第五章:虹虫のことが、色々分かってきました。

 週明け、オレはいつものように学校への道を行く。しかし、この時のオレは、通学路の風景に確かな変化を感じていた。

 もう女子たちが、オレを好奇の目で見ることもなければ、それこそ学校のセンター男子とも言える風貌の男子を見るような目でオレを見ることもない。つまり、もう誰もオレに見向きもせず、ただ黙々と学校を目指すだけになっていた。


 校舎の廊下を歩いていても、踊り場で立ち話をしている二人の女子も、オレの気配など全く感じてくれやしない。階段を上がっても、向こうから降りてくる女子は、本当にニュートラルな顔でオレとすれ違い、通り過ぎるだけだった。

 にわかにはそれが現実だと信じたくなかった。まさかオレが、以前の告白五百連敗男という残念野郎に舞い戻っちまったことなど。椿を入れたら、五百一連敗か。


 そんな思いを抱えながら、教室へ入る。

「おはよう」

 少し大袈裟に、教室中の皆に声をかけてみる。全体の八割ぐらいがオレに反応した。オレは気取って手さえも振ってみる。次の瞬間、彼らは一斉にオレから視線を外し、目の前の友達との談笑にいそしむだけだった。


 やっぱりオレは、ただの告白五百一連敗男だった。あの日ジェットコースターに乗ったことで、虫的要素だけでなく、モテ要素も一切吹き飛ばされてしまったんだ。受け入れたくない現実を受け入れることに、心の中で苦闘しながら、オレはカバンを机の側面のフックにかけた。イスに座り、ため息をつく。

「翔太」

 右斜め後ろから、美緒が声をかけてきた。

「キャンバスワールドのチュロス、美味しかったね」

 美緒は特にオレに微笑みかけずしてオレに語りかけた。


※ ※ ※


そうだ、あの日、椿に豪快にフラれてしまった後も、オレと椿は入場料の元をなるべく取ろうとあの場所でしばらく行動を共にしていた。お昼休憩の時に、ただの知人関係であるオレと美緒は、まともに向かいあうこともなく、それぞれのチュロスをかじっていたっけ。チュロス以外の食べ物は、オレは焼きそば、美緒はチャーハンだった。しかしその時の美緒は、お昼を食べる直前、オレにこう言った。


「勘違いしないでね。こんな状況でも、私にとってアンタはただの知人男性。よってこのチャーハンをあ~んすることもなければ、チュロスの両端を、私とアンタそれぞれの口でくわえ合うイベントもナシ。ついでに言うならアンタからその焼きそばをアーンすることもナシね」


 周到過ぎるぐらいの釘の刺し方だが、正直こう言われる前から、いやずっと前から、何なら最初から美緒とそんなイベントを起こそうという気そのものが、オレの中にはなかった。なのに何故だろう、相手からズバリと冷たいことを言い放たれば、敗北感を強いられる。これから勉強しようとしている矢先に、母親に「ちゃんと勉強しなさい!」と言われた時の感覚もこうか。


 しかも美緒の釘刺しの場面は、これだけに限らなかった。コーヒーカップでともに乗っているときも、美緒は完全に明後日の方を向いていた。

「いい? 私とアンタはあくまでも知人同士の関係でしかない。共に同じデカい入れ物でグルグル回されていようが、この関係性は一切ブレることはないのよ」


 メリーゴーランドで隣同士に乗っている時も、

「一緒に来た者同士、はぐれるわけにはいかないからこうやっているだけ。私の隣にいるのはただの知人男性、アンタの隣にいるのもただの知人女性よ」

 と平坦な調子で言われる。コーヒーカップ同様、グルグル回りながらこんな言葉を頭の中に巡らされたら、周りのカップルや家族連れのようには楽しめない。


 ゲームセンターで、オレが奇跡的にクマのぬいぐるみをゲットした時は、椿にフラれて鬱蒼とした曇天の空模様同然の気持ちに、一筋だけ光が射した。

「美緒、獲ったぞ!」

 オレはここぞとばかりに、ぬいぐるみを美緒にアピールした。

「今日はそのクマでも抱いて眠りなよ」


 美緒の口調は相変わらずクールと言うよりも一段と寒い。

「知人男性からぬいぐるみのプレゼントなんておこがましいし」

 ここでも知人アピールを挟んでくる美緒の気が全く知れず、オレの心の一筋の光はアッサリと曇り空に塞がれた。


「さあ、そろそろ帰ろうか」

「うん」

 オレは困惑しながら頷き、静かに彼女について行くだけだった。そんな感じでオレはキャンバスワールドを後にしたのだ。


※ ※ ※


「あのチュロス、確かにこんがりしていて、歯ごたえもあって、他の店で食べるチュロスよりもいい味だったな」

 失恋した人みんながそうなるのかは分からないが、椿にフラれたショックで気が沈んていたオレは、お昼の時に食べた物の味を、意味もなく奥深くまでしっかりと噛みしめていた。そのおかげで、チュロスや焼きそばの風味が、たった今食べたように頭に馴染んでいたのだ。


 そのとき、美緒が周りを見渡す。

「彼女たち、アンタを眺めるのに飽きたら飽きたらで随分冷たいのね」

 美緒の何気ない一言が、オレの心をきゅっと締め付ける。同時に、自分の無力さを感じる。あの超絶モテモテだった日々は何だったんだ。あの歓喜の日々は、まさか夢だったのか? オレ、一貫して眠り続けたまま数日を過ごしていたと言うのか?

 ワケも分からず、オレは自分の頬をつねった。普通に痛い。


「やっぱり、あれは本当だったのね」

「あれって?」

「あの虹色の虫のことよ。キャンバスワールドから帰った後、神奈川昆虫リサーチセンターから、あの虫に関するメールが来ていたのよ」

「マジか? 聞かせてくれよ」

 オレは美緒に懇願した。


「まずあの虫の名前、分かる? 『ムシデキズ』」

「ム、ムシデキズ?」

「そう、その昆虫離れした神秘の中の神秘を極めたビジュアルと、刺された時の症状のヤバさを誇る新種の昆虫、正に『無視できず』」

 オレは若干つまらぬ寒さを感じた。


「あの虹色の虫に刺されれば、半日後には急激にモテモテになる。つまり、刺した際に、人に惚れられる効能のあるエキスが注入され、それが皮膚中を巡る。エキスから出る成分が体の外へと放たれた結果、誰彼構わず刺された本人に興味深々になる。つまり、強制的にモテ期を作り上げるってこと」


 オレのモテ期は、あんな虫一匹に仕立て上げられたものだと言うのか? そう思うと、オレは開いた口が塞がらなかった。

「でも、あのエキスには副作用もある。一時的に髪の毛が虹色に変色するのも、その後で生える触覚も、ムシ語も、糸を吐くのもみんなそう」

「てことは、オレがモテモテになるのと虫化するのはセットだってことか!?」

「その通り」

 美緒は口角だけを微妙にニッと上げたが、目元は相変わらずクールなままだった。


「でも副作用のパターンはそれだけに限らないわ。個人によって異なる。例えば、ドブ川みたいな臭い汗をかく」

「ええっ!?」

 オレは驚き、慌てて自分の体臭の至るところに嗅覚を走らせた。幸い何も起きていない。

「無償に人の皮膚に吸い付きたくなる。男女構わず」

「男女構わず!? えっ、オレ男にチューチューするところだったの?」

「かも」


 驚愕の事実に呆然とするばかりだが、それは否定の「ひ」の字も見せない美緒に対してもそうだった。

「極め付けは、それこそ鼻先から針が伸びてくる」

「針!?」


 オレは思わず鼻を押さえた。

「その針に刺された者は、ムシデキズと同じ症状を味わうことになる。そうして人間の皮を被った虫が次から次へと生み出されるってことかしらね」

「その増え鬼的な理論って何だよ……」

「ちなみにその急に鼻を押さえる感じ、本当に針があったら自分で自分の手を刺しちゃうところだったわよ」

 美緒のさりげない忠告にも、オレはテンパって手を戻した。


「何、本当に生えているわけじゃないからそんなに焦らなくてもいいじゃないの。現にアンタに根付いたエキスはすでにジェットコースターの風に飛ばされたんだから」

「ああ、そうだった」

 オレは安堵のため息をついた後、重要な事実に気付いた。


「てことは、まさか……!?」

「そう、あのエキス、注意報レベルの強風に晒されることで一切の効力を失うのよ。副作用も、モテモードも、全て。もちろん殺虫剤をかけても即元通り。そういうこともあの研究所が言ってた」

 その瞬間、オレの頭の中で、全てがつながった。


「やっぱり、オレのモテ期は、あの虹虫によって作られたもの……?」

「その通り、今度またモテモテになりたいなら、虹虫に頭を下げるしかないみたいね」

「オレを虫の奴隷みたいに言わないでくれる?」


「だってそうじゃない。五百人もの女子に告白失敗したんだから、それぐらいのスペシャリティに溢れた方法でも取らないと、彼女は手に入らない。それが翔太ってことじゃない?」

「いやいや、待ってよ。虹虫に刺されたら、色々ヤバい副作用が出るんだろう? まず髪の毛が虹色に変色するんだぞ? あの虹虫、真っ先にオレに校則違反強いてくるんだぞ? 校則無視してまでモテたくないから! それじゃあ金持ちになりたいって言いながら空き巣働くのと一緒だから!」


「大袈裟、一日帰されただけじゃない」

「いやいや、オレにとっては人生初の校則違反! オレが捨てたいのは男としての童貞で、校則違反的な童貞じゃない! 最低限の勉学はこなせる健全な高校生でありたいという理想が崩れる音の儚さがどれだけ悲しいのか分かる? それも失恋と同じくらい悲哀に満ちたものだぞ! 君には分かるのか!?」

「分からない。第一アンタ、失恋や髪の毛を染める以上に重い罪犯したでしょ。ハエ殺し」


「あああああっ、それは本当にすまなかった、すまなかった! 一生かけて償います!」

 オレはすぐさま直立状態となり、勢い任せに美緒に何度も頭を下げた。何でハエ一匹でこんなことになっているんだろう?

「これからは、ハエも含めて、ちゃんと虫を敬いますから、ゴキブリだって敬いますから、どうかお許しください!」


「キャアアアアアッ! ゴキブリイイイイイッ!」

 オレが宣言した矢先に、教室の別の場所で、女子たちがゴキブリに悲鳴を上げて逃げ惑った。

「何!? 任せて!」

 クラスメートである満也が、大きく床を踏みしめ、擦りつぶした。まるでポイ捨てしたタバコの吸い殻にそうするオッサンみたいに。


 その瞬間、オレは満也の方を向いたまま、怒れるサキュバスのようなオーラを放つ美緒の後姿を近くで目にした。彼女がおもむろに満也の方へ近づいていく。オレは戦慄しながら、美緒と満也の間で縮まる距離を眺めていた。彼女は彼の背後から、いきなり首元に腕を回し込んだ。


「ゴキブリにだって尊い命があるんだよね。それを無残にも潰し、おまけにダメ押しのようにグラインドして粉々にしたのはだあれかな?」

 美緒は不気味極まりない口上を終えると、腕に思いっきり力を込めた。

「ひえええええっ!」

 満也の悲鳴が教室中にこだまする。


「ドラゴンスリーパー!?」

「おい、美緒を止めてやれ!」

「美緒ちゃん、やり過ぎ! やり過ぎ!」

「満也が死んじゃう!」

「すみません、ギブ、ギブ、ギブ!」


 満也が悶絶しながら美緒の腕を叩く。その瞬間、美緒は素直に満也を開放したが、サキュバス的なオーラはまだ体から放たれ続けていた。

「キャッ、ゴキブリの死骸!」

「イヤアアアアアッ!」

「うわっ、見事に粉々になってんじゃん」


「責任持って処理してよね」

 美緒は自分の制服のポケットから出したポケットティッシュの中身を二掴み分出して、満也に渡した。あの猟奇的な佇まいでも、一応の、ほんの僅かな優しさは見せているようだ。地獄を体現したようなオーラのままオレのもとへ戻ると、俯きながら目をこすって、元のクールな美緒に戻った。


「どうした?」

「いや、何でもないけど」

 表面上では苦笑して済ませたけど、オレはハエを叩き潰した時の彼女が醸し出した壮絶なまでの恐怖がフラッシュバックし、オレを内側から、それこそプロレスラーの関節技並に苦しめていた。


※ ※ ※


「ハムサンドイッチください」

「すみません、売り切れです」

 カウンターの奥を覗いてみると、確かに後ろの棚はスカスカだ。て言うか、サンドイッチのゾーンが完全にもぬけの殻になっている。おにぎりのコーナーは、まだ所々に当該商品が点在している状態だ。


「あの、サンドイッチ、割合的になさ過ぎないですか?」

「そうだね、実は男子たちの何人かが、『椿ちゃん、サンドイッチが好きだから、オレたちもサンドイッチ買っちゃおう』って話しているのを聞いたんだけど」

 まあ、確かに椿は、学年一、いや何なら学校そのものにとってのセンター女子。男子たちが椿にあやかって、彼女の好物であるサンドイッチを食べてご利益を受けようと考えるのはある意味自然だとは思うが。


「じゃあ、あそこにある、かつおぶしと、チャーハンと、焼きアナゴのおにぎりをください」

 オレが三つのおにぎりの入った袋を引っ下げて教室に戻らんとすると、階段のを上りきった先で、美緒がオレを待ち構えるように立っていた。

「どうしたの、そんなに堂々とオレを待っているみたいな感じして」

「勘違いしないでね、あくまでも私にとってアンタはただの知人男性だから、何度も言わせないで」


「もう分かったから何度も言うなよ」

 オレは呆れたようにツッコむ。

「とりあえず、見てもらった方が早いわね」


 オレは大人しく美緒について行った。踊り場を右へ百八十度ターンして抜け、すぐに左のカーブを曲がると、オレはその光景に驚愕した。

 廊下の奥の方に、男子たちが集結し、何かを窺(うかが)っているようだった。しかしいかんせん、数が凄すぎる。廊下だけで五百人以上はいるんじゃないかと思う。そしてソイツらは皆、テンションが高めだ。何か超人気アイドルがA組の教室にでも入り込み、それを追っているかのように、誰もがソワソワしている。


「まさか……!?」

 オレは重厚な男衆の中に飛び込み、必死にかき分けた。

「ごめん、通してくれる、通してくれるかな? ごめんね」


 かき分ける男子たち一人一人に細かく詫びながら、オレはA組の入口にたどり着いた。教室の中には、男子ばかりが密集している。何か気分が悪い。これが女子ばかりだったら、正に秘密の花園みたいで、天にも昇るような気持ちになれるはずなのに。彼らは教室中の席を全て占めることを通り越し、中には立ったまま、もしくは地べたに座ったままサンドイッチをかじる奴も数十人見かける。教室の中央に目を向けた時、オレは衝撃的な現実を悟った。


「みんなありがとう。私のためにお昼を共にしてくれて」

「椿ちゃん、どういたしまして!」

「椿ちゃん愛してるよ!」

「椿ちゃんのためなら勉強も頑張れる、もう一生赤点取らないからな!」

「頑張ってね!」


 赤点取らない宣言の声の方に、椿が屈託ない微笑みを振り撒きながら手を振っていた。彼女の周りでは、幾人もの男が、何重にも渡って取り囲んでいる。あまりに異様な現実に、オレはいてもたってもいられなくなり、教室を抜け出し、男衆を慎重にかき分けて、そこから離れた美緒の方へと戻って行った。

「これ、どういうこと?」

「椿がセンター美女であることを理由にするだけでは、説明がつかないと思う」

 美緒はこんな時にも冷静に語った。


「幸いにもバカな男の群れどもは、B組の教室の後ろの方の出入り口辺りが最後尾ね。C組に入るわよ」

 オレは素直に美緒に導かれるがままに自分のクラスへと入った。しかし、別の衝撃的な光景にオレは度肝を抜かれた。


「女子しか……いない?」

「念のために言うけど、あたかもA組だけ男子限定、C組だけ女子限定になったわけじゃないからね」

「それは分かってる。正直、ここはA組と違って神様が授かりし楽園みたいだけど」

「じゃあA組はアンタの元カノにとっての楽園ってことかしらね?」

「まあ、そうかもな」


 とかわすオレの脳内には、キャンバスワールドで何の前触れもなく去って行った椿の後姿が浮かび、オレの未練を刺激していた。

「後で彼女に聞いた方がいいわね」

「それは、オレは前に女子たちに囲まれてキャッキャとしてた時のような……?」

「今度は椿がその時を迎えたってことよ」


「やっぱり、虹虫!?」

「それ以外ないわね」

 オレは思わずハッとした。あの椿までもが、虹虫に刺されていたなんて。どこでそうなったんだ?


 しかし、虹虫の効力を借りてでも、オレと椿の異性へのモテ度の違いに、ちょっと悔しくなって唇を噛みしめた。

「それにしても何だよ。オレの時でも、今の椿ほどのレベルまでには、異性に取り囲まれることはなかったぞ」

「仕方ないじゃない。五百人相手に告白して失敗する男と、センター女子じゃ、元々の差は明らか。そこに『アイツ』の効力が足し算されただけのこと。虫は人を選り好みしない。そこに人がいるから刺すぐらいしか考えてないのよ」


 その時、オレは、これから来るであろう恐るべき未来を悟ってしまった。

「ちょっと待て、じゃあ椿は、これからあのおっかない副作用に晒されるのか!?」

 美緒はオレをしばし見た後、何も言わずに自分の席へ戻った。

「アイツの髪の毛、虹色になるのか? 頭から触覚が生えるのか? 語尾に『ムシ』ってつけて、口から糸を? それ以外にも何か色々副作用が起きるって言ってたよな?」

「それも仕方ないわね」

 美緒は何も言わずに、カバンからパンを二個取り出した。


「アンタも早く食べないと、昼休みの時間がなくなっちゃうわよ」

 彼女はさらっとオレに告げた。オレも仕方なく席へ戻ろうとしたが、不運にもオレの席も見知らぬ女子に無断借用されていた。

「アレって何よ、男子って本当にバカよね」

「バカと言うよりマヌケじゃない?」

「センター女子によってたかって、本当単細胞な男子が多すぎるって言うか」


 オレの席を占領していた女子は、友人と思われる二人とともに、男子ディスと言う名のガールズトークの最中だった。オレはため息をつきながら、教室を後にした。

 オレは階段の踊り場の壁際に置かれたベンチで一人寂しいランチとなった。椿の今後が絶大に不安な余り、正直、この時のおにぎりの味は三つとも覚えられなかった。


 この日の放課後、掃除当番だったオレは、三本のホウキをまとめてロッカーに戻そうとロッカーの扉を開けた。

「ええっ!?」

 ロッカーの中身に、オレは腰を抜かして尻餅をついた。中では、二人の男子が収まっていた。一人の制服は、ネクタイがなく、ワイシャツが見事にはだけている。もう一人がソイツの肩に手を回していた。


「うわあああああっ!」

 オレは恐ろしくなって、廊下を全力疾走し、そのまま一階まで駆け下りた。踊り場を出たところで、オレはヒザに手を当て、肩で息をする。

「翔太」

 本を抱えた美緒が、相変わらずの静かなトーンで声をかけてきた。

「何ゼーゼー言ってるの? 運動したいにしても校舎内で走り回ったら危ないでしょ」

 まるで先生みたいな諭しようだ。確かに走っちゃってすみませんだけど。

「見ちゃったんだよ」

 オレは階段の方を指差しながら美緒に訴えた。


「何をよ?」

「ロッカーの中で、男同士がイチャついていた!」

「勘弁してよね。私、そういうのに興味ないから」

 美緒が特に気にする様子もなく歩き出したので、オレは慌てて彼女について行く。


「何か今日、変なことが多くない? 前からそうだったかもしれないけど」

「椿のモテッぷりみたいなことなら、アンタもちょっと疑似的に味わったでしょ」

「何でオレのは疑似的なんだよ」


「確かにアンタも大勢の女子に囲まれて、椿も大勢の男子に囲まれた。でも『大勢』の質が違うのよね。椿は教室に入りきらないぐらいの男子を引き寄せた。ありゃ学年中、ひいては上級生の男子も含まれているわね。アンタのはせいぜいクラスの中+α程度のものでしょ」

「おい、優秀な方と比べてオレを下に見るのはやめろ。あれでもオレにとっては一生かけても訪れなかったかもしれないテンアゲモーメンツだったんだぞ」


 美緒はオレの抗議も意に介さないような黙々とした動作で上履きから革靴へと履き替える。オレもそれに合わせて靴を履き替えた。

「そこの昆虫女子、オレの話を聞いてるのかよ」


 そう言いながら美緒に追従して校舎を出た時、オレは何やらその先が騒々しいことに気付いた。校門の近くで、男子たちが密集している。まさか、A組の教室で見たような逆ハーレム状態は、ゲルマン民族のような大移動を行いながら維持されていると言うのか。

「これじゃあ、椿に虫に刺されたかどうか問いかけようにも、近づけないぞ」

 オレは独り身の無力さを嘆くしかなかった。


「じゃあ、私も帰るわ」

「冷たっ! リアルに冷たっ! お前は椿がどうなってもいいのか?」

「別に命に関わるような副作用があるわけじゃないし、明日どうなっているかを見守っていくしかないからね。それじゃあ」


 美緒は大集団を追うようにその場を歩き去ってしまった。例の逆ハーレムグループは、校門を抜けて左の方へ曲がって行った。正直オレも椿が心配だったが、キャンバスワールドで唐突にフラれた負い目もあって、それ以上深追いする気にもなれなかった。

 オレが校舎前の階段を降りた、その時だった。


「誰かあああああっ!」

 急に男子の悲鳴がこだました。右側を見ると、そこでは一人の男子が、五人の不敵な笑みを浮かべる男子たちに捕まり、救いの手を必死に伸ばしていた。ロッカーでの出来事が蘇る。て言うか男好きがあんなにいるとは驚きだ。助けになんかいけるわけもない。行ったらオレまでドギツイ目に遭うことが見えていた。


「よ~し、連れ込もうぜ~」

「嫌だ、オレはノンケだ!」


 男子の悲痛な叫びが響き渡るが、状況は変わらない。ソイツは、目覚めてしまった者たちにより担ぎ上げられ、手足の自由を封じられたうえで奥の方へと連れ戻されていく。オレはたまらず目を背け、校門へ走り出した。すでに椿を取り囲んでいると思われるハーレム集団は、完全に視界から消え去っていた。オレは何ひとつ解決できない情けない自分を振り払わんばかりに、とにかくこの場から逃げ出した。ジェットコースターで感じた強風で虫みたいな副作用の一切を振り払えたように、自分の無力さを、走ることによって感じる風で振り払えるだろうかと思いながら。

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