第十一章:ムシデンプレスの野望阻止に必死になりました

 オレは奴の計画が大詰めであることを悟り、グラウンドの脇を走り出した。その道の突き当たりから見た木の幹からは、人という人を集めるムシデンプレスたちの背中へ向かって、深緑色の穴が、重々しい光を放っていた。あれがムシデンプレスの言っていた「トリップホール」ってやつか。オレはグラウンドへ飛び込み、木の方へ近づかんとした。段々と木が迫ってきている。オレはその幹に現れた口に、殺虫剤をかけてやろうとした。


「ちょっと!」

 椿がオレの目の前に飛び出し、木を守りにかかった。彼女の勢いに押され、オレは一瞬立ち止まった。

「どけ!」

 それでもオレは、意を決して、椿に威嚇代わりの殺虫剤を放った。椿が慌てて右へ逸れる。ムシデンプレスが喧噪に気付き、怪しいエネルギーを保ったままの指を突き上げたまま、こちらへ飛び寄ってきた。


「懲りない男!」

 ムシデンプレスが罵り、宙に浮いたままオレに蹴りをかましてきた。しかしオレは咄嗟に前かがみで避けると、奴の下をくぐり抜け、勢いのままにガラ空きになった木へ向かった。

「コラッ!」

 ムシデンプレスの怒声を後ろに聞きながらも、オレは、トリップホールに向かい、思いっきり殺虫剤を噴きつけた。そのとき、不気味な穴が、段々と光を失いながら、狭まっていく。


「やめなさい!」

「嫌だ!」

 ムシデンプレスと椿が、同時にオレの体を木から引き離そうとした。

「この!」

 オレは、殺虫剤の底でヒジ鉄のようにムシデンプレスの腹を打ちつけた。そして椿を力任せに振り払う。ムシデンプレスは、奇々怪々な群衆の真ん前まで後ずさりしていた。


「これでどうだ!」

 オレはここぞとばかりに殺虫剤をかざし、頂上のボタンを、精一杯力を込めた人差し指で、押した。缶から勢いよく、虫殺しの薬が、霧のように、勢いよく解き放たれる。しかし、その矛先を見て、オレは目を疑ってしまった。


「椿!」

 そう、椿が、ムシデンプレスの手前に割り込み、両手を広げて彼女を守るかわりに、自ら、殺虫剤を受けたのだ。その瞬間、椿の頭の触覚が、ちぎれたようにポロリと地に落ちた。椿自身も、力無く地面に堕ち、尻餅をついた形になった。彼女の周りでは、二枚の羽が砂地に、無造作に横たわっていた。


「ちょっと、椿、しっかりしなさいよ!」

 ムシデンプレスがたまらず地に降り立ち、椿の体を揺する。しかし、椿の体の反応は、鈍い。意識を失っているわけじゃないけど、自分の身に何が起きたのか、サッパリ分かっていない様子だった。

「あなたは、誰ですか?」

 椿は、まるで記憶を失った人であるかのようにムシデンプレスに問いかけた。


「何言ってんのよ、私は、ムシデンプレス。バグランドを牛耳る女帝よ」

「ムシデンプレス……ムシデンプレス!」

 椿は、ムシデンプレスの存在を思い出したようだ。しかし次の瞬間、彼女は虫の女帝を突き飛ばした。

「あなた、私の敵! 気色悪いから触って来ないで!」


 椿は、ムシデンプレスに対し、敵意剥き出しで言い放った。どうやら、オレが殺虫剤をかけたことで、ムシデンプレスに刺された際の副作用が一切消え去り、椿は元の、あの可憐な乙女に戻ったのだ。そう知ったオレは、今が修羅場であることも忘れて、嬉しくなった。


「椿、戻ってくれたんだ」

「翔太、私を、助けてくれたの?」

「そうだよ」

「どうもありがとう!」

 椿の、大輪の花が咲いたように美しい微笑みが、今ここに蘇った。オレは、十六年間の人生で最上の喜びを受け入れるかのように、彼女に抱きつかんとした。


「バシッ!」

 突然、無慈悲な拳がオレの顔にめり込み、首をはねられたかと思うような衝撃とともに吹っ飛ばされた。

「気色悪いのはこの童貞野郎のハグの方に決まってんでしょ!」

 ムシデンプレスの情け容赦ない罵声が、グラウンドに響き渡った。オレは、鼻の奥から、生暖かいものが流れてくるのを感じる。触ってみたら、赤い。真紅だ。

「ちょっと、翔太に何てこと……キャッ!」


「もう一度、アンタの頭に、一刺し決めてやってもいいのよ?」

 ムシデンプレスが椿の頭を掴み、不気味な笑みで迫っていた。オレはたまらず立ち上がり、ムシデンプレスの横から殺虫剤を噴霧しようとした。


 しかし、出ない。二度目、三度目とボタンを押しても、出なかった。

「あら、弾切れ? 不運なこと。あっ、五百人にフラれるぐらいだから、不運なんてアンタにとっちゃもはや権化みたいなものかしら」

 オレはその言葉に刺激された苛立ちに身を任せ、ムシデンプレスにタックルを決めてやった。

「椿、逃げよう!」

 オレは彼女の手を引き、グラウンドを走り出した。


「あっ、ちょっと待ちなさい!」

 ムシデンプレスの叫び声も聞かず、オレは一心不乱に椿の手を引いて走り続け、グラウンドを抜け出した。その先の脇道を横切ったところにある、二人分だけのスペースのある校舎の入り口へ飛び込んだ。

「キャアッ!」

 入って、十メートルほどしたところで、椿が転んでしまい、つられてオレも前のめりに倒れてしまった。

「椿、しっかり!」


「もはやこれまでかしら?」

 ムシデンプレスが、オレたちの後ろで、仁王立ちになりながら羽を働かせていた。

「さあ、アンタたちも……」

 ムシデンプレスがそう言いかけたところだった。戸口のところで、虫化した者たちが、戸口のところで詰まり、誰も中に入れなくなっていた。

「ちょっと、マヌケ! 何やってんのよ!」

「早く逃げよう!」

 オレは椿の手を引いて、再び走り出した。突き当りまで行って角を曲がり、さらなる突き当たり付近にある一室に、オレたちは逃げ込んだ。そこはシャワールームである。


「ひとまずここに身を隠そう」

 オレは椿とともに、シャワーのある個室のひとつへ身を隠し、カーテンを閉めた。

「私たち、これからどうなるの?」

 椿が不安そうにオレに語りかける。

「ごめん、オレにも分からない。この殺虫剤さえあればな」

「私、今まで何していたんだろう……」

「えっ、どういうこと?」

「ムシデンプレスに刺された日の後から、今までの記憶が、あんまりないの」


「ちょっと待って。オレもムシデキズに刺されたけど、自分が虫化したときの記憶は、ちゃんと残ってるよ」

「本当?」

「ああ、でも、オレはムシデンプレスに取り込まれたりなんてしなかったからな。むしろアイツには、『バグランドに連れていく価値もない』って言われたぐらいだし」


「私、一体何していたの?」

「すげえ言いづらいけど、ムシデンプレスに取り込まれていたんだ」

「取り込まれていた……?」


「オレ、虫の専門家とかじゃねえから、よく分からないんだけど、ムシデンプレスが相手を刺すことで注入するエキスが、ムシデキズとは違ったんじゃないか? 毒性が強いのか、もしくはそもそもの質が違うとか。ムシデキズに刺されたぐらいだったら、思いっきり虫の味方しようとまで考えないけど、ムシデンプレスに刺されたらそうなっちゃうとか」


「そうだったの。思えば、私の頭の中にも、ムシデンプレスに『アンタは私の手下として働いてもらう』とか何とか言われたことだけは、ぼんやりと覚えているの。でも、その前後の記憶がなくて」

「マジか」

「うん。気がついたら、私、グラウンドに尻餅をついてて、触覚や羽みたいなのが落ちていた」

「それは君から生えたものだ。ムシデンプレスに刺されたせいで」

「そうだったの?」


「ああ、とにかく、目を覚ましてくれて嬉しいよ。あと、君に伝えなければならないことがある」

 オレは、口を力強く結び、ノドから出かかった、言わなければならない大切なことを、何とか絞り出そうと自分の中で格闘した。


「何?」

「これも簡単には言いづらいことなんだが、君はムシデンプレスを守ろうとしていた。あの時みたいな可愛い顔とは裏腹な、まるで魂を悪霊に操られたかのような、無感情な顔で、ムシデンプレスを黙々と守ろうとしていた」


「そんな……」

「オレ、ムシデンプレスをやっつけようとして、邪魔した君を突き飛ばしたりしちゃったんだ。君が目を覚ましたのも、オレが君に殺虫剤をかけたからだ」

「そんなことしたの?」


「ごめん、オレにはああすることしかできなかったんだ。とにかく、ムシデンプレスにこの世界を乗っ取られたことが許せなくて、あんな虫女に椿を奪われたことが許せなくって。もう、あの時みたいな可愛い椿に会えないのかと思うと、ますますムシデンプレスが許せなくって」

「翔太……」


「ムシデンプレスに取り込まれた時の椿の姿も、言わばムシデンプレスに仕立て上げられた存在だった。オレはムシデンプレスの何もかもが許せなくなっていた。だから君の中で巣食っていたムシデンプレスの悪い精神も許せなくて、君にも攻撃してしまった。最後は君に殺虫剤をかけてしまった。憧れた女の子を攻撃することでしか、憧れた女の子を救い出せないオレのことだ。君とまた付き合いたいなんて、言えないよな。君はオレのやったことを知って、許してくれないよな」


 オレは、自分の不甲斐なさの余り、椿から目を背けてしまった。

「そんなことないわよ」

 幾分か明るさを取り戻した椿の声に反応し、オレは再び彼女の顔を見つめた。

「だって、あなたは世界を、私を救い出そうとして、一生懸命頑張ってくれたんでしょ」

 屈託なく語りかける椿に、オレは魂を救済されているような気がした。


「そんなあなたこそ、立派な男だと思うわよ」

 椿は、そう言って、オレの両手を優しく握ってくれた。

「自信持って。私、あなたのこと、素敵な男子だと思っているから」

「と言うことは、オレのこと『好き』なのか?」

「えっ?」


 椿の顔がキョトンとしている。もしかして、オレ、早まっちゃったのか? そう思うと、時が数秒止まった。椿が誤魔化すように笑う。

「もしかして、翔太は私のこと、『好き』と思ってくれているの?」

 椿からの思いがけない問いかけに、オレの心は熱くなり、鼓動が早まった。

「うん」

 オレは意を決して大きく頷いた。


「オレは、君のことが……」

 そこまで言った瞬間、カーテンが無造作に開かれた。ムシデンプレスがすかさず、オレに向かって、ミサイルの如く足を繰り出す。


「タイムオーバー!」

 その叫び声とともに、不条理なキックがカーテンごとオレの顔面を撃ち抜いた。オレは後ろの壁まで吹っ飛ばされ、背中や後頭部を打ちつけてしまい、強烈な鈍痛で生きた心地がしなくなった。


「何てことするの!」

 椿が当然のように憤慨する。

「C級のクサいラブコメやってたでしょ! 聞き苦しかったから止めてやっただけよ!」

「違う、私はただ、翔太が私を好きか聞きたかっただけで」

「へえ、こんな童貞野郎が好きなの? もしかしてアンタも」


 パシン!


 空気を切り裂くような平手打ちの音が、シャワールーム中に響き渡った。

「バグランドの女帝に向かって、よくもやってくれたわね!」

「当然でしょ。私を操って、翔太にさんざん嫌がらせしたくせに!」

「完全に醒めちゃったのね。こうなったら仕方ないわ。アンタも敵、そこの童貞野郎もろとも、潰してやるから。ソイツには、バグランドへの入り口を壊された、十億レベルの借りがあるんでね!」


「やめて、もう翔太をいじめないで」

「これはいじめじゃない、抹殺よ! 分かったらそこどきな!」


「キャアアアアアッ!」

 ムシデンプレスが飛んだまま椿の襟首を掴み、そのままシャワールームの外へ放り出してしまった。

「椿!」


 うずくまる椿の周囲には、五人の虫化した生徒が取り囲んでいた。男子二人、女子三人。いや、そんな内訳などどうでもいい。彼女を守らねば。

「やめろ!」

 オレは空っぽになった殺虫剤を振り回し、必死で「虫ども」を追い払った。殴りかかる奴らをかわしては、腹へ、背中へ、足元へと缶を当て、転ばせていく。オレの余りの気迫に押され、奴らは逃げ去ってしまった。


「何よ、意気地なしの虫けらども!」

 虫の女帝が元も子もないことを吐き捨てた。オレは椿の元へ駆け寄った。

「もう大丈夫か?」

「うん、ありがとう」

 椿のささやかながら、優美な声からなる感謝の言葉を聞き、オレは安心した。


「ウッ!」

 次の瞬間、オレは背中に、何か硬いものを打ちつけられた感じを受けた。そのままオレはもんどりうって、椿の方へ倒れ込んだ。椿の顔が、どんどん間近に迫っていく。オレの顔と、椿の顔が、額、鼻、そして口元と、ピッタリ合体した。これ以上ないほどの至近距離でも、オレは自分の顔が火照るのを感じた。同時に、椿の顔が、どこか紅潮しているのも分かった。オレはそっと椿から自分の顔を離し、彼女の表情を伺った。何が起きたのか分からず、正に鳩が豆鉄砲を食ったような表情だった。


「のぼせてんじゃねえ!」

 ムシデンプレスの激しい怒声とともに、オレはまた硬いもので、今度は頭へフルスイングされた。頭蓋骨が割れんばかりの激痛が襲いかかり、オレは濡れた床にうずくまった。

「ヒドい! もうやめて!」

「ああ? 言ったわよね? バグランドの入り口潰した借りを返すって。コイツのせいで、アタシ、バグランドへ帰れないんですけど、どうしたらいいんですかねえ?」


「そんなもの知らない! それに、シャワーで人を叩くのは良くない! 暴力反対!」

「何よ、偉そうに! これでも食らいなさい!」

 ムシデンプレスは口から大量の糸を噴き出すと、椿の体をあっと言う間にがんじがらめにした。


「何これ、気持ち悪い!」

 さらにムシデンプレスは、口の中からつながった糸を吸い込むことで、糸にまみれた椿の体を自分の方へ引き寄せて行くと、糸を噛みちぎって椿を羽交い絞めにした。

「さあ、椿。もう一度アタシの味方になりましょう!」


「嫌!」

「嫌とかなし!」

「ダメ!」

「何言っても無駄、大人しくもう一度刺されなさい!」


 脅される椿を見ていられず、オレは自然と立ち上がった。何とかする方法はないのか! そうだ、ここがシャワールームってことは、アレがある!

「アタシのエンプレスエキスがアンタの体に注入されれば、例え百回嫌と言っても、翌日になれば虫を愛し、アタシに忠誠を誓う立派なバグランドの国民になれるんだから! 翔太とかいうクソ野郎のせいでバグランド入れるかどうか分からなくなったけど! まあいいわ! 改めてここに第二のバグランドを作ればいいんだからね!」


 ムシデンプレスが個室内でまくし立てている間、オレは洗面所に置かれた、備え付けのコードレスドライヤーを手に取り、個室へ近づいた。

「もう喋っても仕方ないから、問答無用で刺すわよ! 三、二、一……!」


 ブオオオオオ……!


「何これ、まさか!」

 ムシデンプレスは、強烈な熱風の出元に振り向くなり、茫然とした。それもそのはず、オレがドライヤーを、思いっきり奴の体に浴びせてやっているのだ。動きの止まったムシデンプレスから、椿が咄嗟に離れ、オレがいる側の角へと身を寄せた。


「コイツがあれば、ムシデキズに刺されたことによる症状の一切を打ち消せる。そのムシデキズを取り仕切るお前も、根本的な生態系はムシデキズと同類ってことになるな。てことは、これだけの熱風を浴びせられたら、お前はどうなる?」

 オレはこう語りながら、個室に足を踏み入れ、彼女を壁際へと追い詰めた。

「ちょ、ちょっとやめなさいよ! ウッ……!」


 ムシデンプレスは苦しみ始めると、飛ぶ力を失ったようで、そのまま地面にくずおれた。この隙に、椿が地獄と化した個室から急いで脱出する。

「さんざんオレたちを、この世界を苦しめた代償だ。オレは同じ命ある者として、虫のことは尊敬している。だが、人を傷つけてばかりの無慈悲な奴は、容赦なく潰してやる!」

「ヒャアアアアアアアアアアッ!」


 その瞬間、ムシデンプレスの体が、みるみる溶け始め、形を失っていった。まるでアメーバのようにドロドロとした形になったかと思えば、そのアメーバ的な物体さえも、段々と小さくなっていく。最後に彼女の体が完璧に消え去ると、あとに残ったのは、ドライヤーから放たれる風に吹かれて舞う羽と触覚だけだった。


 オレはそれを確かめるや否や、ドライヤーのスイッチを切った。シャワールームが、静寂を取り戻す。


「翔太……?」

 椿がオレの後ろから、不思議そうに語りかける。

「奴は消えた」

 オレは彼女の方へ振り向くと、それだけ告げ、彼女に個室への道を空けた。椿がおそるおそる個室の中へ入り、散らばった羽と触覚を確かめた。


「本当だ。消えてる」

「これでもう、心配することは何もなくなった」

「翔太」

「どうした?」

「ありがとう!」


 椿がオレに抱き着くと、その胸の中で、泣き声を上げた。恐らく、ムシデンプレスの脅威から解放されたと分かり安堵し、平穏さを取り戻した自分の世界のありがたさを強く感じるあまりに涙しているのだろう。オレと椿は、互いに抱き合ったまま、二人してその場に座り込み、一緒にいられる喜びを思いながら、いつまでも抱き合っていた。


「そうだ。椿」

「何?」

 椿がオレを不思議そうに見つめながら、涙で濡れた目をぬぐった。

「オレ、椿のことが……」


 そこまで言いかけて、オレは異様な重圧を感じた。あの言葉を言えば、もう引き返せないという重圧だった。だが、もういいんだ。オレはここで正直な気持ちを言う。そこに何の罪がある? 現にオレはもう、虫の女帝という究極の悪を倒した男。男らしく胸を張って思いを伝えてもいいだろう。そう自分に言い聞かせ、決心した。


「オレ、椿のことが、好きなんだ」


 そのときの椿は、まるで夢を見ているかのような表情をしていた。そして、ゆっくりとその顔に笑みを浮かべる。あの清純な微笑みが、彼女の顔にまた表れた。

「気持ちを伝えてくれてありがとう」

「本当?」


「私も、翔太のことが好き!」


 椿はそう言って、オレをぎゅっと抱き寄せた。その瞬間、シャワールームは、桃源郷そのものへと変わったように感じられた。オレには、この現実が分かった。

 オレに、彼女ができた。

 今までの五百人とは比べ物にならないほどの波乱万丈の末に、五百一人目にして、遂に彼女としてオレを受け入れてくれる人が現れたのだ。

 神様、ありがとう。

 そして、椿、ありがとう。


※ ※ ※


「私が付き添わなくてもいいの?」

 美緒が相変わらずのクールな顔でオレを尋ねた。

「いいよ。だって、美緒はオレにとって、ただの知人女性なんだろう?」

 そう言うオレは、椿とガッチリ手をつないでいた。

「付き添わなくていいなら、何で駅までやって来たの?」


「いや、できかけだった二人が、遂に完全にカップルとなったんだから、デートする様を一目だけでも見てみようと思っただけ。別にアンタたちを羨ましいと思っているとか、変な意味に捉えないでよ」

「言われなくてもやらないから」

 オレはやれやれとばかりに美緒に言葉を返した。

「それにしても、バグランドの虫たちって案外もろいところがあったのね。ムシデンプレスが潰されただけで、ムシデキズもみんな消え、それまで虫化した奴らもその場で元通りって」


「全てが円満に解決したんだから、良かったじゃない」

 椿が屈託なく微笑みながら美緒に語った。

「シャワー室でケリつけて、しばらく抱き合って、その場で『デートしよう』って話になるのもなかなかないよな」

 美緒が上の空になりながら言った。


「誘ったのは私から。こうやってカップルになったからには、中途半端になってしまった遊園地でのデートをやり直してみたいと思ったの」

「ほら、切符もしっかり買ってるし」

 オレはそう言いながら、切符を美緒に示して見せた。

「ああそう、じゃあ、今度は楽しくできそうだね。翔太はもう糸吐くこともないんだし」

「そんなこともあったっけ?」


 オレは苦笑いするしかなかった。そのとき、一羽の黒い虫が、オレの周りをしつこく飛ぶことに気づいた。

「何だよ、うざったいな」

 オレはそのハエ的な奴を挟み込むように、両手をバチンと叩いた。掌を確かめると、確かに左手のほんの一部が黒ずんでいる。

「うわ、本当にハエが潰れてる」


「ああ、これで一安心だな。全く、虫に襲われるのはこりごりだよ」

「美緒、どうしたの?」

 椿の心配する声で、オレは美緒の方を向いた。彼女はうつむき、怒りを沸々と燃え上がらせているように感じた。オレはまさかと思い、左手をもう一度確かめた。そこでは、ハエが潰れている。オレは、事の重大さに気づいた。


「てめえ、ハエにだって立派な命あるって私が言ったの、忘れたのか?」

「忘れたわけじゃないよ。でも、ついやっちゃった。ゴメン」

「じゃあ、何で、今また一つの尊い命を奪った!」

 美緒の目の奥に、業火が見える。オレは震え上がるしかなかった。

「す、すみませんでしたああああああああああっ!」

「待てええええええええええっ!」

 叫ぶ美緒の魔の手から逃げるべく、オレは駅の前を駆けずり回った。その先は、正直、語りたくない。

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虹色の虫に刺されたら STキャナル @stakarenga

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