最終話 一陣旋風

「お母さま、お母さまー」

 後苑の一角で、幼子の声が風に乗って流れて来る。


「……天清宮てんせいきゅうのほうへは、いつものように米や反物、魏国渡りのお香をお送りして。そう、主上のお母さまに。明月めいげつには、ええと、経典を写す良い紙と、筆と硯かしら。あと、干菓子も。あの子の好きな菓子、知ってる?」

「存じております。塩梅いたしますので、ご心配なく」

「ありがとう。それから、呂氏りょしのお子たちにも米と反物と、同じく菓子を。育ち盛りだから、去年の服が着られなくなっているかもしれないわ。あと、秋烟と朗朗は明日、外へ使いに出すことにしているから。都城に救貧の施設を置くことについて、主上のお許しが出たので、彼等に予定地を見に行って、報告してもらうことになっているの」

「かしこまりました、王妃さま」


 四阿あずまやの日陰で、鈴玉が香菱相手に指示を出しているところに、先ほどの声の持ち主が入ってきた。まだ六歳ほどの、縹色はなだいろの上着を来た童子と、それより下にみえる童女である。

光恵こうけい優倫ゆうりん。どうしたの?」

「世子の兄上がこちらに……」

 光恵公子が言い終わらぬうちに、四阿に別の人影が立った。


「母上、勉学が終わりましたゆえ、こちらに伺いました」

「まあ、世子。忙しいのに、よく来てくれたこと」

 鈴玉の長椅子の前に来た世子は、一揖して義理の母へ挨拶した。さぬ仲とはいえ、彼女は世子を大切に撫育し、無事にこの歳まで至ったのである

――どちらにも、似ているわね。でも、どちらかというと王妃さまのほうに…。

 王の精悍な眼差しと学識の深さ。林氏の温顔、慎ましさ。鈴玉は眩しげに、そして温かいまなざしで、我が子同然の世子を見やる。

「学問はどう?あなたのことだから進んでいるとは思うけど、根を詰め過ぎてはいけませんよ」

「はい、ありがとうございます」

 にこやかに答える世子はまだ十を越えたばかりだが、外貌といい挙措といい、まことに林氏と主上そのものであった。


――ああ、ここまでの成長、王妃さまにご覧いただきたかったものを。


 鈴玉の感傷を断ち切るように声を上げたのは、光恵である。

「ねえお母さま、これから世子の兄上と遊んでいただくお約束なんです」

「あら兄さま、ずるいわ。大きい兄さまと先に約束してたのは、私よ」

 そう反論してぷっとむくれる優倫公主は、母親とそっくりである。

 ――全くもう、早くこの癖を治させないと、『河豚ふぐ公主』というあだ名がついてしまうわ。

 苦笑交じりに、王妃は仲裁に乗り出す。


「そなた達は忘れてしまったの?世子に遊んでもらうのは一日ずつ交代で、と決めたはずでしょう」

 世子もまた、苦笑いをしながら光恵の両肩に手を置く。

「いえ、母上。一人と遊ぶのも二人と遊ぶのも大した違いはありませんから」

「世子……」

「ぼく、今日も兄上と一緒に後宮じゅうを探検するんだ。あ、そうそう、それで思い出したけど、いつだったかなあ、外朝まで足を延ばして探検していたら、面白い話を聞いてしまいました」

「面白い話?何?」

「父上は、母上の尻に敷かれてるって」

 鈴玉も香菱も、思いもかけぬ子どもの発言に唖然とする。

「ちょっと、光恵……」

 焦る世子をよそに、子どもは得意顔をしている。

「どこで聞いてこられたのですか、光恵さま」

 その、香菱の利刀りとうのごとき質問にも、光恵はあくまで無邪気である。

「んとね、っていうところ。そこで働いてるおばさんに聞いたの、男みたいな声を出すひと」

「禁衛府?では……」

――ああ、翁白雄おうはくゆう。あの賭場の主、「禁衛府のお白」は健在だったのね。

 鈴玉は懐かしい眼をした。

「おばさんではないでしょう、まだそれなりに若いはずよ」

「あれ、母上はご存じなんですか?あの人を?会ったこともなさそうなのに」

 王妃は世子の疑問に対し、遠くに眼を向けたまましばらく何も言わなかった。

「あなた達が生まれる以前には、いろいろなことがあったの。いつか話してあげるけど」


――そうだ、彼女を鴛鴦殿に呼んでみよう。あの博打の符丁をまだ覚えているって言ってあげよう。

 そして彼女は香菱に気づかれぬよう、袖のなかで指を符丁「賭けろ」の形にしてみる。


――それにしても世子、血は争えないもの。お父上はお忍びで都城を探検するのがお好き、あなたは後宮を探検するのがお好き。やはり、主上にも似て…。


「ねえ、兄上もいいと言ってるし、僕もゆうりんもどっちも一緒に遊んでもらうの、どうかしら?」

 せがまれた鈴玉は、根負けしたかのように微笑する。

「まあ、いいでしょう。遊びたいなら世子の気持ちに甘えさせてもらって、今日は二人一緒に遊んでもらいなさい」

「本当⁉」

 公子と公主は手を叩き、世子にまとわりつき攫って行こうとする。世子はぺこりと王妃に一礼して、弟妹の手を引きながら築山のほうへ歩いて行く。鈴玉が女官たちに目配せすると、三人ほどが後を追って行った。


――私の光恵は、きっと異母兄あにを支え、遠い将来にはその治世を盛り立ててくれるはず。優倫も、このまま世子を慕い続けてくれるでしょう。


「……さあ、私達もいつものみちを通って、散策をしながら戻るわよ」

「はい」

 残された鈴玉は、香菱とともに別方向へ歩き出した。

「それにしても、王妃さま。今日お召しのご衣裳については……」

「わかった?」

「ええ、少しお好みと違うだろう、と推察申し上げておりました」

 衣裳係の仕事の出来栄えを指して言っているのである。

「好み云々ではなく、似合うかどうかと言われると……という話になるかしら。香菱からそれとなく注意してくれる?あくまで穏便にね。私の意見とは言わずに。まだ経験の浅い子だけど見たところ能力もあって感覚も鋭いし、学べば必ず伸びるでしょうから」


 鈴玉は庭仕事に精を出す秋烟と朗朗相手に歓談し、土に眠る鸚哥の腕輪に挨拶し、ときには師父の小屋に顔を出す。趙内官は矍鑠かくしゃくとして変わらず、王妃となった鈴玉を見てもにこりともせず、「そなたの身分からいって、こんなところまで足を延ばす暇はないはず」と言うだけだが、気まぐれに鴛鴦殿へ届けられる美しい花束は、彼の手になるものらしい。

 このようにして、鈴玉は花々を愛でながらそぞろ歩き、後宮へと戻る。その後宮の庭はより小奇麗で整えられた印象を受け、自然を写したかのような後苑とはまた異なる風情である。だが、どちらの庭も彼女は愛してやまなかった。


 また、庭歩きだけではなく、彼女には毎日必ず訪れる場所があった。それは、歴代の王と王妃の肖像画を収める「慶古閣けいこかく」なる建物で、自分がかつて仕えた敬順王后像の前に座って香火こうかを灯し、世子のことから後宮の些細な出来事に至るまで、長い時間にわたり、余すことなく報告するのだった。

「まあ、毎日まいにち、よくもあれだけご報告なさることがあるものよ」と香菱は半ば感心し、半ば呆れてもいるが、鈴玉は「いけない?」と頬を膨らませるついでに、首を傾げつつ呟く。


「でも不思議なのよ。幽明をことにしていても、今の方が敬順さまをより近くに感じられるの。ご生前のときよりも……」

 香菱は少し考えてから、労りを込めた視線を王妃に注ぐ。

「それは、敬順さまが抱かれていたもの――王妃、妻そして母としての悩みや苦しみ、あるいは楽しさや喜びなど全てが、今やあなた様ご自身のものになったからだと、僭越ながら私はそう拝察します」

 鈴玉はしみじみといった感で、深く頷く。

「そうね。本当に、その通り……」


 さてそぞろ歩きも、お馴染みの太清池たいせいちのほとりまで来て、鈴玉が何か言いたげに香菱を振り返ると、心得たとばかりに相手は懐から小箱を取り出し、蓋を開ける。中に入っているのは鯉の餌。香菱は王妃に箱を差し出そうとして、ふと視線を池の対岸にやった。


「……あら、かつての鈴玉がいるわ」


 彼女の独り言に、鈴玉も同じ方向を見る。藤棚の下に、誰かが座り込んでいた。王妃と女官が池を回り込むと、端の草地にごく若い女官が膝を抱えて座り、池に向かって小石を投げているところだった。女官の頭上には、濃淡さまざまな紫色の房が下がり、葉を透かした日差しとあわせ、一幅の絵のような眺めである。

 その女官は人影に気が付き、鈴玉を見上げた。ふっくらとした唇が「誰?」と無音の声を発する。見れば、彼女の帯の上には、見習いであることを示す浅黄色の紐が回されていた。


「そなた、無礼であろう。しかもこんなところで何をしている?こちらの御方は…」

 険しい表情でずいっと前に進んだ香菱を、鈴玉は「しっ」と腕を伸ばして遮る。そして、女官見習いの前に腰をかがめ、同じ目線になった。


「鯉は、石を食べることはできないのよ」

「……」

「それにあなたが踏んでいる花、名前を知ってる?」

 問いかけられた見習いは、黙って足元の白い、ひしゃげた小さな花を見下ろした。

「……」

「名も知れぬ花、路傍の花でも、花は花よ。草に埋もれても、嵐に吹かれても咲き続ける、か弱そうに見えるけれどもつよいい花。その花はあなたでもあり、私でもある」


 女官はうつむいたまま、「ごめんなさい」とぼそぼそ呟く。鈴玉はふっと笑んだ。

「後宮での仕事が辛い?それともご家族と別れて悲しいの?」

 そして、香菱のほうに手を伸ばして餌箱を受け取り、相手に渡した。


「……気持ちはわかるけど、今日はもう戻ったほうがいいわ。その代わり、次にここに来るときはこれを持っていらっしゃい。まず、鯉たちと友達になるの。そうすればきっと、彼等があなたの後宮暮らしを助けてくれるはず」

 女官は、精巧な象嵌細工が施された箱をじっと見つめた。次に鈴玉に対して頭を下げ、くるりと踵を返して小走りに遠ざかっていく。鈴玉はかがみ込んだまま、踏まれた花を整えてやり、息をついて立ち上がった。


「お辞儀がぎこちないところまで、かつてのどなたかとそっくり」

「そう?私、ああまで下手じゃなかったと思うけど?」

 不機嫌になった王妃を前に、香菱は「はいはい」と言いたげに笑いをかみ殺す。

「でも、――あの子も将来、お妃さまのようになるかもしれませんね。そうそう、近々女官の『振り分け』が行われますが、王妃さまはまさかあの子をお取り上げになるおつもりでは?ご自分のときのように」

「取り上げるか、それともやめておくか。ふふふ、どうしましょうか?副女官長」

 王妃と香菱はともに目を細め、駆けていく若い女官見習いを見送った。それとは入れ違いに、世子と二人の幼子が戯れつつこちらにやってくる。


「あら、後宮の探検ごっこはもう終わりにしたの?」

「母上、主上ちちうえがこちらにいらっしゃるそうです。政務を早くお済ませになられたので――」

  世子が言うそばから、遠くに紫の袍を着た人物、そしてそれを囲んだ一団が見える。鈴玉と香菱はゆったりとした笑みを交わし、急ぎ足に池を離れていく。人々の集団は一つになり、笑いさざめく声が春の庭を満たし、いつまでも絶えることはない。

 

 やがて、一陣のつむじ風がふっと吹き上がり、重たげな藤の房を揺らして去った。



  

【 了 】


*****

 最後まで読んで下さって、本当にありがとうございました。厚く御礼を申し上げます。

なお、本作の主上と劉星衛の若き日を書いた外伝「流れる星は暁に抱かれ」も掲載しております。もしよろしければ合わせてご一読ください。

https://kakuyomu.jp/works/1177354054886451510


 また、「罫線のないノオト」第12話に本作執筆後の雑感をまとめました。興味をお持ちの方は、こちらもご覧ください。↓

https://kakuyomu.jp/works/1177354054883089882/episodes/1177354054885021468

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涼国賢妃伝 ~路傍の花でも、花は花~ 結城かおる @blueonion

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