最終話 一陣旋風
「お母さま、お母さまー」
後苑の一角で、幼子の声が風に乗って流れて来る。
「……
「存じております。塩梅いたしますので、ご心配なく」
「ありがとう。それから、
「かしこまりました、王妃さま」
「
「世子の兄上がこちらに……」
光恵公子が言い終わらぬうちに、四阿に別の人影が立った。
「母上、勉学が終わりましたゆえ、こちらに伺いました」
「まあ、世子。忙しいのに、よく来てくれたこと」
鈴玉の長椅子の前に来た世子は、一揖して義理の母へ挨拶した。
――どちらにも、似ているわね。でも、どちらかというと王妃さまのほうに…。
王の精悍な眼差しと学識の深さ。林氏の温顔、慎ましさ。鈴玉は眩しげに、そして温かいまなざしで、我が子同然の世子を見やる。
「学問はどう?あなたのことだから進んでいるとは思うけど、根を詰め過ぎてはいけませんよ」
「はい、ありがとうございます」
にこやかに答える世子はまだ十を越えたばかりだが、外貌といい挙措といい、まことに林氏と主上そのものであった。
――ああ、ここまでの成長、王妃さまにご覧いただきたかったものを。
鈴玉の感傷を断ち切るように声を上げたのは、光恵である。
「ねえお母さま、これから世子の兄上と遊んでいただくお約束なんです」
「あら兄さま、ずるいわ。大きい兄さまと先に約束してたのは、私よ」
そう反論してぷっとむくれる優倫公主は、母親とそっくりである。
――全くもう、早くこの癖を治させないと、『
苦笑交じりに、王妃は仲裁に乗り出す。
「そなた達は忘れてしまったの?世子に遊んでもらうのは一日ずつ交代で、と決めたはずでしょう」
世子もまた、苦笑いをしながら光恵の両肩に手を置く。
「いえ、母上。一人と遊ぶのも二人と遊ぶのも大した違いはありませんから」
「世子……」
「ぼく、今日も兄上と一緒に後宮じゅうを探検するんだ。あ、そうそう、それで思い出したけど、いつだったかなあ、外朝まで足を延ばして探検していたら、面白い話を聞いてしまいました」
「面白い話?何?」
「父上は、母上の尻に敷かれてるって」
鈴玉も香菱も、思いもかけぬ子どもの発言に唖然とする。
「ちょっと、光恵……」
焦る世子をよそに、子どもは得意顔をしている。
「どこで聞いてこられたのですか、光恵さま」
その、香菱の
「んとね、きんえいふっていうところ。そこで働いてるおばさんに聞いたの、男みたいな声を出すひと」
「禁衛府?では……」
――ああ、
鈴玉は懐かしい眼をした。
「おばさんではないでしょう、まだそれなりに若いはずよ」
「あれ、母上はご存じなんですか?あの人を?会ったこともなさそうなのに」
王妃は世子の疑問に対し、遠くに眼を向けたまましばらく何も言わなかった。
「あなた達が生まれる以前には、いろいろなことがあったの。いつか話してあげるけど」
――そうだ、彼女を鴛鴦殿に呼んでみよう。あの博打の符丁をまだ覚えているって言ってあげよう。
そして彼女は香菱に気づかれぬよう、袖のなかで指を符丁「賭けろ」の形にしてみる。
――それにしても世子、血は争えないもの。お父上はお忍びで都城を探検するのがお好き、あなたは後宮を探検するのがお好き。やはり、主上にも似て…。
「ねえ、兄上もいいと言ってるし、僕もゆうりんもどっちも一緒に遊んでもらうの、どうかしら?」
せがまれた鈴玉は、根負けしたかのように微笑する。
「まあ、いいでしょう。遊びたいなら世子の気持ちに甘えさせてもらって、今日は二人一緒に遊んでもらいなさい」
「本当⁉」
公子と公主は手を叩き、世子にまとわりつき攫って行こうとする。世子はぺこりと王妃に一礼して、弟妹の手を引きながら築山のほうへ歩いて行く。鈴玉が女官たちに目配せすると、三人ほどが後を追って行った。
――私の光恵は、きっと
「……さあ、私達もいつもの
「はい」
残された鈴玉は、香菱とともに別方向へ歩き出した。
「それにしても、王妃さま。今日お召しのご衣裳については……」
「わかった?」
「ええ、少しお好みと違うだろう、と推察申し上げておりました」
衣裳係の仕事の出来栄えを指して言っているのである。
「好み云々ではなく、似合うかどうかと言われると……という話になるかしら。香菱からそれとなく注意してくれる?あくまで穏便にね。私の意見とは言わずに。まだ経験の浅い子だけど見たところ能力もあって感覚も鋭いし、学べば必ず伸びるでしょうから」
鈴玉は庭仕事に精を出す秋烟と朗朗相手に歓談し、土に眠る鸚哥の腕輪に挨拶し、ときには師父の小屋に顔を出す。趙内官は
このようにして、鈴玉は花々を愛でながらそぞろ歩き、後宮へと戻る。その後宮の庭はより小奇麗で整えられた印象を受け、自然を写したかのような後苑とはまた異なる風情である。だが、どちらの庭も彼女は愛してやまなかった。
また、庭歩きだけではなく、彼女には毎日必ず訪れる場所があった。それは、歴代の王と王妃の肖像画を収める「
「まあ、毎日まいにち、よくもあれだけご報告なさることがあるものよ」と香菱は半ば感心し、半ば呆れてもいるが、鈴玉は「いけない?」と頬を膨らませるついでに、首を傾げつつ呟く。
「でも不思議なのよ。幽明を
香菱は少し考えてから、労りを込めた視線を王妃に注ぐ。
「それは、敬順さまが抱かれていたもの――王妃、妻そして母としての悩みや苦しみ、あるいは楽しさや喜びなど全てが、今やあなた様ご自身のものになったからだと、僭越ながら私はそう拝察します」
鈴玉はしみじみといった感で、深く頷く。
「そうね。本当に、その通り……」
さてそぞろ歩きも、お馴染みの
「……あら、かつての鈴玉がいるわ」
彼女の独り言に、鈴玉も同じ方向を見る。藤棚の下に、誰かが座り込んでいた。王妃と女官が池を回り込むと、端の草地にごく若い女官が膝を抱えて座り、池に向かって小石を投げているところだった。女官の頭上には、濃淡さまざまな紫色の房が下がり、葉を透かした日差しとあわせ、一幅の絵のような眺めである。
その女官は人影に気が付き、鈴玉を見上げた。ふっくらとした唇が「誰?」と無音の声を発する。見れば、彼女の帯の上には、見習いであることを示す浅黄色の紐が回されていた。
「そなた、無礼であろう。しかもこんなところで何をしている?こちらの御方は…」
険しい表情でずいっと前に進んだ香菱を、鈴玉は「しっ」と腕を伸ばして遮る。そして、女官見習いの前に腰をかがめ、同じ目線になった。
「鯉は、石を食べることはできないのよ」
「……」
「それにあなたが踏んでいる花、名前を知ってる?」
問いかけられた見習いは、黙って足元の白い、ひしゃげた小さな花を見下ろした。
「……」
「名も知れぬ花、路傍の花でも、花は花よ。草に埋もれても、嵐に吹かれても咲き続ける、か弱そうに見えるけれども
女官はうつむいたまま、「ごめんなさい」とぼそぼそ呟く。鈴玉はふっと笑んだ。
「後宮での仕事が辛い?それともご家族と別れて悲しいの?」
そして、香菱のほうに手を伸ばして餌箱を受け取り、相手に渡した。
「……気持ちはわかるけど、今日はもう戻ったほうがいいわ。その代わり、次にここに来るときはこれを持っていらっしゃい。まず、鯉たちと友達になるの。そうすればきっと、彼等があなたの後宮暮らしを助けてくれるはず」
女官は、精巧な象嵌細工が施された箱をじっと見つめた。次に鈴玉に対して頭を下げ、くるりと踵を返して小走りに遠ざかっていく。鈴玉はかがみ込んだまま、踏まれた花を整えてやり、息をついて立ち上がった。
「お辞儀がぎこちないところまで、かつてのどなたかとそっくり」
「そう?私、ああまで下手じゃなかったと思うけど?」
不機嫌になった王妃を前に、香菱は「はいはい」と言いたげに笑いをかみ殺す。
「でも、――あの子も将来、お妃さまのようになるかもしれませんね。そうそう、近々女官の『振り分け』が行われますが、王妃さまはまさかあの子をお取り上げになるおつもりでは?ご自分のときのように」
「取り上げるか、それともやめておくか。ふふふ、どうしましょうか?副女官長」
王妃と香菱はともに目を細め、駆けていく若い女官見習いを見送った。それとは入れ違いに、世子と二人の幼子が戯れつつこちらにやってくる。
「あら、後宮の探検ごっこはもう終わりにしたの?」
「母上、
世子が言うそばから、遠くに紫の袍を着た人物、そしてそれを囲んだ一団が見える。鈴玉と香菱はゆったりとした笑みを交わし、急ぎ足に池を離れていく。人々の集団は一つになり、笑いさざめく声が春の庭を満たし、いつまでも絶えることはない。
やがて、一陣のつむじ風がふっと吹き上がり、重たげな藤の房を揺らして去った。
【 了 】
*****
最後まで読んで下さって、本当にありがとうございました。厚く御礼を申し上げます。
なお、本作の主上と劉星衛の若き日を書いた外伝「流れる星は暁に抱かれ」も掲載しております。もしよろしければ合わせてご一読ください。
https://kakuyomu.jp/works/1177354054886451510
また、「罫線のないノオト」第12話に本作執筆後の雑感をまとめました。興味をお持ちの方は、こちらもご覧ください。↓
https://kakuyomu.jp/works/1177354054883089882/episodes/1177354054885021468
涼国賢妃伝 ~路傍の花でも、花は花~ 結城かおる @blueonion
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