第二章:翌日、急に激しくモテ始めました。

「母さん、どう? そこのホテルは?」

「なかなか良い環境だから助かるわね」

 翌朝、オレは母とスマホ越しにこんなやり取りをしているわけだが、母はホテルに泊まっているんじゃない。ホテルの従業員として働いているのだ。


「掃除の腕前がなかなかいいって、三人ぐらいから褒めてもらっちゃった」

「母さん、キレイ好きだからな。マツイ棒ならぬ、マリナ差し思い付くぐらいだもんな」

「ウフフフフ」


 説明しよう。マリナ差しとは、オレが小学校時代使っていた竹差しの先をティッシュで包み、複数の輪ゴムでバチバチに固定。オレの母親、その名も白藤真理奈の手により、三十センチ先の狭い場所のホコリも取るという、マツイさんも驚くであろう最先端お掃除グッズである。


「三本とも持って行ったから、一本は先輩の朝川さんと加藤さんに渡した。おかげで充実した掃除時間が過ごせているわよ」

 一本はオレが小学校時代に使っていたもの、二本目は母が小学校時代に使っていたもの、三本目は母が小学校を卒業するときにクラスメートの男子からもらったものらしい。て言うか小学校の卒業式に竹差しをもらう人なんているか? 中学校の卒業式で学ランの第二ボタンをもらうなら分かるが。


「分かった。とにかく、無事に仕事をこなせているようで何よりだね。オレはこれから学校へ行くから」

「気をつけてね」

「分かったよ」

 オレはひとまず安心してスマホを切った。今日もいつもと変わらない一日になると思っていた。


「おはようございます」

「おはよう」

 校門で出迎える警備員に挨拶し、突き当たりである校舎の入口を目指して進んでいく。すると、三人の女子がオレを追い越すや否や、何故かオレを指差してはキャッキャと騒いでいる。オレは正直ピンと来なかった。て言うかオレの顔に何かついているのか? ついているとしたら、昨日虹虫に鼻先を刺された跡ぐらいだが……。


 入口を通ってすぐのロッカーで、運動靴から上履きに履き替え、廊下に上がる。すぐさま一人の女子と目が遭った。彼女はまるで、映画の主演が決まった俳優を見るように、熱く輝いた視線をこちらに浴びせていた。

 何だコイツと思いながら、オレはその女子の目の前を通り過ぎんとした時だった。


「かっこいい……」

 物凄く気持ちのこもった声で、彼女は確かにそう言った。オレはそれを聞いて、思わず足を止めると同時に、女子の方を戸惑いながら見た。相変わらず彼女の目は輝いている。その輝きの目的を、オレは全く読めなかった。だから足早にその場を去った。


 しかし、階段の踊り場に入ろうとした時、正面奥にある非常扉の真ん前に立っていた女の子が、まるで銃で撃たれたかのように胸を押さえていた。そうかと思うと、恍惚の表情で腰を抜かした。

 オレはちょっと怖くなって、さっさと階段を駆け上がった。


 教室に入ると、教卓の真ん前に来たところで、強烈な気配を感じた。誰か、いや、大勢がオレに視線を向けていることが伝わってきた。オレはおそるおそる、視線の群れと向き合う。教室の中にいた女子のほぼ全員が、こちらに注目していた。それも皆、まるで旅行雑誌でしか見なかった金閣寺の煌きを生で見たように、まるで空港にやって来たハリウッドスターを見るように、はたまたまるで舞い降りて来た神と出逢ってしまったかのように……


 女子たちが一斉にオレの方へと群がってきた。

「おはよう、翔太」

「翔太くん、かっこいい」

「翔太くん、私と一緒に写真撮ってくれない?」


 女子たちが口々にオレへの好意を表してくる。気がつけばオレは二十人規模の女子たちに囲まれていた。今までオレにとって女子と言うのは、追いかけても追いかけても、雲の上の星のようにいつまでも遠くに離れた存在だと思っていた。それが今になって、急に大量の流れ星が一斉にオレのもとへ舞い降りてきた。


 えっ、何? コイツらマジなの? オレ、喜んでいいの? マジで超嬉しいんだけど。ニヤニヤしちゃっていいの? 「よっしゃあ!」って心の底から咆哮してもいいの? て言うかこれ夢じゃないよね? 怒らないから正直に言ってよ、これ夢じゃないよね? どの道今マジで笑いが止まらなくて仕方ない状態なんですけど。マジで宝くじで三億円当たったみたいな心地良さ感じちゃってんですけど。これで平静を装えって言う方がムリなんですけど。


 なんて思っているうちに、本当に流れ星で頭を打ったかのように、眩暈が段々と重たくなってきて……オレの目の前は真っ白になった。



「貧血だってさ」

 オレは保健室のベッドの傍らに座る美緒にそう伝えた。

「ああ……そう」

 美緒は素っ気ない風を見せる。


「あの、一応倒れちゃったんだから、クラスメートらしく心配してくれる?」

「別にそこまでする必要はないでしょ」

「どういう意味?」

 美緒の変わらぬ冷淡さに、オレは多少非難めいた口調で言葉を返す。


「男の貧血って、何か女々しくて情けない感じというか」

「そういう言い方やめてくれるかな? オレだって貧血になりたくてなったわけじゃないし。て言うか、オレ貧血になるぐらい不摂生してたかな? オレはただ女子に囲まれてウハウハしてただけなのに」


「よっぽど女子と仲良くなりたかったのね。でもその気持ちが強過ぎて体がついてこれなかったんじゃないの?」

「えっ、そういうパターンで貧血? そんな感じで簡単に血が貧しくなるものなの?」

「女の子に冷たくあしらわれることに体が慣れ過ぎた。それで今日になって突然の真逆の状況、つまり究極レベルでモテモテになったら、体も対応しきれなくなるのは当然よ」

「嘘、せめてもうちょっと楽しみたかったな~」

 オレは嘆きながら天を仰いだ。


「本当に女の子が好きなのね~」

「今のは皮肉か?」

「ノーコメント」

 美緒がオレから目を逸らす。


「何故そこでコメントを拒む? 意味が分からないぞ」

「人間にはコメントする権利とせざる権利があるのよ」

「そこで持ち出さなきゃいけない理屈かよ」

 オレは美緒に呆れながら、再びベッドの上で天を仰いだ。


「それにしても、昨日まで延々とモテなかったくせに、今日モテたらモテたで、貧血起こして倒れるなんてね、フッ」

「ちょっと待て、鼻で笑ったのか。オレをバカにしてるのか?」

「別にそういう意味じゃないわよ。でもさ、あれだけみんなが翔太に言い寄ってきたのよ。むしろあれ以上のチャンスを不意にするって、全く、アンタってどこまでも生き方下手過ぎて救いようないわ」


「うん、確実にバカにしてるね、決定だよ」

「確かにさっきはすごい光景見せられたけど、ちょっとおかしいとも思ったわ。五百人にも告白して失敗した男が、今日になって二十人ぐらいの女の子にキャッキャウフフとされるなんて、どういう風の吹き回し?」

「それはオレにも分からないよ」

「昨日まで翔太のことなんてどうでも良かった連中が、朝から急に群がってきたから、私、端から見ていて呆れちゃった」


「お前だけはあの輪の中に加わらなかったのか」

「私はさ、彼女たちみたいにすぐに世の流行の波にさらわれるような連中とは違う。アンタがモテるようになったからって、すぐにそこへ群がりに行く女子たちよりかは、大分頭の良い方だから」

 美緒が冷めたような口調で語った。


「アンタさ、何か昨日、変なもの食べた? 公園のゴミ箱でもあさってた?」

「オレはそこまで汚いことはしねえよ」

「それとも宇宙人に、モテモテになるチップでも埋め込まれたとか?」

「宇宙人? 出逢えたらそりゃ素晴らしい経験になるかもしれないけどな、生憎オレは宇宙人にも会ってないよ」


「じゃあ、昨日、何が変なことあったの?」

「変なこと……そうだ。帰り道に、変な虫が出て来たのは覚えてる」

「変な虫?」

 美緒が突如、オレの方に食い入ってきた。でも顔は喜んでいるように見えない。相変わらずのクールビューティーってやつか。


「何だよ、いきなり」

「だって、私、こう見えても虫にはうるさいわよ。今でも週五で昆虫採集に出かけるし、小学校から理科のテストで、昆虫に関する問題は全て正解しているわ」

「す、すげえピンポイントな自慢じゃん」

「で、その変な虫って何?」

「何て言うか、体がクワガタ程に大きい蚊のようだった」

「ふむふむ」


「で、体の色がとんでもなくてさ。まるで虹そのもののような色合いだったんだよ」

「虹色の虫?」

「ああ、そうだ。そいつに鼻先をプスリといかれた」

「確かに鼻先がちょっと腫れている。でも虹色の虫なんて見たことない」

「奇怪極まりなかったよ。まるで火星から迷い込んだ虫みたいだった。地球の虫博士でもあんなの分かりっこないだろ?」


「未知の生物に刺されたのに、鼻先がちょっと腫れたぐらいで大丈夫なの?」

「昨日はそれだけで済んだと思った。だが今日になって、何で女子たちがオレを取り囲むようになったんだ?」

「さあ、分からない。でもその虹虫がアンタの鼻先にモテモテになるエキスを注入した可能性も否めないわね」


「まさか、あの虹虫が?」

「昨日虹虫に刺されたこと以外、何があった? 五百人目の女子にフラれて、そのことを私にイジられたぐらいでしょ? だとしたら、やっぱりその虹虫に何かあるのかも。虹虫のせいでモテたんじゃないにしても、他にその虫に刺されちゃいけない理由があるのかもしれないし」


「まさか、オレに毒を注入したとか?」

「毒だったら、今頃アンタは学校には来れてないと思う。いずれにしても、虹色の虫のこと、図書室で調べる必要がありそうね」

「ちゃんと調べておくれよ、虫博士さん」


「私的にも、虫博士としての大発見を得られるチャンスが思いがけず舞い込んできたわね」

 美緒が不敵に笑う。

「もう楽になったかしら?」

 保健の那須川先生が、オレにハムサンドイッチ二個を手渡してきた。推定二十九歳のなかなか麗しいその女性が手のひらに広がる小銭を見せると、オレも自然な流れで手のひらを差し出して受け取り、ポケットにしまい込んだ。


「食べれる分だけ食べていいわよ」

「分かりました」

「それにしても、女子に囲まれただけで倒れるとは、何と言うか、ウブの中のウブよね」

 那須川先生がさらっと毒気の混じったことを吐いてくる。


「彼、五百人に告白して、五百人にフラれているんです」

「おい」

 オレがちょっと焦って美緒にツッコむ。

「なるほど、急にモテちゃったことで、体がついて来れなくて、貧血を起こしたと、何となく納得」

 知ってか知らずか、美緒の憶測を保健の先生がなぞっていることに、ゾッとする。オレはそれを誤魔化す代わりとして、ベッドの上でハムサンドイッチの一個目を開いた。


「それじゃあ私、図書館で虫の本を借りに行きます」

「そう、桜花さんって、本当に虫が好きなのね」

「ええ、何と言っても、若き虫博士ですから。彼が昨日出会った、虹色でクワガタみたいに大きな蚊みたいな虫について調べようと」


「そんな虫、いた?」

 那須川先生の目が点になった。

「僕が昨日、公園で見たんです。そして刺されたんです」

「嘘!? 今日、貧血になった以外、特に変わったことは?」

 那須川先生が異常に心配してオレに問いかけてきた。

「ええ、急に女子にモテちゃって貧血になった以外は大丈夫ですよ?」

「そうなの……」


 那須川先生が首を傾げる。そんな彼女に、美緒は淡々と、「失礼いたしました」と挨拶してその場を去って行った。

「とりあえず、元気になったなら、お昼の授業には参加していいわよ」

「分かりました」

 オレはベッドの縁に腰かけた状態になり、ハムサンドイッチをかじった。



「失礼しました」

「体を大事にね」

「はい」

 オレが保健室を後にすると、歩き出して数歩で早速、女子のキラキラした目と視線が合う。その女性は声も出さずに、「カッコイイ」とらしき言葉を呟いた。何か、こういうのにも顔が綻んじゃうオレがいる。


 気分上々のまま教室へ入ると、もう少しで自分の席かというところで、行く手を阻むように五人ほどのクラスメートの女子が集結した。

「さっきは大丈夫だった?」

「一瞬死んじゃったかと思った」

「無事そうで何より」

「体に気をつけてね」

「やっぱり翔太くんってカッコイイ」


 五人の女子が朗らかな顔でオレに言葉をかけてくれる。やっぱり、これ、夢じゃないんだ。喜んでいいんだ。正直に言うよ、オレ嬉しいな。


 さらにオレの後ろから他の女子たちも、楽しげな様子でオレに群がってきた。オレは今度こそ倒れぬことを祈りつつ、この状況を全身で全力でひたすら楽しむことに専念した。

「みんなありがとう、朝倒れちゃったけど、おかげで元気になったよ。君たちがいてくれたおかげでね」


 その瞬間、女子たちから一斉に歓声が上がった。オレは時々女子たちから肩や背中を優しく撫でられたりすることにドキドキしながらも、みんなと楽しい時間を共有していると心から実感していた。その間も女子たちは口々にオレに好意を示す優しい言葉を次々とかけてくれる。「本当に良かったね」とか、「これからもずっと一緒にいて」とか、「愛してる」とか。


 しかし、突然、分厚い何かががバンと叩かれる衝撃音とともに、夢想的な雰囲気は断ち切られた。美緒が机上の虫図鑑らしき本に両手をついて、目を尖らせていた。

「女子たち、本当にバカじゃないの? 翔太の何がそんなにいいのか知らないけど、今日になって突然一斉にのぼせ上がっちゃって。翔太に構ってもらう前に自分磨きとか勉強とか何とか、もっと他にやることあることあるんじゃないの? まずはその辺しっかりしたら?」


 すると女子たちも当然のように、「いきなり何よ」「好きな人好きになって何が悪いの?」「自分が男の子に興味ないだけでしょ」「美緒こそ昆虫構ってばかりで、頭まで虫に喰われてんじゃないの?」と反発する。


「私は男子一人にみんなと一緒になって群がるほど自我がないわけじゃないの。むしろ目先の男子のカッコ良さにホイホイついて行くような単細胞とは違います。現実的に自分なら誰と付き合うのが理想か、これでも見極めている方なんです。分かりましたか?」

 女子たちは、「何が『分かりましたか?』よ」「アンタこそ分かってんのかって話よ」などと口々に文句を垂れている。教室をキナ臭い気配が漂っているのは明らかだった。


「あの……」

 突如一人の女子が、謙虚な態度で教室を訪れた。その場にいた誰もが来訪者に注目する。その女子に、オレは息を呑んで驚いた。

「ちょっと待って、あの子って……」

「そうそう!」

「A組の奈村椿じゃない?」

「赤家高校一の美少女、人呼んで『センター女子』!」


 そう評されている椿はどこかためらいがちに、オレの前に歩み寄ってきた。えっ、何? オレ、椿と直接の面識あんまりないんだけど。それこそオレにとっては、知人女性の一人でしかないんだけど。

 純潔を司るような輝きを見せる大きな瞳、愛嬌を覗かせながら佇む小さめの鼻、桜の花びらよりも繊細な彩りを見せる薄めの唇が、オレの真ん前に迫ってきた。まるでギリシャ神話の美女アンドロメダの到来かと思うほどのオーラに圧倒され、オレは彼女から少し目を逸らした。


「白藤、翔太くんですね?」

 甲高くも繊細で優雅な声だった。文字に起こせばまるでこれからオレが逮捕されるような台詞だったが、口調はまさに可憐で、人を癒やすような優しさだった。

「はい」

 オレは椿から目を逸らし気味のまま返事した。

「しっかりとこちらを向いてもらえます?」


 オレは言われるがままに、少しずつと言う形で椿を直視した。その時、椿の表情から、まるで開いた花のように笑顔が解き放たれた。

「かっこいい」

 オレは、稲妻に打たれたかのような衝撃を受けた。学校一のセンター女子に「かっこいい」と言われた。こんな夢のまた夢、いや、宇宙の中ではなく、外に君臨するような異次元の夢が実現するような体験を味わったかのように嬉しい気分だった。


「早速なんですが……」

「何かな?」

 オレはドキドキしながら次の言葉を待った。

「これから、よろしくお願いします」

「はい」


 オレはアッサリと返事した。しかし、周囲では、「どういうこと?」「もしかして、アレ?」「付き合うってこと?」などとざわめく声が入り乱れる。

「ありがとうございます」

 椿は黙々と教室を後にした。周囲はなおもざわざわとしており、オレは只々椿の去った後を見つめ続けていた。


 放課後、オレは階段から通じる一階の踊り場の片隅に座り込む美緒の姿を見つけた。彼女は本を開いたまま目を閉じ、何やら瞑想しているようだった。本の上から付箋が何枚か飛び出ている。オレが美緒に近づいていくと、美緒はその気配を察知したように、急激に目を開いてこちらを向いてきた。オレは思わず心臓が軽く浮き上がるような思いをした。


「保健室で『本を借りて来る』と言ってたな。それがそうか」

「て言うか、何でまた女子たちがゾロゾロ来ているの?」

 美緒の指摘で後ろを向くと、またも五人ほどの女子が、目を爛々とさせていた。て言うか、この五人の女子は誰だ?

「ここ、図書室なんだけど。本読む気ないんだったら出ていってくれる?」


「ええ?」

「何で?」

「噂の白藤翔太と一緒したいだけなのに」

「ここは本読むとこ!」

 美緒が本を振り回して女子たち全員を追い払った。正直、それはそれであの女子たちに申し訳ないと思った。一方の美緒は、何事もなかったのように席に戻り、本を開く。オレは本の中身を覗き込んだ。


「虫の図鑑か」

「そう。アンタのいう虹色の虫なら、この本にも何体かいるわよ。例えばこの、タマムシとか」


「確かに、体の煌き具合は鮮やかだけど、緑系の配分が多い。だからコイツじゃないんだ。オレが見たのは、本当に夕立後の空に架かった虹そのもののような色彩をしている。この虫でも到底敵わない鮮やかさがあった。サイズはそれ程っぽい気がするが、蚊にあるような口先の針がないし」


「そう言われてもね。とりあえず、虹色っぽい輝きの虫を片っ端が挙げていくわ。このアカガネサルハムシは? 体も虹色っぽく煌いていて、何となく見た目が蚊っぽいでしょ?」

「残念だがこれではない。サイズが小さすぎるな」

「じゃあ……このハンミョウは?」

「これでもないな」


 その後も美緒が「これは?」と繰り返し聞きながら虫の写真を示していくが、オレが見た通りのものは結局、この虫図鑑には存在しなかった。

「ダメだ、みんな違う。あの本物の虹みたいに神々しく彩られ、堂々とした体の虫は、ここにはいないみたいだな」

「じゃあ、その公園に連れて行ってよ」

「えっ?」

 オレは一瞬、後ろに体をのけぞらせた。


「何よ、勘違いしないでね。これはデートじゃないから。決してデートじゃないから!」

 美緒が急に立てた人差し指を俺の顔に押し付けるギリギリの所まで迫らせてきた。

「それぐらい分かってるよ。虹虫を捜すんだろ?」


「虹虫って何?」

 階段から通りがかってきた椿が、こちらに気付いた。

「ああ、何でもないんだよ」

 オレはドキドキしながらも両手を胸の前ではためかせながら誤魔化す。しかし椿は構わずオレをスルーし、美緒の本を覗き込む。


「虫か。私もちょっとばかり興味があるの」

 美緒はすかさず図鑑をバタンと閉じて、警戒心を示した。

「アンタ、さっき翔太に『よろしくお願いします』って言ったわよね。それ、どういう意味なの?」

「いえいえ、ただ一緒になりたいなあってだけ」

「あっ、そう」

 美緒は素っ気ない反応を見せてから、立ち上がった。


「翔太、椿と付き合ってあげなよ」

「えっ!?」

 美緒のさらっと人のデリケートな陣地に踏み込むような発言に、オレはちょっと引いてしまった。

「いやいや、別に椿も、付き合うってハッキリ言ったわけじゃないんだし」

 そのとき、椿本人の方から、いきなりオレの右手を両手で包み込むように握手してきた。

「改めて、これからもよろしく」


 オレの顔面、赤くなってない? 何かほんのり顔の中の温度が上がっているように感じるんだけど。これ、喜んでいいの? 歓喜を上げていい感じなの?

「うん、こちらこそどうもよろしく」

 オレは自然にこぼれた笑みに身を任せて椿の握手を受け入れた。


「はい、契約成立だな」

「えっ!?」

 美緒の早まっていそうな結論に、オレの気は動転した。

「椿、そのつもり? 本当にそのつもりで言ったの?」

「どうだろう。まあ、私とあなたって初対面じゃないわよね。私が昼休みに学校でかける曲のリクエストをしたくて視聴覚室に行こうと思って、あなたに行き先を聞いたこともあるし」


「アハハ、確かにそんな時もあったな」

「それも関係なく、ここらであなたとご一緒したいかなって思うのが本当の気持ち」

「それってやっぱり付き合うってことじゃん」

 美緒が確信したように小さくニヤリとする。

「マジ?」

「私はただ翔太とご一緒したいだけです」

「あっ、そう。でも私、これから翔太と虫の調査に出かけるんだけど」


「私も一緒に付き合います」

「本当なの?」

 美緒が念を押すように問いかける。

「ええ」

「あっ、そう、やっぱり付き合うってことじゃん」

 美緒がさらりと断定する。


「これって、美緒の言う意味での『付き合う』って感じでしょうか?」

 椿は素朴な表情をしながら、なおも握り続けるオレの手を振り子のようにゆっくりと左右させていた。オレはワケも分からず笑って誤魔化すしかなかった。

「しょうがないや。じゃあ三人で虹色の虫を探しに行くか。それじゃあ翔太、私を案内してよ」

 美緒はそう言いながら、一人で先を行く。

「おい、待ってくれよ」

 オレはちょっと焦りながらも、椿を引き連れながら美緒について行った。



「ここがそうなの?」

 オレがいつも通る公園を前にして、美緒が言った。

「ここから虹色の虫が飛び出して来たんだ。気をつけなよ。今日も出て来るかもしれないから」


「心配無用。虫の扱いは手慣れているから。アンタの隣にいる女子の心配でもしたら?」

 オレは未だに自分の右手を握る椿の方を見た。椿は軽く顔を傾けて、流し目でオレを見つめている。何だその見方は、余計にドキドキするぞ。

「彼女こそ、虫に対してどれぐらいの免疫があるか分からないから」

 美緒はポケットからスマホを取り出し、颯爽と公園の中へ乗り込んで行った。オレたちも後からついて行く。


 美緒は公園にある木や茂みを次から次へと嗅ぎ回って行った。

「ねえ、どこにもいないわよ? アンタ幻覚でも見たんじゃないの?」

 美緒が遠くから大声でオレに嫌味っぽく語りかけてきた。

「昨日オレはこの目で確かに見たんだよ。そしてこの鼻を確かに刺されたんだよ」

 オレも遠くの美緒に大声で返す。


「あっ、あそこ!」

 椿が指差したところを見ると、確かにクワガタ大の虹虫が右往左往しながら、公園中央の滑り台の近くを右往左往する形で飛び回っていた。

「美緒、すべり台の付近に虹色の虫が!」

「えっ、何!?」

 オレの呼びかけに美緒が思わず滑り台へ駆け寄る。しかし彼女が近寄った方は、虹虫の居場所とはすべり台を挟んで逆サイドだった。そうこうしている間に、虹虫は美緒がいる方面のすべり台頂上の手すりに留まった。


「ちょっと待って、あれがそうなの?」

 美緒が虹虫のビジュアルに面食らった様子で声を上げた。美緒はその場でジャンプして虫を掴もうとするが、高くて届かない。

「翔太、椿、アンタたちも手伝って!」

「分かった。椿、君は階段の方から上がって!」


 オレはすべり台の斜面を駆け上がり、椿はすべり台の階段から駆け上がり、虹虫を挟み込みにかかった。オレはてっぺんの虹虫に手をゆっくりと伸ばした。

「カシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャ」

 スマホの連射カメラらしき音に驚いたか、虫は手すりから飛び立ってしまった。奴は空中を旋回した後、オレの鼻に向かって、あの日のように飛びつかんとした。


「うわっ!」

 オレは思わず虫を避けようと、自分から倒れ込んだ。次の瞬間、オレはそのまま、頭を逆さまにした状態ですべり台を落ちて行った。図らずもちょっとした危険を感じた。

「大丈夫?」

「ああ、何とかね」

 オレはすべり台の下で待っていた美緒に気丈な笑みを見せた。


 そのとき、椿がすべり台を下って来た。

「うっ!」

 椿の足が、オレの急所に突き刺さった。そのままオレは椿の勢いに押され、すべり台からはじき出され、砂地でうずくまることになった。

「あっ、ごめんなさい、大丈夫!?」

「ああ、大丈夫だよ」


 オレは必死で声を絞り出した。

「悪気はなかったの」

 椿がオレをそっと抱き寄せる。椿の体の温もりが、じんわりとオレの体に寄り添い、苦しみという名の沼からそっと救い出してくれる感じがした。


「何その体勢?」

 美緒が訝しげな顔で言った。

「やっぱりアンタたち、付き合っているってことね」

「いや、そういう意味じゃないの」

 椿が必死に否定する。

「じゃあ何で今、翔太にベタベタしてたの?」

「ベタベタじゃなくて、介抱してただけ」

 椿はそう説明しながら、オレを抱き起こした。


「翔太がすべり台を落ちちゃって、私が滑ったらぶつかっちゃったから、心配しただけなの」

「じゃあ、何で立ち上がる時も翔太を抱えながらなの?」

「だって、翔太が痛そうにしていたから」


「正直に言ってごらん。別に私は翔太の彼氏じゃなくてただの知人女性だから、別にヤキモチの『や』の字もないから、堂々と正直なこと言っちゃっていいのよ」

「私は彼と仲良くしたいだけ。ただの友達」

 椿が意地っぽく美緒に答えた。

「でもその体勢は、明らかに付き合っている感じじゃな~い?」

 美緒がからかうような笑みを浮かべながら椿に迫った。

「いいえ、一緒にいたいだけ」


「付き合いたいから一緒にいたいんじゃないの~?」

「そうとは限らないの」

「いつまでとぼける気なんだか」

「はいはいはい、もうそこまで」

 オレは未だにうずく急所を押さえながら、二人を制した。


「これ以上詮索したら、椿が可哀想だよ」

「そういうアンタはどうなの? 椿のこと、好きなの?」

 美緒の急なフリに、オレは目を泳がせた。

「いや、オレもただ、何て言うか、椿はいい人だから、仲良くしたいのはオレも一緒だよ」

「はい、交際決定!」

 美緒がオレたちを力強く指差した。その後彼女は、もう用は済んだとばかりにカバンを取って来た。


「虹虫も撮ったことだし、明日からこの関係性がどうなるか、楽しみにしながら帰るわね」

 美緒は確信に満ちた笑みを浮かべながら、堂々と公園を去って行った。オレと椿は、本当に自分たちが付き合っているのか確かめるように、お互いを見つめ合った。椿がオレに屈託なく微笑む。


「珍しい虫を見せてくれてありがとう。何かご利益あるかな?」

 椿が可愛い好奇心をアピールする。

「多分、幸せになれるとか何かじゃない?」

「だったら嬉しいな。それじゃあ私も帰るわね」

「気をつけてよ」

「うん」

 椿はカバンを取り、去り際にオレに愛嬌たっぷりに手を振ってみせた。オレもつられるように手を振り返した。


 昨日から続く、鼻先のムズムズした誘惑をこらえながら、オレもカバンを取る。本格的に傾いた夕日で、ひんやりした空気とは裏腹なぐらい情熱的に彩られた空を眺めた。

「やっぱりオレがモテたのって、あの虹虫に刺されたからか? だとしたら明日は何だ? クラス中の女子どころか、学年中の女子たちがオレ目当てに集まってくるんじゃないだろうな? でもそんなカオスなこと、本当に起きるのかな?」

 こう呟いていたら、心の奥底から楽しみが止まらなくて仕方がなかった。とにかく明日は貧血にならないことを祈りつつ、オレは公園を後にした。



 翌日の朝、オレは駆けていた。寝坊して遅刻しそうだから急いでいるのではない。単純に、女子にモテるのがヤミツキになっているからだ。いや、それ以上に椿と会うのが。もっと言えば、オレに群がる女子たちに、センター女子と仲良くなっちゃったことを自慢したいところだが、それはちょっとみんなが嫉妬をこじらせてカオスなことにもなりかねず、自重することにしていた。


 今まで意識していなかったが、こんなに学校へ行くのが楽しみになっとことがない。これも学校が、「椿がいるぞ」とオレを呼んでいるからかとさえ思えてくる。

 しかし、学校まで近づいた時、オレは一つの違和感を覚えた。その違和感は、何気なく追い越した女子の姿に目を向けた時だった。その女子の目は、昨日の彼女たちのようには輝いてなどいなかった。むしろ、それこそ虹虫のような、マニアック過ぎて奇怪な見た目の昆虫に遭遇してしまったかのような視線をオレに向けていた。


 オレはもしやと思い、鼻先を触った。不気味な虫に刺され、それを何度もかきむしってしまった以上、さすがに少しばかり赤い丘が出来上がったような感じだった。あとちょっとかさぶたっぽく堅い部分も感じる。だからって、ピエロ扱いされてビビられるほどでもないはずだ。オレは気にしないことにして、再び走り出した。


 しかし、今度はもうすぐ追い越そうかというところだった二人の女子が、あちらの方からオレの方を振り向いた途端に、揃って息を呑むように驚いた。

「何あれ!」

「キモい!」

「ピエロみたい」


 それを聞いた瞬間、オレは急ブレーキで立ち止まった。本当にピエロ扱いされるとは思っても見なかったからだ。オレは驚愕の目で二人をしばし見つめた後、気まずさを振り切るように再び走り出した。


「おはようございます!」

 オレは早足になりながら警備員に挨拶した。しかし、その警備員も、何故かオレに困惑した様子だった。昨日は本当に普通に過ごしただけなのに、一体オレの何が変わったのか、全く理解できなかった。

 校舎に入った、その時だった。

「おい!」


 生活指導の安田先生に止められた。エッジの利いた目をした、推定二十代後半の生物担当。因みに彼の授業は一年のうち三分の一が何らかの生き物の解剖である。解剖好きな先生はやはり生徒たちには評判が悪い。だが今はそれどころじゃない。


「何だ、その髪は?」

「えっ? この髪ですか?」

「ああ、そうだ、その髪だよ」

「別に、何もしてないですけど?」

「何もしてないわけないだろ、ちょっと来い」

「ええっ!」


 オレは安田先生に強引に手を掴まれ、どこかへと連れて行かれた。この間も通りがかる生徒たちが好奇の目をオレに向けてきた。彼女ではなく、男の先生に手を引かれるみじめさでそんな視線を向けられているのは分かる。だがこうなる前から続く、もう一つの要因が、オレにはサッパリ分からない。

 安田先生はオレを男子と女子の便所の間に据えられた洗面所に据えられた鏡に連れ出した。


「ほら、これ」

 鏡に映った顔に、オレは驚愕した。

「い、いつの間に!」

「ダチョ○倶楽部か、お前は」

 と安田先生に頭をはたかれる。いやいや、これはギャグじゃない。リアルガチでオレには分からないんだよ。

 自分の髪の毛が、あの虫と全く同じ形で、虹色に染められていることを。

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