執着

 少女が眠る傍らで、赤毛の傭兵が大きな身体を縮こまらせている。片膝に肘をついて顔をうずめ、もう片方の手を添えた剣を肩に立て掛けたまま眠っているらしい。


 フェイドラは目を細めて苦笑いすると、男の肩にそっと手を置いた。

「レイスヴァーン、眠るなら横になれ。その体勢では休まらんだろう」

 びくりと身体を揺らした若者が、一瞬のうちにやいばのような気配をまとう。咄嗟に、女戦士は後退あとずさった。


「ああ……すまない。あなただとは……」

 レイスヴァーンは引き抜きかけた剣を元に戻すと、申し訳なさそうに口元を歪めて顔に掛かった髪を掻き上げた。

 フェイドラは「案ずるな」と素っ気なく告げて、辺りをぐるりと見回した。

 「捧げもの」の隊列が野営地に到着した直後は、治癒院の天幕は体調を崩した子供達であふれ返っていたという。一夜明けて、ほとんどの子供が朝餉あさげの香りに誘われて外に駆け出して行くほどの元気を取り戻し、夜が更けても天幕に残っているのはシルルースただ一人だった。

「守るべき者の前で居眠りしていたことは他の護衛達には黙っておいてやるから、ちゃんと横になって身体を休めろ。治癒師の言葉は聞いた方が身のためだぞ」


 高圧的な口調ではあるものの、フェイドラが真剣に自分の身を案じてくれているのだと、レイスヴァーンにも分かっていた。

「一つ、聞いても良いだろうか?」 

 シルルースの様子を見ようと女戦士が腰を下ろしたのを見計らって、レイスヴァーンは静かに口を開いた。

「シルルースのことならば、心配いらんと何度も言ったはずだがな」

「いや、そうではなくて……」

 少し口ごもりながらも、辺りに人の気配がない今だからこそ、と心を決める。

「あなたには、精霊の姿が見えていないのか?」

 ぴくり、と肩を震わせて、女戦士は鋭い視線を傭兵に向けた。

「……なんのことだ?」

「癒しの泉で、精霊の姿に驚いた俺に、『お前には見えるのか』とあなたは聞いた。精霊が語り掛ける間も、あなたは角の王だけを見つめていた。精霊の姿が見えていなかったとすれば、辻褄つじつまが合う」



 しばしの沈黙の後、フェイドラは曖昧な笑みを浮かべて傭兵から視線を逸らした。

「私は……生まれて間もなく、母に捨てられた」

 ふうっと吐息を漏らした女戦士の寂し気な横顔に、レイスヴァーンは急に後ろめたさを覚えた。 

「あなたは王の子だろう? 捨てられたとは、一体……」

「先王の正妃だった母は、私の異質さに狼狽うろたえるばかりで、私に触れることさえこばんだそうだ」

 一瞬、凍てつくような嘲笑がフェイドラの唇をかすめた。が、次の瞬間、氷を解かすように、ゆっくりと穏やかな表情を取り戻すと、何かを思い出したように頬をほころばせた。

「私にとっての幸運は、父の子として生まれたことだ。彼は決して私を見限らず、王専属の治癒師に私を預け、養母として育てさせた。父の乳兄妹であり最愛の女性ひとでもあった彼女も『落とし子』だったのでな……治癒師として生きるすべは、養母が教えてくれた」

 厳しい師ではあったが愛情にあふれただったよ、とフェイドラは懐かしそうに付け加えた。


 レイスヴァーンが釈然としない顔で、わずかに首を傾げる。

「あなたの立ち振る舞いは、どう見ても戦士のそれだ。だが、治癒師であり戦士でもある者など……」

「命を救うべき者が、命を奪う者でもある……大いなる矛盾だな。言ったろう? 私はこの国ではなんだよ」

 くしゃりと目尻にしわを寄せて、フェイドラが誇らしげに笑う。

「ティシュトリアの習いでな。王族ならば、男女の区別なく戦士として育てられる。剣を握るその手で治癒の術を施す王の長子は、成人の儀を迎え、王都軍の治癒師として従軍を許された。だが、戦士として戦場に立つことは父の命で禁じられていた……養母に懇願されたそうだ。『落とし子』である娘を決して血のけがれに染めてくれるな、と」

 ふと、震える囁き声を耳にしたような気がして、レイスヴァーンは周囲に視線を動かした。その様子を、フェイドラは面白そうに眺めている。

「とは言え、私にもティシュトリア王族としての誇りがあってな。ある日、渋る父をなんとか説き伏せて、戦士として初めて戦場に立った。そして……」

 女戦士は不意に言葉を切ると、静かに虚空を見上げた。

「……人をあやめた瞬間、私の中で、世界が音を立てて崩れ落ちた」


 突然、耳をつんざくほどの悲鳴が天幕のあちらこちらから湧き上がった。

 レイスヴァーンは肩をすくめて顔をゆがめながらも、咄嗟にシルルースの上に覆いかぶさり、周囲に鋭い視線を巡らせた。静かな寝息を立てて眠る少女に視線を戻すと、ほおっと安堵の吐息を漏らした。

「案ずるな、レイスヴァーン。今、お前が耳にしたのは、あの日、私が聞いたと同じ精霊達の声だ。彼らは記憶を呼び覚ますことにけていてな……あの悲鳴を最後に、精霊達は私の前から姿を消した」

 少し悲しげに、それでいて何かを懐かしむような表情を浮かべながら、フェイドラはなおも虚空を見つめたまま、そっと右手を宙に差し伸ばした。

「血に染まった手では彼らに触れることは出来ぬのだと、なぜ気付かなかったのだろうな……精霊は何より『けがれ』を嫌う。今の私には、彼らの姿を見ることさえ叶わない。こうなることが分かっていたからこそ、養母は私を止めようとしたんだ」

 掲げたてのひらをぎゅうっと握りしめ、胸元に引き寄せる。

「あれ以来、父は私を戦場から完全に遠ざけた。戦士の国に生まれながらいくさに赴くこともままならず、『東の武装大国』の次代の王という重荷を幼い弟に背負わせてしまった……この国で生を受けた意義も見いだせず、大切なものを失ったまま、流されるがままに生き続けるのかと思うと、あまりの不甲斐なさに、何もかも投げ出して逃げ出したくなったものだ」


 ふふっと力なく笑い掛ける女戦士の言葉が、レイスヴァーンの胸を打つ。


『この国で生を受けた意味も見いだせず』

『大切なものを失ったまま』

『何もかも投げ出して』

 

 かつての自分も、同じような想いを抱えて生まれ故郷を後にした。

 あれから、何かが変わったのだろうか。それとも……



「ある時、ふと気付いたんだ。自分自身からは逃れられないのだ、とな。『落とし子』であることから目を背けようとしても、私には彼らの声だけは聞こえ続けていたからな……だから、逃げるのは止めた。逃げ出す力が残っているのなら、その力で出来ることをしてやろうと思ったわけだ」

 悪戯いたずらを思いついた子供のように、フェイドラがにやりと唇を吊り上げる。

「王の娘という権限を利用して、王都の街に王立治癒院を開いたのさ。『この国の民から対価を受け取ることを一切禁ずる』というを掲げてな」


 

 天幕の入り口から、「交代の治癒師が参りました」と告げる衛兵の声が響いた。

 フェイドラは「私が出るまで待たせておけ」と大声で告げて、レイスヴァーンにそっと目くばせする。

「お前のように無口な男は貴重だな。私の話の先を折らず、聞きに徹してくれる。これが我が弟ならば、やれ、姉上は王族の威厳に欠ける、だの、王姉として恥じぬ装いを、だのと、うるさくてかなわん」

 はああ、と大きくため息を吐いて、フェイドラはわざとらしく肩を落としてみせた。


 思い悩みながらも自分の進むべき道を見出し、生きる喜びと自信に満ち溢れた女戦士の姿は、レイスヴァーンの目にまぶしく映る。が、何か大切なことを忘れているような気がした。

「なんだ? まだ腑に落ちぬことがあるとでも言いたげだな」

「ティシュトリアに限らず、『大陸』の王侯貴族から『術師くずれ』とさげすまれる妖獣狩人が、なぜ、あなたと行動を共にしているのかと……」

「ああ、セサルのことか。確かに、あれも私同様、この国では異質な存在だからな」


 どこから話せば良いものか、と少し考え込みながら、フェイドラはゆっくりと記憶を辿って言葉を紡ぎ始めた。

「ティシュトリアでは、王城にも王都の街にも、至る所に血の匂いが漂っている。それ故、精霊達は清浄な空気の流れる場所へ『落とし子』をいざなおうとするんだ。耳元で『ここから逃げろ』『お前までけがれてしまう』と囁きながらな……幼い頃の私が何度も王城を抜け出して『嘆きの森』に逃げ込んだのも、そのせいさ」

 遠い昔の日々を思い出し、フェイドラは視線を宙に向けたまま、ふわりと頬をほころばせた。

「ある日、捕囚として父に献上された妖獣狩人の子を前にして、養母がとんでもないことを思い付いたんだ。『魔の系譜の気配を読むことにけているなら、精霊の気配を追うことなど容易たやすいはず』とな。セサルにすれば良い迷惑だったろう……たまたま、私と同じ年頃だったというだけで、妖獣の代わりに『落とし子』を狩り続ける羽目になったのだからな」

 レイスヴァーンが眉間の皺を一層深くさせる。

「俺には理解し難いが……『落とし子』や『妖獣狩人』の感覚とは、そういうものなのか?」

「さてな。私には『魔の系譜』の気配など全く読めんが、セサルは確かに精霊達の存在を感じることが出来るようだ。まあ、精霊達の方が奴を『愛し子の守り人』として気に入っているからなのだろうが……」

 やはり理解できないと言いたげに、レイスヴァーンは顔をしかめたままシルルースの寝顔に視線を落した。


 小さな炎が次第に輝きを増すかのように、傭兵の表情に柔らかな微笑みが浮かび上がるのを、フェイドラは見逃さなかった。

「レイスヴァーン、お前にとって、この子は何だ?」

 思い掛けぬ問い掛けに、若者の顔が見る間に曇る。

「守るべき……『捧げもの』の子の一人だ」

 フェイドラは不満げに目を細めた。

「なるほど。『護衛として任務に忠実なだけ』と己に言い聞かせているわけか」

 その言葉に、心の奥底で何かがはじけたような感覚を覚えながらも、レイスヴァーンは唇を噛み締めた。 

「精霊達の姿が私の前から消えてしまっても、私には、私を心からいつくしんでくれる者達が居た。だが、この子には、それさえなかったのだろう?」

 可哀想に、とつぶやいて、フェイドラはシルルースの頬を優しく撫で上げた。

  

「『落とし子』とは危うい存在でな……人の世界と精霊の世界をつなぐ架け橋のような役割を課せられて、精霊達と心を通じ合わせながら二つの世界を行き来する。だが、こちらの世界に余程の執着がない限り、あちら側に行った切り戻れなくなってしまうことも少なくない……今回のようにな」

 ごくりと喉を鳴らしたレイスヴァーンが、挑むような視線をフェイドラに向けた。 

「俺は……ただの傭兵だ。あなたや、あの狩人のような力があるわけでもない」

「だから、何だ?」

「人間相手ならば、必ず守ってやると言い切れる。だが、相手が人の子でないとすれば……どうやってシルルースを守ってやれば良いんだ?」

「簡単なことさ」

 傭兵の瞳の奥で揺らめく光が炎のように燃え上がるのを目にして、フェイドラは満足気に、ふわり、と微笑んだ。

「お前がこの子の『執着』になれば良い」



 ……執着?


 女戦士が言わんとしていることを理解しようと、その言葉を頭の中で何度も繰り返すうちに、レイスヴァーンは無意識にアルコヴァルの野営地で炎と対峙したシルルースの姿を思い出していた。


 あの時、狂気に堕ちた炎の精霊達を『巫女の声』で以って押さえ付け、浄化の青い炎へと変化させる不思議な力を秘めた少女の姿に、束の間、魅入られた。


 執着……ああ、そうだ。

 きっと、あの不思議な『声』に、俺の魂は今でも縛り付けられたままなんだ……



「愛しい者には愛しいと、素直に告げるべき時があるのだよ。私も、そうして救われた」

 心の内を読んだようなフェイドラの言葉に、レイスヴァーンはぎょっとした表情を浮かべて声を荒げた。

「愛しいなどと……こいつは、まだ……ほんの子供なんだぞ!」

  



「……ヴァンレイ?」


 掠れた声が、天幕の中に弱々しく響いた。

 

 途端に、レイスヴァーンは跳び上がりそうな勢いで少女にすがり付いた。薄紫色の瞳が何かを探すように宙を彷徨さまよっている。

「シルルース、目が覚めたか?」

 まだ少しぼんやりしながらも、こくり、と小さく頷いて、シルルースは温かい声のする方へと両腕を伸ばした。ごつごつと節くれ立った指が小さな手を優しくからめ捕り、細い腕をするりと伝い降りた大きな手が小さな両肩を優しく包み込む。

 あっという間に逞しい腕の中に引き寄せられて、シルルースは顔を真っ赤に染めながら、温かい胸に頬を摺り寄せた。とくりとくりと脈打つ鼓動を感じて、ほおっと吐息を漏らす。

「ヴァンレイ……ずっと、そばに居てくれたの?」

「約束したからな」

 自分でも驚くほど穏やかな声に、レイスヴァーンは戸惑うような曖昧な笑みを浮かべた。 




 フェイドラは静かに立ち上がると、少女を大切な宝物のように抱きしめる傭兵の邪魔をせぬように、天幕の出入り口に向かって歩き始めた。

「あの……待って……お願い、待って! ヴァンレイ、あの人を止めないと……!」 

 レイスヴァーンは言われるがまま、腕の中でじたばたともがくシルルースを注意深く立ち上がらせた。途端に、目が見えぬことなど嘘のように、真っ直ぐフェイドラの元へと掛け寄って行く。

「泉の精霊から、あなたにって……預かりものがあるの」

 そう言って、両手をおずおずと差し出した。

 少し困惑しながらも、フェイドラは盲目の少女を支えようと、小さな手を掴み取る。

「泉の精霊……リアナン様のことか?」

「そう。夢の中で預かったの。今から渡すから、ちゃんと受け取って」

 

 少女の言葉に首を傾げながらも、フェイドラは小さな両手をぎゅっと握り返す。と、こちらを見上げる薄紫色の瞳の中で、不思議な銀色の光がゆらりと揺れた……


 

『お願いがあるのだけれど』


 フェイドラは、自分が覗き込んでいるのが少女の夢の記憶なのだと漠然と理解しながら、懐かしい声に耳を傾けた。



 泉の精霊が少女の黒髪を撫でながら、そっと囁き掛ける。

『あの子に、私の想いを届けて欲しいの。お願い出来るかしら?』

 少女は少し戸惑いながらも、小さく頷いた。

『あの子に伝えて』

 精霊は金色の瞳を潤ませながら、心を震わせる優しい声で、祈りを込めるように言葉を紡ぎ始めた。

『あの日、あの戦場で、あなたは自らを閉じてしまったけれど……「穢れ」とは、人の子として居られぬ程の過ちを重ねながら、それを悔やむこともなくしかばねのように生き続けることよ。フェイドラ、あなたは違うでしょう? 追い詰められて奪い取ってしまった命を想い、涙を流す優しい子ですもの……ねえ、私の小さなフェイ。ゆっくり、少しずつで良いから、あなたが築いた心の壁を切り崩してごらんなさい。そうすれば……また、会えるわ』

 愛しい我が子を包み込む母のような優しさで、精霊が微笑み掛ける。

『頑固だけれど、頑張り屋さんのあなたのことだもの。きっと、出来るわね?』


 いつまでも、待っているわ……そう囁いて、精霊の姿は銀色の波紋の中に消え入った。



 こぼれ落ちた涙が、ぽろり、ぽろりと頬を伝うごとに、心の中で色褪せていた世界に、ひとつ、またひとつと輝きが灯る。幼い頃に迷い込んだ「銀色の回廊」を照らし出す星屑の瞬きが、再び輝きを取り戻していく……そんな感覚を確かに覚えて、あまりの懐かしさに、フェイドラは嗚咽おえつを堪え切れずに両膝をついた。


 その場に泣き崩れた女戦士の両手をシルルースはそっとほどくと、「精霊の落とし子」の震える肩に両腕を回して、力一杯抱きしめた。





 治癒院の天幕の入り口で警護を任されていた若い傭兵が、垂れ幕をくぐり抜けるティシュトリアの貴婦人に気付いて、深妙な面持ちでぎこちなく敬礼する。フェイドラは泣き腫らした顔を見られまいと、俯いたまま優雅に礼を返した。


 天幕から数歩も離れぬうちに、目の前の空気がゆらりと揺れて、ぽっかりと口を開けた暗闇から溶け出すように、セサルが姿を現した。

 腕組みをして佇む狩人の姿を目にした途端、フェイドラは駆け寄って抱きつくと、気が抜けたように大きな胸にもたれ掛かった。

「……久しぶりに『落とし子』に会ったのだから、ゆっくりと話がしたいだろうと思っていたのだが」

 セサルは周囲にちらりと目をやると、女主人の冷え切った身体を外衣の中に引き寄せた。

「良いんだよ。ようやく、あの子も大切なものを見つけたようだから」

 いつもの温もりに包まれて、フェイは安心しきったように、ほおっと息を吐き出した。

「姫よ、あなたも疲れただろう。少し休んだ方が……」

「二人の時は名を呼べと言ったはずだぞ、セサル」

 狩人は天幕の方にちらりと視線を走らせて、眉をひそめた。

「傭兵が聞き耳を立てている」

「構うものか。あの二人を見ていたら、なんだか無性にお前が恋しくなったんだ。少しだけ、甘えさせてくれ」

「……頼むから、居所に入るまで待ってくれないか」

 困り切った声でささやくセサルの首に両腕を回してしがみつくと、フェイドラは男の温かな首筋に頬を押し付けて、満足そうな微笑みを浮かべた。

 セサルは仕方ないと言いたげに口元を歪めると、しなやかな身体を横抱きに抱え上げた。ゆっくりと野営地を横切り、二人の居所でもある王都の治癒院へと歩みを進めて行く。

 

「なあ、セサル。そろそろ子が欲しくはないか?」

「フェイ! 声が大きい!」

 狩人の焦りなどお構いなしに、フェイドラは夢見るように囁き掛ける。

「女の子が良いなあ。お前に似て、美しい黒髪の」

「勘弁してくれ……あなた一人でも振り回されているんだ。その上、もう一人、跳ねっ返りが増えたら、俺の身が持たない」

「いや、女の子でお前に似たら、無愛想な子になりそうで心配だな……セサル、お前はどちらがい? やはり、男の子か? お前の跡を継ぐべく立派な狩人に育て上げる楽しみがあるならば、それも悪くないな」

 呆れ返ったように、セサルが大きな吐息を漏らす。

「フェイ、少し黙ってくれないか」

「分かったよ。お前が気が進まぬのなら……」

 フェイドラが少しねたように見上げるその先で、愛する男が耳まで真っ赤に染めたまま、おもむろにつぶやいた。

「……あなたによく似た子なら、俺はどちらでも」

  

 ひゃっ、と嬉しそうな悲鳴を上げて、フェイドラが狩人の胸に顔を埋めた。そのまま、もごもごと唇を動かす。

「セサル、お前が共に居てくれるから、私は……どんなことがあろうと心を強く保っていられるんだ」

「それ以上、強くなられても困る。あなたを守る必要がないと分かれば、俺が弟御に首をねられる」

「案ずるな。ちゃんと守られ続けてやるよ。それに……」

 愛している、と声を出さずに唇を動かして、フェイドラは満足げに微笑んだ。

「私がお前を手放すわけなかろう? お前は私に与えらえた捕囚なのだぞ。お前の全ては私のものだ。覚えておけ、セサル」

「……もういい。黙ってくれ、フェイ」

 男の熱い吐息が、口元にそっと触れる。


 優しく唇を重ねると、フェイドラは愛しい男に全てをゆだねて瞳を閉じた。



***



 「箱」を逃げ出した「巫女見習い」の小娘が、アルコヴァルの野営地で神聖な弔いの炎を挙句、死んだように眠り続け、未だに目を覚まさない……アシャムは心の内で「ざまあ見やがれ」とほくそ笑んだ。


 ギイの連れだという無愛想な若者に大勢の前で叩きのめされた上、護るべき「捧げもの」の少女を野獣に喰い殺されるという失態に、自分の命運も尽きたと思うと、悔しさと怒りで心が休まるいとまなど無かった。

 が、今、あの若者も「護るべき者を守れなかった」罪の意識にさいなまされているのだと思うと、愉快でしょうがない。大声で笑い出したくなるのを必死に堪えながら、毛布にくるまったまま天幕の天井を眺めていた。

 ギイには悪いが、付き合いの長い俺より、あんな生意気な若造の肩を持ったりするから、しっぺ返しを食らうんだ……そう思いながら。


 ふと、皆が寝静まったはずの野営地に、女のすすり泣く声が響いたような気がして、アシャムは身を起こすと耳を澄ませた。

 天幕の外からだ。大方、「捧げもの」の子供が故郷恋しさに眠れず寝床を抜け出して、夜闇の中で泣いているのだろう……そう思いながら、知らぬふりをすることも出来ず、寝床を抜け出した。



 天幕から少し離れた暗がりで、小さな人影がふらり、ふらりと彷徨っている。

 よく見れば、野営地で殺された「巫女見習い」の娘を看病していた「捧げもの」の少女だ。

「おい、こんな夜更けに、たった一人で勝手に出歩くんじゃない。あの巫女見習いのように野の獣に喰い殺されたくなけりゃあ、早く自分の天幕に戻るんだ!」

 頬を伝う涙を細く白い指で拭いながら、少女はぷっくりと膨らんだつぼみのような唇を震わせながら、必死に涙を堪えようとあえいでいる。

「ごめんなさい、どうしても眠れなくて……あの悲鳴と、あの血肉の匂いが忘れられなくて……」


 そりゃそうだろう。数多あまたの戦場を駆け抜けた傭兵達でさえ、娘の亡骸から目を背けたほどだ……そう思うと、アシャムは少女が憐れに思えて、このまま見過すことが出来なくなった。

「こんな暗闇で一人っきりになるから、余計に恐ろしくなるんだよ。そら、お前さんの天幕まで付き添ってやるから、案内しな」

 そう言って、震える小さな背中にそっと手を添えると、少女の泣き顔を覗き込んだ。

 

 途端に、アシャムの背中を冷たいものが走り抜けた。


 金色の瞳に浮かぶのは、縦長の獣の瞳孔……


「ああ、なんて優しい御方なの……ならば、いっそ、このまま……」

 娘の口元で、獣のような鋭い牙が光るのを目にしたような気がした。


『我の渇きを満たしておくれ』

  

 

 ひいっと小さく悲鳴を上げたアシャムの喉を、はやすやすと喰いちぎった。

 血飛沫を上げて崩れ落ちる男の巨体を細くしなやかな腕の先に光る鉤爪でがっしと掴んで、ずるり、ずるり、と地面を引き摺りながら大きな翼をばさりと広げると、ぽっかりと口を開けた暗闇目掛けて飛び立った。




〜第2章:大陸を行く〜了

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