手を伸ばして

 誰かに呼ばれたような気がして、少女は深い微睡まどろみふちに横たわったまま、薄紫色の瞳をそっと開いた。

 

 聞こえたのは、少し気遣わしげな、それでいて、揺るぎない強さを秘めた、低く穏やかな声。どこか懐かしい気持ちにさせるその声は、何度も同じ言葉を繰り返し、祈るような優しさでささやき掛けてくる。

 それが自分に向けられているのかどうかも分からぬまま、少女はその声に耳を傾けた。



 ――シルルース。目を覚ましてくれ、シルルース……


「誰かを……呼んでいるの?」

 でも、それは、私じゃない。私には、こんなにも優しく語り掛けてくれる人なんて居ないもの……そう思った瞬間、どうしようもないほどの悲しみが心の奥から込み上げて、小さな身体を苦しそうによじらせる。


 ──シルルース、約束を守らせてくれ。何があっても、必ずお前を守ると……

 

「違う、私じゃないの……そんな約束……」

 喉の奥から絞り出された声が、こぼれ落ちた涙と混じり合って嗚咽おえつに変わる。なぜ、こんなにも胸が痛むのか分からぬまま、温かな声をもっと聴きたくて、少女は込み上げる涙を必死にこらえようと歯を食い縛った。



『忘れてしまえ』


 何かが、少女の耳元でささやいた。


『人の子の世の悲しみも、苦しみも、全て忘れて』

 重苦しい響きを持つその『声』を追い払おうとして、少女は愕然となった。

 思うように身体が動かない。それどころか、無数の手のようなものが自分の身体を押さえつけている。


『このまま、ずっと』

『忘却の眠りに抱かれたまま、我らと共に』

『幾百幾千の時を、共に過ごそう』

 ねっとりと湿った気配が身体中を這うようにうごめくのを感じて、少女は声にならない悲鳴を上げた。

 得体の知れないものに触れられる恐怖に息も絶え絶えになりながら、どうにかしてから逃れようと必死で力を込める。だが、もがけばもがくほど身体中にまとわりついて、ぎりぎりと締め上げられてしまう。

「痛い……止めて……誰か、お願い……助けて……」

 優しく語り掛けてくれたあの人なら、きっと助けてくれる……何故、そんな風に思うのかも分からぬまま、少女はあの声がもう一度聞こえないかと耳を凝らした。



『忘れてしまえ』


 少女の願いを嘲笑うかのように、小さな身体にまとわりついて離れぬは、気怠けだるく甘い声で囁き続けた。

『幾百幾千の時を、共に過ごそう』

静寂しじまの闇に魂をゆだねて』

『お前の愛らしい身体が、ちりとなって朽ち果てるまで』

『愛し子よ、終古しゅうこの果てまで、お前は我らのもの』


 あらがいようのない『声』と身体の痛みに耐え切れず、少女は弱々しい吐息を漏らすと、意識を手離した。




  

 遠くの暗闇で、鮮やかな緑青ろくしょう色の光が、輝く水面のように揺らめいた。

 その光は、まばゆい波紋をゆるやかに描きながら、ゆっくりと辺り一面を照らし出していく。


『愛し子よ、目を開けなさい』


 清らかな流れを思わせる声が、辺りに響き渡った。

 その声に意識を引き戻されて、少女は薄紫色の瞳をそっと開いた。虚空を引き裂くようにしてあふれ出た光の波間を、銀色の星屑を思わせるきらめきをまとった女が、ゆらりゆらりと揺蕩たゆたっている。

 

 ああ、精霊だわ……なんて美しいのかしら。

 

 その美しい生きものに触れたくて、少女は鉛のように重たい身体を何とか動かそうと必死にもがいた。

『「魔」に染まったもの達の声にからめ捕られては駄目よ』

 精霊は音もなく傍らに舞い降りると、ゆるやかに波打つ少女の黒髪にそっと手を置いて、愛でるように優しくくしげずり始めた。

『大丈夫よ……あなたの痛みを癒す泉の水は、けがれをぬぐう浄化の水でもあるの』


 泉の精霊の言葉に、ひいっ、と小さな悲鳴が沸き上がった。

 次の瞬間、少女にまとわりついていたもの達が一斉に身をひるがえした。

 浄化の水を操る精霊を前にして恐怖の叫び声を上げ、あるものは地を這いずり、あるものはいびつはねを羽ばたかせて虚空を必死に掻きながら、なんとかして闇の中に身を隠そうと闇雲に逃げて行く。


 その様が、狩人に追い詰められて逃げ惑う獣の姿を思わせて、泉の精霊は金色の瞳を悲しげに細めた。

『愚かな子達。疲れ切ったもの達のために癒しの夢を紡ぎ上げて安らぎの眠りにいざなうのが、あなた方の喜びだったはずなのに……「青き竜の系譜」の甘やかな言葉に毒されて、愛し子を忘却の眠りに閉じ込めるだなんて』

 困惑の表情を浮かべて恐る恐る身を起こした少女に、もう一度『大丈夫よ』と囁いて、精霊はふわりと虚空に舞い上がると、慈愛に満ちた声で祈りの言葉を紡ぎ始めた。

『……せめて、あなた方が精霊であった頃の記憶だけは拭わずにおいてあげましょう。このまま浄化の流れに身を委ね、地の底にお戻りなさい。混沌の闇に抱かれ、再び世界を形作るものとして生まれ出るのを夢見ながら、幾百幾千の時を眠り続けなさい』


 刹那、泉の精霊がまとっていた銀色の煌めきが流れる水の如くゆらりと形を変え、怒りに首をもたげる水竜となって、逃げ惑うもの達に襲い掛かった……





 禁忌に触れてけがれを帯びた精霊達が、悲痛な叫びを上げながら次々に水竜に呑み込まれ、姿を消していく。

 泉の精霊はその全てを見届けると、所在なげに座り込んでいる少女の目の前にふわりと降り立った。


『愛し子よ、私の声は聞こえるわね?』

 おずおずとうなずく姿に、精霊が静かに微笑み返す。

『銀の回廊を渡る途中で、妙なもやが掛かった場所を見つけたの。「魔」の気配が漂っていたからのぞいてみたのだけれど……こんなところに囚われていたなんて』

「銀の……回廊?」

 何のことだかさっぱり分からない、と言いたげに、少女が首を傾げた。精霊は少女の両頬に手を添えて、薄紫色の瞳を覗き込んだ。

『人の子が「大陸」と呼ぶ世界から、精霊の世界へとつながる架け橋のようなものよ。あなたは何度も渡っているはずなのだけれど……覚えていないかしら?』

「私……すごく疲れて……ただ、眠りたくて……」

『そうね。炎の精霊をいさめるために力を使い果たしてしまったのよね』


 消え入りそうな声で「ごめんなさい」とつぶやく少女の頬を包み込んだまま、精霊は出来る限りの優しさを込めて言葉を繋いだ。

『あなたが眠ったまま目覚ないものだから、火竜の子がとても心配しているの』

「……火竜の子?」

『あなたを抱きしめて、ずっと守っている人よ。その人があなたを呼ぶ声が聞こえたかしら?』


 誰かに呼ばれたような気はするけれど、それが自分に向けられていたのかどうか確信が持てず、少女は眉をしかめて首を横に振った。

「……何も、聞こえなかったわ」

 身体の自由は取り戻したものの、頭の中は霧がかかったようにぼんやりとしたままだ。何か大切なことを忘れてしまったのだと感じながらも、それが何だったのかさえ分からない自分がもどかしくて、少女は込み上げる涙を必死にこらえながら、膝の上で両のこぶしを強く握りしめ、苦し気に唇を歪めて声を絞り出した。

「分からない……何も……思い出せないの」


 精霊は少女の頬に置いていた手をするりと首の後ろに回し、震える小さな身体を胸元に引き寄せて優しく包み込むと、泣き止まぬ子をあやすようにゆっくりと揺らし始めた。

『あなたのことを大切に思っている人達がいるの。何か思い出さないかしら?』

「そんな人……誰も居ないわ。誰も、こんな私を……愛したりしない」

『そんな哀しい呪詛で、自分の心を縛るのはお止めなさい』


 精霊の慈愛に満ちたいましめの声が、じわりと少女の心の中に染み込んで、魂の奥底へと沈んでいく。

 途端に、それまで頭の中で煙っていた霧が突として晴れ渡り、記憶の欠片かけらがゆっくりと合わさって形を成していくような感覚を覚えた。少女は驚きを隠せぬままあえぐように息を吐くと、自分がはずの世界の記憶を取り戻そうと、薄紫色の瞳を見開いた。



 ああ、そうだ……


 私を抱きしめてくれた人が、確かに居た。

 精霊がしてくれたように、絡まった黒髪をそっとくしけずってくれた優しい指先を、確かに覚えている。小さな肩を寄せ合い、お互いの温もりを感じながら一つの毛布にくるまって微睡まどろんだことも。


 あれは……

 

「ウィアテリーシェ」


 知らぬ間に口にしたその名に、少女の胸の奥が懐かしさに震えた。

『美しい響きね。それは誰の名前?』

 うっとりと夢見るような精霊の囁きに、少女の顔が悲しげに曇る。

「……知らない。でも、そう呼んだら、すごく怒られるの。ちょっと怖いけど、とっても優しくて、とっても柔らかくて……」

『柔らかくて?』

「そう。ぎゅうっと抱きしめると、とっても柔らかいの」

『とても大切な人なのね』

「そうなの?」

『ええ、大切だからこそ、抱きしめたくなるのよ』

 少し困惑したように「そうなのね」とつぶやいて、少女はその美しい名を何度も繰り返した。

「ウィアテリーシェ……大切な人。ウィアテリーシェ……大切な、ウィア……」


 束の間、黄金色に輝く髪をなびかせて佇む姿が脳裏を過ぎった。少し悪戯いたずらっぽい笑顔を浮かべたその娘は、とても美しくて、とても懐かしくて……


 次の瞬間、少女は大きく身震いすると、はあっと叫んで口元を両手で覆った。

「ウィア! ああ、どうしよう……ウィア、きっと心配しているわ」

 少し困ったような、それでいて嬉しそうな少女の声に、泉の精霊が小さな身体をぎゅうっと抱きしめる。

『大丈夫よ。すぐにあちらの世界に戻れるわ……他に何か思い出せるかしら?』


 少女は眉根を寄せて、うーんとうなり声を上げると、唇をきゅっと引き締めた。

 ふと、自分を抱きしめている精霊から匂い立つ甘い香りに心惹かれて、少し不思議に思いながらそっと瞳を閉じた。どこかで、同じように甘い香りに包まれたのを、確かに覚えている。

「……焼き菓子みたい」

 少女の言葉に、精霊が不思議そうに金色の瞳をまたたかせる。

「悲しいことや嫌なことを優しく包み込んで忘れさせてくれる、甘い香り……」

 

 冷たい夜。音を立ててぜる焚き火の前で、その香りに包まれて微睡んだのを、確かに覚えている。身体に回されたたくましい腕の温もりも。少し気遣わしげに触れる、大きな手の温もりも。そして……


 低く穏やかな声も。



 ──シルルース、目を覚ましてくれ。


「私を、呼んでいるの?」

 

 不思議ね。あなたの声は、こんなにも優しく心に響く。


 ──約束したんだ、必ず守ると。だから……目を覚ましてくれ。



 あなたの声をもっと聴きたい……そう思いながら、少女は記憶の彼方に心を翔ばした。





 暗闇の中に、少年が膝を抱えてしゃがみ込んでいた。伸び切った赤い髪が風に惑う炎のように、ゆらゆらと揺れている。

 全てを拒むような気配に、少女は少し躊躇とまどいながらも静かに歩み寄ると、眉をひそめて首を傾げた。


 ……まるで、空っぽの抜け殻のよう。


 

 少年の周りに漂っているのは、悪意と好奇、憎悪と妬みに満ちた醜悪な気配。それを追い払おうとする力さえ失ったように、少年は両膝に顔を埋めたまま身動きひとつしない。

 

 ふと、遠くで女の冷ややかな笑い声が響いた。

 びくり、と身体を震わせて、少年が顔を上げる。鮮やかな緑色の瞳が深い悲しみにかげるのを感じ取って、少女の胸の奥がきゅうっと痛んだ。


 やがて、少年は静かに立ち上がり、闇の奥に視線を向けた。

 その手に握られた長剣から、ぽたぽた、としたたり落ちる鮮血が外衣をどす黒く染めるのを気にも留めず、少年は奥へ、奥へと歩みを進め、闇の彼方に消え入った。


 後に残されたのは、抜け殻のような小さな炎と、血の匂い。そして……


 焼き菓子のような、甘い香り。

 


 たまららず、少女は闇に向かって必死に声を張り上げた。

「どうして? あなたの声はあんなにも温かいのに……あなたの手はあんなにも優しいのに……そんなふうに自分を追い込んで、心に苦しみを注ぎ続けたら、いつの日か燃え尽きてしまうわ」

 空っぽな炎が、悲し気にゆらりと揺れる。

「ねえ、お願い……あなたの苦しみも、悲しみも、私に分けて。一人で耐え切れなくても、二人で分かち合えば、ずっと楽になるでしょう?」

 少女は声がかすれるのも構わず、必死に叫び続けた。

「私が、あなたを守るから! あなたの命の炎が消えてしまわないように、必ず守るから……だから、お願い……どこにも行かないで!」


 突然、くすぶり続けていた炎が、少女の叫び声にあおられたかのように激しく燃え上がった。

 その輝きが消えてしまわないように両手で炎を包み込もうと、少女は必死に腕を差し伸ばした……



 


 差し伸べられた小さな手を、レイスヴァーンはしっかりと掴み取ると、優しく握りしめた。

「シルルース? 気がついたのか?」

 喜びと不安が入り混じったような声が、シルルースの心に優しく響く。

「……ヴァンレイ?」 


 次の瞬間、甘い香りと優しい温もりに包まれて、力強い腕に押し潰されるかと思うほど抱きしめられた。

 男が漏らした安堵の吐息に耳元をくすぐられて、少女が、ひゃっと小さな声を漏らす。

「ああ……良かった……! やっと、目覚めてくれた……」

 途切れ途切れに絞り出された言葉が、胸の奥にすとんと落ちる。途端に、シルルースの瞳から涙があふれ出した。


 

 泉のほとりで、目覚めたばかりの少女を抱き締めて喜びに震える傭兵の姿に、フェイドラが少し呆れたような表情を浮かべながら肩をすくめてみせる。と、泉の精霊は唇にそっと指を当てて、優しい眼差しを二人に向けた。



 レイスヴァーンは泣きじゃくる少女を抱え直すと、心配そうに顔を覗き込んだ。

「シルルース、俺の声は分かるな?」

 胸元に頰を押し当てたまま、こくりと頷く仕草が余りにも愛らしくて、少女を抱きしめる腕に一層力がこもる。

 シルルースの顔が真っ赤に染まるのを見兼ねて、フェイドラが傭兵の肩に手を掛けた。

「レイスヴァーン、ひとまず、その子を放してやれ。そんなに強く抱きしめては息が出来んだろうが……その子の身体に異変がないか、先に調べさせてくれ。抱きしめるのはその後だ」


 レイスヴァーンはあからさまに顔をしかめたものの、小さな身体をゆっくりと横たえると、女戦士に場所を譲った。 

「どれ、少してみよう……シルルース、ゆっくり呼吸をしてみてくれ……どこか痛むところはないか?」

 少女はぶるぶると首を横に振ると、少し不思議そうに首を傾げた。

「ああ、名乗っていなかったな……ティシュトリア王都軍の治癒師で、フェイドラという」

 少しの間を置いて、シルルースが困惑したように首を傾げた。

「……小さな、フェイ?」 

 泉の方から軽やかな笑い声が漏れ聞こえた。途端に、フェイドラが引きった笑みを浮かべて、泉の方へと視線を動かす。

「リアナン様! この子にまで要らぬことを吹き込むのは止めて頂けませんか」 

『その子が、精霊の声を聞く耳と祈りの言葉を紡ぐ声を奪われていないか、確かめただけよ。大切なことでしょう?』

「奪われるって……?」

『愛し子を捕らえていたのは、「青き竜の系譜」の戯言たわごとに耳を傾けて夢魔となり果てた、憐れな眠りの精霊達だったわ』

 ああ……と悲壮な声を漏らして、フェイドラが唇を噛んだ。

『その子が、たまたま夢魔の巣に掛かってしまっただけなのか。あるいは、愛し子を囚えようとした何かが、憐れな精霊達を「魔」に堕としめたのか……それは、私にも分からないけれど』

 精霊の声に耳を傾けていた角の王が、不快感も露わに、ぶるる、と鼻を鳴らす。

『なんにせよ、忘却の眠りの繭に閉じ込められていたから、記憶があいまいになっているはずなの。しばらく静かに休ませてあげて』

 泉の精霊は、ぼんやりと眠たげな少女に優しく微笑み掛けると、その傍らに寄り添う赤毛の傭兵に視線を移した。


『火竜の子、お願いがあるのだけれど』

 レイスヴァーンがいぶかしげに目を細める。 

『この子に、名を与えて欲しいの』

「名を? なぜだ? 名前なら既に……」

『「シルルース黒とかげ」というのは、人の子が呼ばれるべき名ではないでしょう? 己が何者か分からなくなるような名など、意味がないの。あなたがその名で呼び掛けても、この子はそれが自分の名だと分からなかった……だから、なかなか目を覚まさなかったのよ』

 はあっとため息を漏らして顔を歪める傭兵を見つめたまま、精霊は言葉を続けた。

『愛し子は、あなたをで呼んでいたわね』

 途端に、レイスヴァーンは顔を赤らめると、気まずそうに口元を手で覆った。その様子を目にして、フェイドラが唇の端をにやりと吊り上げる。

『この子が魂の奥底から愛しいと思える……そんな名を、火竜の子、あなたが与えて上げて。お願い出来るかしら?』



 

 澄み切った空気の中に、泉の精霊の柔らかな声が静かに響く。

 森の獣達の息遣いに耳を傾けていたシルルースは、ここが『嘆きの森』なのだと気付いて驚きながらも、暖かな陽気に誘われて、夢現ゆめうつつの境をゆっくりと彷徨さまよい始めた。


 

 ねえ、ヴァンレイ。あなたの声が聞こえたから、あなたのそばに戻りたいと思ったの……


 

 そよ風が奏でる子守唄のような心地良い調べに、ほおっと小さな欠伸あくびを漏らすと、シルルースは甘い香りと懐かしい温もりに包まれながら、ふわふわと優しい眠りに落ちた。




***



 

「本当に、王都までその子を馬で運ぶのか?」

 フェイドラは合点がいかぬとばかりに腕組みをして顔をしかめると、全ての手筈てはずを整えて女主人の元に戻った妖獣狩人と、嬉しそうに泉で水遊びをする白い竜に目を遣った。

「セサルに任せれば、ディーネと共に『狭間』を通り抜けて、あっという間に王都の治癒院に送り届けることが出来るのだぞ」

 再び眠ってしまった少女を両腕で抱えたまま、レイスヴァーンは申し訳なさそうに眉を下げた。

「いや……シルルースが目を覚ました時に、そばに居てやりたいんだ」


 『火竜の子、愛し子、大切』『離さない』『約束、ずっと守る』などと囁きながら、風の精霊達が駆け抜けていく。フェイドラは思わず吹き出しそうになりながらも、無愛想な傭兵が見せた底知れぬ愛情がいつまでも変わらねば良いが……と心の中で祈りを捧げた。

「レイスヴァーンよ。血生臭い戦場を渡り歩く傭兵のお前が、大神殿への『捧げもの』であるこの子と出逢ったのも、天が結んだ絆なのだろう」

 天竜を神と崇めるティシュトリアの民らしい言葉に、レイスヴァーンは少し困ったように曖昧な笑みを浮かべた。

「だから、心に迷いが生じても絶対にあきらめるな。お前を信じて差し出された手を決して離さず、その命尽きるまで『愛し子』を守り抜け」


 王族の威厳に満ちた言葉の裏側に、祈るような想いがこめられているのを感じ取って、レイスヴァーンは女戦士を真っ直ぐに見据えた。フェイドラが見つめる先に、長身の妖獣狩人の姿があった。

「それが……あなたと、あの狩人が交わした約束なのか」 


 恥じらうような唇が、さてな、と動く。

「街道までは角の王が導いてくれる。王都でまた会おう、レイスヴァーン」

 フェイドラはきびすを返して白い竜に駆け寄ると、その背にまたがった狩人に手を差し伸べた。

 セサルが身を乗り出して女戦士の身体を軽々とすくい上げた瞬間、白い竜がふわりと宙に舞い上がり、揺らいだ虚空に身を躍らせて消えた。

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