愛しさと、消えぬ想い

 ふかふかの毛布が余りにも心地良くて、つい寝過ごしてしまったらしい。


 辺りに漂う芳ばしい香りに、半分夢見心地のまま、ひくひくと鼻を動かしていたウィアが、はあっと大声を上げて飛び起きた。すぐそばでスープを頬張っていた「捧げもの」の子が驚きのあまり器を落してしまったのを横目に、寝癖のついた黄金色の髪を手早く撫でつけ外衣を羽織ると、天幕を飛び出した。



 森の外れで待機していたティシュトリア王都軍の騎兵達に先導されて、「捧げもの」の隊列が王都の西の砦に入ったのは、夜のとばりが下りた頃だった。驚いたことに、砦の正門近くの野営地には既に天幕が張られ、新しい毛布と温かな食事までもが用意されていた。

 砦の中は春のような陽気で、王都軍の兵士曰く「術師の力で雪を溶かし、春の風を呼び寄せた」のだという。



「自然を操るって……何なのよ。の間違いじゃないの? 術師って本当に気味が悪いわね」

 ウィアはぶつぶつと独り言を言いながら、野営地を駆け回る子供達の合間を縫って、治癒院の天幕を目指して早足で歩き続けた。

 入り口に掲げられた垂れ幕に、「治癒師の箱」を模した長方形とティシュトリア王家の紋章を組み合わせた風変わりな意匠が織り込まれた天幕を見つけると、入り口を守る衛兵に向かって最上の作り笑いを浮かべて中に駆け込み、黒髪の少女が居る場所に向かった。


 

 レイスヴァーンがシルルースを連れて野営地に戻ったのが、夜明け前。悶々と眠れぬ夜を過ごしたウィアが、ようやく眠気を催してうつらうつらとし始めた頃だった。

 赤毛の傭兵の腕の中で静かに眠る少女が、安心しきったような微笑みを浮かべているのを目にして、ウィアは人目も構わず大声を上げて泣き出してしまった。



「だって、仕方ないじゃない。ほっとしたら、急に気が抜けちゃったんだもの……」

 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになったウィアの顔を節くれだった指で拭い、泣き止むまで優しく抱きしめてくれたのは、他でもないギイだった。

 そのことを思い出して、ウィアは身体中が燃えるような恥ずかしさを覚えた。

「……女には誰にでも優しいのよね、きっと」

 そう思うと何故だか無性に腹が立って、レイスヴァーンが腰掛けている毛布の上に断りもなくどっかりと座り込むと、少し不機嫌そうに唇を尖らせた。

 顔を強張らせてにらみを利かせる赤毛の傭兵には目もくれず、ウィアは毛布に包まれて眠る少女の顔をそっとのぞき込んだ。

「あれから一度も起きないの?」

 心配そうに友を見つめる娘の姿に、レイスヴァーンは表情を和らげて、静かに首を横に振った。

「お前が来る少し前にフェイドラがてくれたんだが……もう少し休養が必要なんだろうと言っていた」

「まだ寝足りないって言うの? どれだけ眠ったら気が済むのよ」

 言葉とは裏腹に、ウィアは少女のくしゃくしゃな黒髪を指で優しくくしけずり、上衣の乱れを整えると、満足そうにうなずいた。


「ところで、レイス。あんた、ギイを見かけなかった?」

 傭兵が「いいや」とだけ答えると、ウィアは不服そうに眉を寄せてぷうっと頰を膨らませた

「あいつったら、王都の街を案内してくれるって約束したくせに、どこにも居ないのよ」

 いつの間にそんな約束を取り付けたのかと呆れながらも、レイスヴァーンは年上の友にも何か思うところがあるのだろうと思い直した。

「故郷の砦に行ったんだろう。ティシュトリアに戻る度、娘達に会いに出かけるからな」

「娘達って……ギイの?」

 唖然とするウィアに気づいて、レイスヴァーンは小さく舌打ちをした。

「……てっきり、ギイから聞いているものとばかり思っていたんだが」

「知らないわよ! ティシュトリアの生まれだってことは聞いたけど、娘がいるなんて……そんなこと一言も……!」

 感情の高まりを押さえ切れず、声を荒げてしまったことに気づいて、ウィアは耳の付け根まで真っ赤にして慌てふためきながら、口元を両手で覆った。


 いつもの勝気で自信に満ちた様子からは想像できない娘の姿に、レイスヴァーンはどうしたものかと想いを巡らせた。

「気になるのか?」

「……別に、気になってなんかいないわよ! でも、子供がいるってことは……奥さんもいるってことよね……へえええっ、物好きな女も居たものねえ。あんな奴と結ばれて子供まで作っちゃうなんて」

 引き攣った笑いを浮かべたまま、気が抜けたように肩を落としてうつむいてしまった娘を前に、レイスヴァーンが深いため息を漏らす。

「ギイが向かったのは、ここからそう遠くない砦だ。連れて行ってやってもいいが」

「べっ、別に良いわよ! 大体、家族水入らずのところに私が行ってどうするってのよ……それに、あんたはシルルースのそばを離れるわけには行かないでしょ?」

 レイスヴァーンは少し考え込むように視線を落した。

「いや……この砦に居る間は心配ないだろう。念のため、フェイドラと王都軍の奴らに声を掛けてから馬を連れて来るから、少しだけここで待っていろ」

「ええっ? ちょっ……ちょっと、レイス、待ってよ! 連れて行ってなんて、私、一言も……!」


 さっさと天幕を出て行くレイスヴァーンの後ろ姿を呆然と見つめたまま、ウィアは飛び跳ねる鼓動の痛みに必死に耐えていた。

 シルルースに心の内を聞いて欲しくて、静かな寝息を立てて眠り続ける少女の手を両手で握り締め、耳元に唇を寄せた。

「シルルース、ギイったらね、奥さんがいたんだって。びっくりしちゃうわよねえ? あんなに下品で強引で冴えない容姿の男の妻になるなんて、趣味が悪いったら……ギイもギイよ! 娘まで居たなんて、そんなこと、私には一言も……」

 突然、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。思わずシルルースの手を振り解き、頬を伝う涙を必死で拭う。

「嫌だ、なんでよ……なんで、私が……泣かなきゃいけないのよ! あんな奴のことなんか、何とも思っちゃいないんだからあ……!」


 込み上げる嗚咽おえつを押さえ切れず、ウィアはシルルースの胸元に顔を埋めた。


 

***



「ここって……?」

 崩れかけた外壁に囲まれた空間に一歩足を踏み入れた途端、ウィアは驚きのあまり立ち止まった。


 元は小さな砦だったという。

 よく見れば、鬱蒼とした木立が影を落とす地面は瓦礫で覆い尽くされ、焼け焦げた残骸らしきものが朽ち果てるのを待つかのように至る所に転がっている。


 馬の手綱を掴んだまま、片膝をついて地面に残されているひづめの跡を確かめていたレイスヴァーンが、静かに立ち上がった。

「スラウェリン村だ。正確には、かつて、村があった場所なんだが……ギイはこの先の墓所に居るはずだ」

「……墓所?」

「見たとおり、ここは廃墟だ。誰も住んじゃいない。あとは、ギイに直接聞いてくれ」

 辺りに怪しい者が潜んではいないかと気配を探っていたレイスヴァーンが、突然、空に向けて指笛を鳴らした。小鳥のさえずりのような音が辺りに響き渡ると、しばらくして、木立の影からギイが姿を現した。


「よお、レイス。久しぶりにお前さんの指笛を聞いたが……何かあったのか?」

 ぽりぽりと左頬の傷を掻きながら呑気に歩いていた男が、レイスヴァーンの背後に佇む娘の姿に気付いて、驚いたように立ち止まった。

「……おいおい、何の冗談だ? レイスよ、なんだってそいつを連れて来たんだ?」

 薄笑いを浮かべてはいるが、その声が持つ冷ややかさは隠しようもない。ウィアは思わず身を震わせて、じりじりと後退あとずさった。が、レイスヴァーンに片腕を掴まれて、小さく毒突きながら、力強い手をなんとか振り払おうと力を振り絞る。

「逃げるな、ウィア。ギイに聞きたいことがあるんだろう?」


 低く穏やかな声に背中をそっと押されたような気がして、ウィアは観念して両手を胸の前で握り締めると、琥珀色の瞳を上目がちに男に向けた。

「ギイ、あんたの家族のこと、教えてよ」


 

 


 シルルースが心配だからと、レイスヴァーンがその場を立ち去って間もなく。

 ギイは気まずそうに俯いたままのウィアの手を取って、何も言わずに、生い茂る木立を掻き分けながら、奥へ、奥へと進んでいた。

 しばらくして、木々の合間に、ぽつり、ぽつりと石碑のようなものが並び始めた。

「ウィアよ、ちゃんと足元を見てくれよ。この辺りは瓦礫だらけなんだ」

 不安げに辺りに目を向けて恐る恐る歩く娘の姿が妙に危なっかしくて、ギイは小さな手を引っ張りながら心配そうに声を掛けた。

「ねえ、これって……全部、お墓よね?」 

 娘の手が小刻みに震えている。

 まいったな、と心の中で思いながら、ギイはウィアの手をしっかりと握りしめた。



 つたが絡まった小さな墓標が三つ、寄り添うように並んでいる前で、ギイは足を止めた。 

「俺の家があった場所だ。娘が二人いたんだ。生きていれば、ちょうどお前さんくらいだな」

 ギイはウィアの手をそっと離すと、墓標の前にひざまずいて、絡まった蔦を丁寧に取り除き始めた。

「ここに戻れば、また女房や娘達に会えるような気がしてな……無駄だと分かっていても、つい足が向いちまう」

「……何があったのよ?」

 愛し気に墓標に触れていた男の手が、ふと動きを止めた。


「俺がティシュトリア王都軍の騎兵だったことは、知っているよな?」

 ウィアが小さく頷いた。

「俺が戦さに駆り出されている間に、スェヴェリスの術師が放った使い魔達がこの村を襲ったんだ。王都から程近い村を襲うことで、ティシュトリア王を牽制けんせいする腹だったんだろうが……王はそんな脅しには屈さず、王都軍も動かさなかった」

「そんな……! 自国の民を見殺しにしたって言うの?」

「いや。王都軍に属していた妖獣狩人達が密かに送り込まれたんだが……時すでに遅しでな」

 遠い日の悔しさが胸に込み上げてくるのを感じて、ギイは少しの間、唇を噛み締めた。

「……全滅さ。村に居た者は全て、使い魔達に喰い殺された。あまりのむごたらしさに、狩人達は即座に浄化の炎で村を焼き払った……女房も、二人の娘も、跡形もなく燃えちまった」



 聞いてはいけないことを無理やり聞き出してしまった後悔の念に駆られて、ウィアは口をつぐんだまま、ギイの背中を見つめ続けた。

 信じられない程の穏やかさで、失ってしまった妻と娘達に想いを馳せるギイの声が、あまりにも切なく心に響く。


「国と民を守るはずの王都軍にいながら、自分の家族さえ守れなかったのが口惜しくてなあ……それ以来、剣を振るうことが出来なくなって、王都軍を離れたんだ。で、死ぬことも出来ずに大陸を彷徨さまよい歩いた挙句、生き長らえるために傭兵として戦場に舞い戻っちまったが……」

 自らを嘲笑うかのように、口元を歪めてふっと声を漏らすと、ギイはゆっくりと振り返った。

「悲しいかな、そういう生き方しか俺には出来んのさ……って、おい、ウィア!」


 声を押し殺したまま、ぽろぽろと涙を流す娘の姿に、ギイは何事かと駆け寄った。

「おい、どうしたんだ? どこか痛むのか?」

「違うの……ギイ、あんたは……ちゃんと……」

 両手で顔を覆ったまま、あえぐような息遣いを繰り返しながら、ウィアは必死に言葉を絞り出した。

「貧しさに負けずに……自分の娘を売ったりせずに……二人とも……あんたはちゃんと、二人とも守り通したのよ!」


 心の底から叫ぶような娘の声に、ギイは思わず目を見開いた。



 ……ああ、そうだったのか。

 だから、俺はこの娘を守ってやりたいと思うのか。


 二人の娘達が味合わずにすんだ「女としての苦しみ」を、命が続く限り背負わなければならないこの子の笑顔が、あまりにも切なくて……



 ギイは震えるウィアをそっと腕の中に引き寄せると、とめどなく流れる涙が枯れるまで、しっかりと抱き締めていた。



***

 


「お前さん、好いた男はいなかったのか? 一生添い遂げたいと思うような……」

 野営地に向かって馬を進めていたギイが、前に腰掛けているウィアを見下ろしながら、ぽそりとつぶやいた。

「誰かを好きになる前に、好きでもない奴らに力尽くで夜の相手をさせられたのよ……殺してやりたいほど憎んでいる男なら、いくらでも居るわよ」

 いつもの娘らしい勝気な言葉を耳にして、ギイは「お前さんらしいな」と声を立てて笑いだした。


「ギイ、私ね……」


 ――好きな人が出来たみたい。 


 そう言い掛けて、ウィアは言葉を呑み込んだ。


「ん? 何か言ったか?」

「……別に。ねえ、王都の街に連れて行ってくれるって約束したわよね?」

「ふうむ、そうだったっけなあ」

 ぽりぽりと頬の傷を掻きながら、遠くの空を眺める男の脇腹に、ウィアが思い切り肘鉄を食らわせる。

「誤魔化そうとしても駄目なんだからね! 私、くしが欲しいなあ。シルルースがレイスから貰ったのは、どうも子供っぽくて……もっとこう、細工が凝っていて、宝玉なんかもめ込まれている大人っぽいのが良いなあ」

「待て待て! 俺がお前さんに上等な櫛を買ってやる理由が見当たらんぞ」

「何よお、のためって思えば良いじゃないの」

「……俺の娘は、お前さんと違って、もっと可愛げがあったんだよ」

「可愛げのない女で悪かったわね!」


 馬上で取っ組み合いでも始めそうな勢いに、二人が思わず顔を見合わせる。と、堪らず笑いが込み上げて来て、二人で同時に、ぷはっと吹き出した。

「ああ、くそっ……ほら、急ぐぞ。早く行かんと、街の市場が閉まっちまう!」




 ……だって、娘じゃないもの。娘なんかでいたくないもの。


 心の中で何度も同じ言葉を繰り返しながら、ウィアは背中に感じる温かさを独り占めしたい衝動に駆られて、ギイの胸にぎゅうと身体を押し付けた。

 男のゆっくりと穏やかな胸の鼓動が、わずかに高まったような気がした。

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