分かち合えば

 仄暗い緑の深淵を、角の王は躊躇ためらいもなく奥へ、奥へと進んで行く。その後に続くフェイドラの足取りは、仄暗い森の中に居ることを忘れさせるほど軽やかだ。



 レイスヴァーンは巨大な角山羊マーコールが踏み付けた跡を慎重に辿たどりながら、鬱蒼うっそうと茂る木々を掻いくぐり、聖なる獣と女戦士を追い続けていた。

 シルルースを抱えているおかげで、風にたわんだこずえを上手くけ切れず、鞭打たれるような痛みを幾度となく感じた。その度に故郷の言葉で毒突きながらも、腕の中の少女を一層引き寄せる……その繰り返しだ。


 不意に、前を進んでいたフェイドラが足を止めた。

「傭兵! お前が毒を吐くものだから、精霊達が騒ぎ立ててわずらわしいといったらない。頼むから、意地を張らずに交代でその子を運ぶか、口をつぐむか、どちらかにしてくれ」

 振り向きざまに射るような視線を向ける女戦士を、レイスヴァーンは神妙な面持ちで見つめ返した。

「ずっと気になっていたんだが……フェイドラ、あなたには精霊の声が聞こえるのか?」


 一瞬の沈黙の後、フェイドラは傭兵から視線を逸らすと、緑の天蓋てんがいを見上げてわずかに微笑んだ。

「獣の王が守る『嘆きの森』は、聖女ウシュリアの時代より人の子をはばむ聖域でもあるのだよ。精霊達が好んで集うこの森には、彼らの声が満ちあふれている。気配に敏感な者ならば、その声が聞こえても不思議はあるまいよ」

「……俺には、風の音しか聞こえないが」

「言ったろう? 『落とし子』の護衛ならば、目に見えぬものを感じ取るすべを身に付けよ、とな」

 女戦士が軽やかな笑い声をこぼす。が、レイスヴァーンは釈然とせぬまま言葉を返した。

「俺が木の枝に行く手をさえぎられて足掻いている間も、あなたは何に邪魔されることもなく、かすり傷ひとつせず……」

「幼い頃から慣れ親しんだ森だからな。獣道なんぞ知り尽くしている」

「フェイドラ、誤魔化さずに説明してくれ。一体、あなたは何者なんだ? なぜ、見ず知らずのシルルースに関わろうとする?」


『森を勝手気ままに駆け回る幼子おさなごを見守るのは、なかなかどうして骨の折れるものだった』

 角の王の声に、フェイドラが心底仰天したように目を丸くして首をすくめた。同時に、くすくす、と小さな笑い声が木々の合間から湧き上がるのを耳にして、レイスヴァーンの背筋をぞくりと冷たいものが這い上がる。

『幼い姫をたぶらかす悪しき妖獣、などとあらぬ疑いを掛けられて、ティシュトリアの戦士達に追い回されたこともある』

「角の王! 今、その様なことを言わずとも……」

『ティシュトリアの姫よ。火竜の子がいぶかしがるのも無理はない。彼の問いに答えてやってはどうだ?』

 暖かな光をたたえた金色の瞳が、レイスヴァーンを真っ直ぐ見据えた。

『火竜の子よ、姫も色々と含むところあって素直になれぬのだ。こんなだが、この森に息吹く全てのもの達に深い愛情を寄せる心優しい子なのだよ』

「角の王、もういから黙ってくれ! 雄弁なあなたは気味が悪い」 

 眉根を寄せて頬を真っ赤に染めながら、フェイドラはつかつかと獣の王に近寄ると、赤褐色の毛皮をぐいっと引っ張った。

「とにかく、先を急ごう……レイスヴァーン、遅れず着いて来られるのなら、お前の問いに答えてやろう」

『ああ、言いそびれたが……愛し子を守護する火竜を揶揄からかうのも大概にせよ、と精霊達に言い含めておいた』

 ぶるる、と大きく鼻を鳴らす角山羊の横で、女戦士が小さく舌打ちした。





 角の王の言葉通り、足を踏み出す毎に不自然に騒めいていた木々は、眠りに就いたかのように静寂を取り戻した。レイスヴァーンは少し拍子抜けしながらも、時折、さわり、さわりと枝葉を揺らす風に耳を傾けてみた。

 精霊達のささやきの代わりに聞こえてきたのは、先を歩くフェイドラの、感情を押さえ込んだ声だ。

「お前が守っているのは、精霊達に愛され、彼らの力を借り受ける恩恵に浴する子だ」

 一瞬、森に棲まうもの達の息遣いが聞こえたような気がして、レイスヴァーンは辺りを見回した。 


 女戦士は振り向きもせずに淡々と言葉を紡ぐ。

「裏を返せば、荒ぶる自然の力を抑え込むだけの強さがなければ、その力に呑み込まれ、やがて心を病み、命までも危険に晒すことになる。精霊の力を欲する術師に魂を縛られたり、無垢な魂を最上のかてとする『魔の系譜』に喰われてしまうことも少なくない……眠り込んで目覚めぬまま息を引き取る子供や、誰にも知られず姿を消した子供の噂が大陸で絶えぬのも、そのせいさ」 

 大きく息を呑んだ傭兵が、腕の中の少女を思わず掻き抱く。その気配に、フェイドラは心が重くなるのを感じながらも、静かに言葉を続けた。

「その子と同じような状態で治癒院に運び込まれた子らを、何度となくた。薬草で治せる病とは全くの別物なのだから、手の施しようもなかったが」

「だから、シルルースを見捨てられなかったのか?」

「それある」

「……気になるにごし方はめてくれ」

 レイスヴァーンはシルルースを抱きしめていた腕の力を緩めると、ほおっとため息を吐いた。


「理不尽なのだよ」

 怒りを吐き出すようなフェイドラの声に、周りの木々が、ざわり、と揺れた。

「『落とし子』に寄り添いいつくしんでくれるのは、他でもない精霊達だ。そんな彼らを……あんなにも無邪気で慈愛にあふれたもの達を、ただ、目に見えぬと言うだけで忌み嫌うなど! 自然をはぐくむ彼らの存在こそが、この世界を支えるいしずえだと言うのに!」

 これ以上、感情に揺さぶられて声を荒げないように、フェイドラは大きく一息吸い込んだ。

「精霊の世界と人の子の世界を橋渡すを、心の奥底でさげすんでいながら、自分達の都合に合わせて『捧げもの』や『巫女』、『術師』などと呼んで好き勝手に利用するやからが、この大陸では後を絶たない……それもまたしゃくに触る。だから、救いを必要とする『落とし子』には必ず手を差し伸べると、天竜に誓ったのだ」

 ほんの一瞬、振り返った女戦士の横顔に、自らをあざむくような薄笑いが浮かんでいる。

「ただの自己満足だよ、レイスヴァーン」


 

 我ら、と。

 確かに、そう言った。


 短い言葉に秘められた想いを読み取って、レイスヴァーンの中で鬱々うつうつと渦巻いていた疑念が、ゆっくりと確証に変わる。

「あなたも、シルルースと同じ『落とし子』なのか」


 フェイドラはぴたりと歩みを止めて振り返ると、傭兵の腕の中で眠り続ける少女に憐憫れんびんとも慈愛とも取れる曖昧な眼差しを向けた。

「……少しだけ、他とは違う。ただ、それだけのことで、血を分けた者からもうとまれ、心を閉ざし、生きる気力さえ奪われる。そんな底知れぬ孤独に落ちた者の気持ちが、お前に分かるか、傭兵?」

 木々を渡る風が、ひょおっと悲し気な音を立てて吹き抜けていく。

『姫よ、火竜の子に怒りをぶつけるのも程々にせよ』

 低く穏やかな声が空気を震わせた。女戦士は困惑の色を隠せぬまま目を伏せて首を横に振ると、二人を待ちびるように佇んでいる角の王に向かって歩き出した。

「すまぬな、レイスヴァーン。愚かな治癒師の世迷いごとだ。忘れてくれ」


 ティシュトリアの民にしては小柄な背中が、荷台の上で身動きひとつせずに座り込んでいた小さな背中を思い起こさせる……そう思うと、レイスヴァーンは言葉を掛けずにはいられなかった。

「フェイドラ」

 女戦士の肩がぴくりと震える。が、こちらを振り向く気配はない。

「シルルースやあなたが味わった苦しみは、俺には知るよしもない。だが、あなたの言う『孤独』なら、知っている」

してくれ。勝手気ままに生きる傭兵如きに孤独を語られたところで……」

「俺は、エルランシングの砦で生まれ育ったんだ」

 

 ぎょっとした顔で振り返った女戦士に、レイスヴァーンが少年のような悪戯っぽい微笑みを向ける。そのまま、フェイドラの横をすり抜けて追い越すと、何事もなかったかのように先を歩き始めた。慌てて、女戦士が後を追う。

「この髪色のおかげで、幼い頃から色々と難癖をつけられた。『血で染めた』などと揶揄からかわれて、それが通り名にもなった。いろりすすを煮詰めて髪に塗れば黒く染まると聞いて実行に移したら、母にこっ酷くしかられたよ……火竜の炎の色をけがすな、とね」

 フェイドラはレイスヴァーンの真横に並ぶと、傭兵の妙に整った顔を覗き込むようにして見上げた。

「火竜の……?」

「母は、『火竜の谷レンオアムダール』の生まれだったんだ」

「ああ……だから、角の王はお前を『火竜の子』と呼んだのか。しかし、煤の煮汁などで綺麗に染まるものなのか?」

「いや。赤と黒のまだらになっただけで、自分でも呆れるほど情けない姿で……以来、髪を染めるのはあきらめた」

 昔を懐かしむような、少しはにかむような微笑みに釣られて、フェイドラも思わず口元をほころばせた。

「……なるほど。確かに『黒のエルランシング』の中で、その容姿では、悪目立ちが過ぎるな」

 黒髪の民に生まれながら、異質さを際立たせる燃え立つ炎のような髪を、風の精霊達が優しく揺らしていく。


「……ん? 待てよ」

 何か大切なことをさらりと言われたような気がして、フェイドラは傭兵の言葉を確かめるように繰り返した。

「血で染めた……『血染め』の……エルランシング……って、おいっ! レイスヴァーン、お前、まさか、あの……!」


 さすがは、優れた戦士を生み出す『東の武装大国』ティシュトリアの姫だけのことはある……戦場での二つ名に気付いて息を呑んだまま唖然とする女戦士をよそに、レイスヴァーンはシルルースの寝顔を覗き込むと、柔らかな頰にそっと口付けた。



 少しだけ、他とは違う。

 ただそれだけで思い知らされた底知れない孤独も、二人で分かち合えば安らぎに変わる。焚き火の前で二人で過ごした夜が、互いの温もりに包まれて驚くほど穏やかに過ぎて行ったように。


 耐えられないんだ。

 このまま、お前を失うなんて。


「……早く目を覚ましてくれ、シルルース」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る