幕間
それでも、この小さな手が
まだ明けやらぬ空の下、火を起こしたばかりの焚き火に薪をくべていると、天幕の入り口から黒髪の少女がひょっこりと顔を
「シルルース、外に出るなよ。思いのほか雪が積もっているんだ。もうしばらく天幕の中で……」
レイスヴァーンが最後まで言い終わらぬうちに、「巫女見習い」の少女は、両目が見えないことなど微塵も感じさせぬほどの身軽さで、ぱたぱたと純白の世界に駆け出して行ってしまった。
「おい、待てっ……シルルース!」
慌てて薪を放り出し、後を追い掛けようとした次の瞬間。
ぽすり、と小さな音と共に、少女の姿が雪の中に消えた。
天幕の周りの雪を掻き出していた年若い傭兵が、こっちだ、と手を振ってレイスヴァーンに目配せした。戦場で「血染め」の異名を取る赤毛の傭兵が、小さな女の子に振り回されている姿が余りにも滑稽に映ったらしく、必死に笑いを
レイスヴァーンは苦笑いを浮かべて若い傭兵に
少女の上に倒れまいと、
「……ヴァンレイ?」
いつもの低く心地良い声が故郷の言葉で毒づくのを聞きながら、シルルースは自分だけが知っている男のもう一つの名前を、祈りの言葉を口にするように吐息と共に
ヴァンレイ。
この世界の西の果てにある「
この人にぴったりの名前なのに、どうして普段は別の名前を名乗っているのかしら……シルルースは不思議に思いながらも、もう一度、今度は出来るだけ大きな声を絞り出した。
「ヴァンレイ。雪の精霊達が『近頃の火竜は、炎の代わりに毒の言葉を吐くらしい』って」
星屑の
ぼんやりと思いに
「お前を踏みつけでもしたら、ウィアに殺されかねんからな」
身体中についた雪を払い落とし、雪の上で嬉しそうに転がっている少女に視線を向けると、レイスヴァーンは少し面倒臭そうに顔をしかめた。
「シルルース、いつまでも寝転がっていないで、早く天幕の中に戻るんだ」
白い雪に埋もれたまま、少女は、ふるふると首を振って、
「ふかふか。冷たいのに、毛布みたいに柔らかいの」
夢見るように言葉を紡ぐ少女の姿に、レイスヴァーンの表情が自然と緩む。
「雪、初めてなの」
……ああ、そうか。
少女が南の王国フュスティンデルの生まれだったのを失念していたことに苛立ちを覚えながら、レイスヴァーンはシルルースが無邪気にはしゃぐ姿に目を細めた。
色鮮やかに香り立つ花の産地として『祝福されし花』の名で呼ばれる、冬のない暖かな国で生まれ育った少女が、生まれて初めての冬と雪に魅了されるのも無理はない。
「オトゥール山の
レイスヴァーンは革の手袋を外すと、雪に塗れた少女の顔をそっと
顔に張り付いた雪の冷たさが、大きな手の温もりで溶かされていく。それがあまりにも心地良くて、シルルースはうっとりと目を閉じた。
「昨日まではこんなに積もっていなかったでしょう? ウィアが、暖かすぎて気味が悪いって言っていたもの」
「王都軍の術師が雪解けの術を施していたからな。夜番の術師が手を抜いたか、『術師見習い』が術を掛け損じたか……まあ、そんなところだろう。おかげで、朝から雪掻きに追われる羽目になった」
低く穏やかな声をいつまでも聞いていたいと思いながら、シルルースは雪の上に両手を広げた。
「ひんやりして、ふかふか。気持ちいい」
握りしめた雪の冷たさで心の火照りを溶かしながら、この世界に生まれて初めて、少女は心の底から微笑んだ。
雪と
「シルルース、いい加減にして立ち上がらないと、凍えて動けなくなるぞ。ほら、起こしてやるから手を伸ばしてくれ」
まるで遊び疲れた子猫のように、むうう、と不機嫌そうな
次の瞬間、くしゅん、と小さな肩が
「……ヴァンレイ、冷たい」
頰と鼻先を真っ赤に染めて眉根をしかめたまま、小刻みに震える雪まみれの少女が妙に愛らしく見えて、レイスヴァーンは思わず低い笑い声を漏らした。
「当たり前だ。雪除けの外衣も付けずに、雪の上を転がったりするからだ」
両手でぽんぽんと雪を払い落としてやると、寒さのあまり動けなくなってしまった少女を自分の外衣の中に引き寄せて、両腕で優しく抱え上げた。
故郷の砦を離れて以来、互いの肌の温もりと息遣いを感じる距離にどれだけ魅惑的な女が居ようとも、レイスヴァーンの心が揺さぶられることなど、ただの一度もなかった。
シルルースは、ああいった女達とはまるで違う。
そっと触れるだけで、凍てついた心がゆっくりと溶け出して、優しい温もりに包まれるような不思議な穏やかさに心が満たされる。
娘ほども年の離れた少女との触れ合いから得られる感覚なのだから、娘を見守る父親が感じるのと同じものなのだろうと、気にも留めずにいた。小さな手が己を求めて差し伸ばされる度に、あまりにも
……心の内を
『愛しい者には愛しいと、素直に告げるべき時があるのだよ』
それは、胸の奥底に沈み込み、
……あり得ない。
荒ぶる感情の波に呑み込まれまいと、唇をぎりりと噛み締めて、己の心に言い聞かせた。
女の肌の温もりを恋しいなどと思う劣情さえ持ち合わせぬというのに、幼さを残す少女に欲情の念を抱くなど、あるはずがない。それでも……この小さな手が己を求めて差し伸べられる度に、不思議な高揚感に心揺さぶられ、掴んだその手を離したくないと願ってしまう。
たとえば、それが、フェイドラの言う「愛しさ」であるとして。
ありのままの想いを
それは、天が定めた
そんなことをぼんやりと考えながら、少女を抱きしめる腕に力を込める。
小さな悲鳴で、はっと我に返った。
腕の中の少女が、息苦しさにもがいている。レイスヴァーンは申し訳なさそうに眉をしかめて大きく息を吐き出すと、己の首に両腕を回してくれるよう、出来る限りの優しい声でシルルースに
「そうしてくれた方が、抱えやすいんだ」
少女が、おずおずと腕を動かすのを感じた。
ひやりと冷たい指先が首筋に触れた瞬間、言い知れぬ感覚に身体を貫かれて、レイスヴァーンは思わず身を震わせた。咄嗟に、不思議な薄紫色の瞳に見つめられて心の動揺を悟られまいと、少女の頭を片方の手で押さえ込むようにして
「……寒くないか?」
「大丈夫。ヴァンレイがそばに居てくれると、とても温かいの」
喉元に顔を埋めた少女が、くぐもった声を出す。柔らかな唇から漏れ出る吐息に素肌を撫でられて、レイスヴァーンの胸がざわりと波立った。
聖地「
成り行きとは言え、その少女を身を
本来ならばこんな風に戯れ合うことなど決して許されるはずもない二人が、互いの温もりと息遣いを感じる距離に穏やかな安らぎを見出してしまったのは、きっと、気まぐれな妖魔の王たる「聖なる
ならば、「捧げもの」の隊列が大神殿に辿り着けば、この呪縛からも解き放たれ、全ては
首の後ろに回された小さな手の感触を
……それでも、この小さな手が俺を求めて差し伸べられる限り。
俺も、この愛しい温もりを求めて、ただ、ひたすらに守り続けよう。
〜それでも、この小さな手が〜了
静寂(しじま)の闇に【休載】 由海(ゆうみ) @ahirun
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