癒しの乙女

 その泉は、人の子を寄せつけぬ森の深淵で、耀かがよう宝玉を散りばめたような美しさをたたえていた。

 水辺をぐるりと取り囲む緑深い森と、遥か頭上に広がる冬らしからぬ蒼天が水鏡に映り込み、鮮やかな緑青ろくしょう色のきらめきとなって、ちらちらと揺れている。



 突如として目の前に広がった光景に、レイスヴァーンは言葉もなく立ち止まった。水面をそよりと風が揺らすたび、まばゆい波紋がゆらりゆらりと弧を描きながら広がっては消えていく。そのゆるやかな動きを無意識に目で追う内に、自ずと視線が対岸に向けられた。

 刹那、レイスヴァーンはひゅうっと息を呑んだ。


 

 柔らかな木漏れ日の下、ほのかな輝きを放つ生きものが、泉のほとりに腰掛けていた。

 人の女の姿にも似たは、うつむき加減に瞳を閉じたまま、行き交う風の声に耳を傾けているように見えた。泉と同じ輝きを持つつややかな髪がしなやかな肢体に沿って流れ落ち、こぼれ散った花弁はなびらのように水面をゆらゆらと漂っている。

 ふと、女が顔を上げて宙を見つめた。

 遠目にも、金色の瞳に浮かぶ縦長の瞳孔がはっきりと見て取れる。


「妖魔……か? いや、それにしては……」

 眼を凝らして女を見つめながら、レイスヴァーンは首を傾げた。

 先程の妖獣と違って、禍々まがまがしさを全く感じない。それどころか、水辺から漂う清涼な空気が疲れた身体を優しく包み込み、咲き誇る花々を思わせる甘い香りに張り詰めていた心がふわりと揺らぐ……

 この美しく妖艶な生きものが、紛れもなく人ならざるものであることだけは確かだ。


「ほお、お前には見えるのか」

 驚きの色を隠せぬ傭兵の隣で、フェイドラが意味あり気な薄笑いを浮かべた。

うるわしいだろう? いやしの泉を守る清らかなる乙女。精霊達の守護者であり、『森の癒し手』たる泉の精霊だ」 


 

 風の精霊達が水面をれるように揺らしながら向こう岸に辿り着き、泉の乙女の周りをふわりふわりと漂い始めた。銀色のはねからこぼれ落ちたきらめきが、乙女のほんのりとくれないを帯びた肌や長い髪に降り注いで星屑の輝きを添えると、精霊達は満足そうにささやきながら、さわさわと森の奥へ駆け抜けていった。 

 風の行方を追い掛けていた金色の瞳がゆっくりと対岸に向けられ、水辺にたたずむ巨大な獣の姿を捉えた途端、泉の乙女はとろけるような微笑みを浮かべた。

『ご機嫌よう、タリスニール。嬉しいわ、私の小さなフェイも一緒なのね』

 清らかな水の流れを思わせる声が、泉の水面を優しく揺らしながら辺りに響き渡った。


 泉の精霊の言葉に、レイスヴァーンは隣にたたずむ女戦士をまじまじと見下ろした。フェイドラは決まりの悪そうな顔で咳ばらいをすると、向こう岸に視線を向けた。

「リアナン様! いつまでも小さな子供扱いは止めて頂きたいと、何度お願いしたら……」 

『私達にとっては、あなたはいつまでも愛らしい子供のままなのよ。そうでしょう、タリスニール?』 


 水辺に沿って静かに歩みを進めていた角の王タリスニールが、同意するかのように、ぶるる、と鼻を鳴らす。やがて、泉の精霊の傍らに辿たどり着くと、お辞儀をするように首を垂れ、温かな鼻先を乙女の頰にそっと押し付けた。

 白い指先で獣の鼻梁を優しく撫で上げながら、精霊は柔らかな毛に覆われた口元に頬擦ほおずりして、両腕を静かに差し伸べる。

 首に回された細くたおやかな腕にいざなわれて、赤褐色の獣はゆっくりとしゃがみ込むと、たくましい身体を水色の乙女にり寄せた。



 とてつもなく巨大な獣が、恍惚とした表情を浮かべて泉のほとりに静かに座り込むのを、フェイドラは気恥ずかしさと懐かしさが入り混じったような複雑な気持ちで眺めていた。が、傍らに立ち尽くしている傭兵の気配が冷ややかさを増したのに気づいて、怪訝そうに若者の顔を覗き込んだ。

「どうした、レイスヴァーン?」

 赤毛の傭兵は、眉間に皺を寄せたまま、身じろぎもせずに視線の先にあるものを見つめている。

 その険しい表情が、獲物を見定めようとする妖獣狩人セサルの姿と重なって、フェイドラは胸の奥をぎゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。


に疑念を抱くのは、戦士の本能なのでしょうね』

 精霊の「声」が頭の中に響いた瞬間、レイスヴァーンはシルルースを抱え込んでいる両腕に力を込めて後退あとずった。 

『そういった慎重さは、「愛し子」に寄り添う者には必要なのよ。私の小さなフェイときたら好奇心に突き動かされてばかりいるものだから、見守る側としては気が気ではなくて』

 子供のように唇を尖らせた女戦士が、小さく舌打ちする。

『タリスニールの毛皮に埋もれて昔語りをせがむ幼い頃のあなたは、それはもう愛らしくて……覚えているかしら?』

 精霊は柔らかな微笑みを浮かべたまま、心を震わせる声で言葉を紡ぎ続けた。

『青き竜が「狭間」からくだるよりも、遥かな昔。地の底からあふれ出た達が、仄暗い虚空を埋め尽くしました。やがて、辺りに漂う闇を喰らい付くして地上に舞い降りた彼らは、気の遠くなるような時間を掛けて緑の大地を潤し、豊かな水をたたえる大河と深い森を育み、獣と人の子と「青き竜の系譜」が共に棲まう箱庭を生み出しました……人の子らが「大陸」と呼ぶ世界の始まりです』


 とろけるような微笑みを浮かべたまま、精霊は角の王の首に回していた腕を、するりと宙に漂わせた。何かを掴み取ろうとするかのように伸ばされた白いこぶしが、天に向かってふわりと開かれる。

 刹那、レイスヴァーンは周りの空気が、ぐにゃりと歪んだような気がした……



 揺らいだ空間の裂け目から、翼の生えた美しい青竜が悠然と姿を現し、ばさり、ばさりと羽ばたきながら宙を漂い始めた。

 雪に覆われた山のいただきに辿り着くと、音もなく舞い降りる。その背から、白い衣に包まれた若い娘が静かに降り立った。

 青竜が自ら引き抜いた胸のうろこを、娘の小さな手がそっと握りしめる。

 その手から青い光があふれ出し、やがて、宝玉を散りばめたような輝きとなって一面を覆い尽くしていく……


 

 それが、水面みなもに揺らめくきらめきだと気付いた瞬間、レイスヴァーンは咄嗟に視線を落した。腕の中でシルルースが変わらぬ様子で静かに眠っているのを認めて、ほおっと安堵のため息を漏らす。

 戸惑いがちに傍らの女戦士に視線を移すと、ぽかんと口を開けたまま虚空を見つめて立ち尽くしている。どうやらフェイドラも、泉の精霊が見せたひと時の幻に囚われていたらしい。


 泉の精霊は、虚空に差し伸べていた腕をするりと下して角の王の胸元に埋めると、細い指先でゆっくりと撫で始めた。

『地の底で微睡まどろんでいた私を呼び起こしたのは、その子と同じように、神殿に仕える巫女だったわ』

 遠い昔を懐かしむような精霊の声が、水面を優しく震わせる。

『青き竜に愛されたがために神殿を追われ、この森に逃げ込んだ小さなウシュリアの嘆き声が、あまりにも切なくて……絶望で枯れそうになっていた彼女の心を潤してあげたいと願ったら、癒しの湧き水となってこの森に生まれ出ていたの』


「……ウシュリア? まさか……聖女ウシュリアのことか?」

 大陸の民が「天竜の花嫁」と崇める聖女の名を、懐かしい友を呼ぶかの如く口にした精霊を前に、レイスヴァーンは渇いた喉の奥から掠れた声を絞り出した。

『いいえ、ウシュリア。あの子は、あなた方と何ら変わらぬ人の子だった……青き竜の気紛れで運命を捻じ曲げられてしまったけれど、己がいつくしむものを守るために、全てを必然として受け入れて、強く生き抜いたのよ』


 金色の瞳を寂し気に伏せた精霊に、角の王がそっと頬擦りする。

 分かっているわ、と小さくつぶやいて、泉の精霊は名残惜しそうに赤褐色の毛皮から手を離すと、白く細い指を水面につうっと滑らせた。

『火竜の子。あなたの目に映る世界は、精霊の命がみなぎることで支えられているの。人の子らは、世界を形作る私達を「得体の知れぬもの」「姿を見せぬ不気味なもの」として忌み嫌うけれど……見えざるものを恐れず、ひたむきな愛情を寄せてくれる「愛し子」の存在が、この世界を慈しみ守り続けたいと願う精霊を生み出すのよ』

 泉の乙女が描いた波紋は、緩やかに煌めく弧を描きながら、レイスヴァーンとフェイドラが佇む岸に向かって広がっていく。

『あなたの腕の中にいるその子は、私達にとっても大切に守るべき愛しい存在……火竜の子よ。どうか、「愛し子」を救いたいと願う精霊達の想いを受け入れて、少しの間だけ、その子を私に預けてはくれないかしら?』



***



 角の王の呼び声に誘われて、暖かな空気をまとう南の風が、軽やかな笑い声を立てながら、ふわりふわりと辺りを舞い始めた。

 南風の精霊達は、初夏を思わせる心地よい風と共に、南国に咲きこぼれる花々の香りも運んできたらしい。



 甘い香りが漂う泉のほとりで、フェイドラはおもむろに外衣を脱ぐと、先程まで角の王がしゃがみ込んでいた地面の上にふわりと広げた。

「真冬の王都に戻るのが辛くなりそうだな……困ったものだ」

 皮肉っぽい笑みを浮かべて、女戦士が赤毛の傭兵を手招きする。レイスヴァーンは小さくうなずいて外衣の上に片膝をつくと、ゆっくりと前屈みになりながら、両腕に抱え込んでいたシルルースを注意深く横たえた。

 分厚い毛布に包まれていたからだろう。耳元までほんのりと赤く染まった少女は、少し苦しげに見えた。

「この陽気で、これでは……シルルース、少し身体に触れるが、驚かないでくれ」


 今更だな、と苦笑いして、レイスヴァーンはウィアが丹念に巻きつけた毛布を一枚、また一枚と取り払っていく。そうする間も、もしかしたら驚いて目を覚ますのではと、何度も少女の顔を覗き込んだ。

 『捧げもの』の子らがまとう質素な上衣姿になったシルルースの胸が、ゆっくりと上下している。それを目にしてわずかに安堵したものの、小さな身体はぐったりと生気のないままだ。


 アルコヴァルの東の砦で暴走した葬儀の炎と対峙したシルルースが、眠るように意識を失ってから、既に二度目の夜が過ぎようとしている。フェイドラの言うように、このまま息を引き取ってしまうのかもしれない……レイスヴァーンは込み上げる悔しさに、唇をぎりりと噛み締めた。

 あの不思議な薄紫色の瞳で、もう一度、見つめて欲しい。夢中で焼き菓子を頬張る愛らしい姿を、もう一度、見せてくれ……そんなことを思う己の浅ましさに呆れ果て、はあっと吐息を漏らすと、シルルースの傍らに腰を下ろした。


『火竜の子。あなたが守っていなければ、その子も、あの業火に囚われて焼かれていたでしょう』

 泉のほとりから滑るように水中に身を沈めた精霊が、しなやかな肢体をくねらせて水面をゆったりと揺蕩たゆたいながら、こちらを見上げている。時折、虹色のうろこに覆われた尾鰭おびれが、ぱしゃり、と水面を打つ。 

『炎の精霊は気性が激しくて、とても扱い難いの。彼らを抑え込むために、体力も気力も奪われてしまったのでしょうね』 


 精霊は驚くほど優雅な身のこなしで、直ぐ目の前の岸辺にするりと身体を乗り上げると、美しい背中も露わにうつ伏せで横たわった。細く白い手を伸ばしてシルルースの頬に触れ、何かを感じ取ろうとするかのように、金色の瞳をゆっくりと閉じる……

 しばらくして、耳にしたことのない不思議な言葉を静かにつむぎながら、ゆるやかに波打つ少女の黒髪を手に取って少しずつ指先でくしけずり、はらり、はらりと水面に落とし始めた。


 星屑を散りばめた夜空を思わせる黒髪が、緑青ろくしょう色の水辺に広がって、ゆらり、ゆらりと輝いている。それがあまりにも美しくて、レイスヴァーンは心の奥底でやましさを覚えながらも、水鏡に揺れる星空を見つめ続けた。


『火竜の子。愛し子を抱きしめてあげて。あなたの温もりで、その子を包み込んで』

 怪訝そうに首を傾げて眉をひそめながらも、レイスヴァーンは壊れ物を扱うような手つきでシルルースを掬い上げると、じっとりと濡れた黒髪が絡みつくのも構わず、片膝に肘を立てかけて少女の頭を抱え込み、もう一方の腕で小さな身体をしっかりと抱き寄せた。

『その子をこちらの世界につなぎ止めるために、あなたの温もりが必要なのよ』

「……繫ぎ止める?」

『ええ。肉体はそこで眠っているけれど、愛し子の魂は帰りみちを見失ってしまったようだから……精霊の世界を覗き込むことは出来ても、愛し子は人の子よ。あちら側に長く留まれば、魂が朽ちてしまうわ。だから、その前に』

「待ってくれ! 一体、何のことだ? シルルースに何が起きているんだ?」



 少し離れた場所で、角の王はリアナンと火竜の子のやりとりに耳をそばだてていた。が、若者の声が激しさを増した途端、鋭い威嚇の声を上げた。

 水面を揺らしていた南風が、悲鳴のような音を立てて周囲の木々を大きく揺らし、森の奥から不安げな遠吠えが響き渡った。


 背後で様子を伺っていたフェイドラは、傭兵の背中に物憂げな眼差しを向けたままゆっくりと近寄って、静かな怒りに震える若者の肩にそっと手を置いた。

「レイスヴァーン、声を荒げるな。精霊達がおびえている」

 ああ、とうなり声を漏らして、レイスヴァーンは少女の寝顔に視線を落とすと、苦しげに言葉を吐き出した。

「……分かるように説明してくれないか。俺は、シルルースが世界のことなど、何も知らないんだ」



 泉の精霊はあわれみとも愛しみともつかない微笑みを浮かべると、金色の瞳をレイスヴァーンに向けた。

『火竜の子、よく聞いて』

 困惑に歪んだ若者の顔を見据えたまま、精霊は限りなく優しい声でささやいた。


『愛し子の名前を、呼んであげて』

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