシデンプレスみたいな女王様もどきに手を下すのもこれで充分ってこと」
なおも殺虫剤の持つ手をまっすぐに伸ばして威嚇する美緒に、ムシデンプレスは歯がゆい様子でにらみ返した。
「さあ、どうする? 観念する? それとも無駄な抵抗して殺虫剤の餌食になる?」
美緒が一歩進みだすごとに、ムシデンプレスと取り巻きのムシデキズどもは後ずさりすることしかできなかった。殺虫剤を宙へ一噴きしてさらに威嚇する美緒の後姿もまた、オレには頼もしくも、不気味に感じた。
ところが、美緒の背後から椿が忍び寄ると、何と美緒の首元に手刀を打ち込んだ。美緒の全身から力が抜け、彼女は殺虫剤を落としながらその場に頽(くずお)れた。
「美緒!?」
オレは無我夢中で倒れた美緒に駆け寄った。
「美緒、美緒! 大丈夫か?」
「翔太……」
幸いにも美緒は気を失っていないようだったが、女子の力でも、頸動脈にチョップを喰らえば、見た目以上に打撃のダメージは大きい。実際、美緒も息がしづらそうだった。
「何よ、こんなことぐらいで近くに寄っちゃって。おバカさん」
美緒は苦しそうになりながらも、ツンとした態度は崩さなかった。
「だって、あんな攻撃受けたら、そりゃオレだって心配しちゃうし……」
「ちょっと、アレ」
オレは美緒の謎の一言に戸惑いながら、後ろを見上げた。
「あなたのその、知人女性とやらが落としたのは、これですか?」
不敵に言い放つ椿が、殺虫剤をかざした。そこから勢い良く、慈悲なき霧が放たれ、オレの顔面を包み込んだ。
「ぐああああああああああっ!」
当然、あれは人にかけるために作られてない。て言うか人にかけたらダメ、ゼッタイ。故にオレの両目は一瞬にして、経験したことのないレベル、と言うより経験した範囲を軽く越えるほどに腫れ上がり、のたうち回る羽目になった。
「痛い、痛い、痛い、誰か、誰かああああああああああっ!」
「せいぜいそこでギャーギャー騒いでな! さようなら! みんな行くわよ!」
ムシデンプレスのダメ押しのような罵声に構う気になど、微塵もなれなかった。何故なら、オレの視界は激痛により真っ暗に遮られ、正に死にかけの虫の如く、地面に這いつくばることしかできなかったからだ。
「翔太、翔太、しっかりして! あそこに自販機。水、買ってくる!」
美緒の走る音が聞こえる。
「早く、かけてくれよ……!」
目が焼けただれる痛みにもがき苦しみ続けながら、オレは美緒に訴えた。
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