分かち合えば
仄暗い緑の深淵を、角の王は
レイスヴァーンは巨大な
シルルースを抱えているおかげで、風に
不意に、前を進んでいたフェイドラが足を止めた。
「傭兵! お前が毒を吐くものだから、精霊達が騒ぎ立てて
振り向きざまに射るような視線を向ける女戦士を、レイスヴァーンは神妙な面持ちで見つめ返した。
「ずっと気になっていたんだが……フェイドラ、あなたには精霊の声が聞こえるのか?」
一瞬の沈黙の後、フェイドラは傭兵から視線を逸らすと、緑の
「獣の王が守る『嘆きの森』は、聖女ウシュリアの時代より人の子を
「……俺には、風の音しか聞こえないが」
「言ったろう? 『落とし子』の護衛ならば、目に見えぬものを感じ取る
女戦士が軽やかな笑い声を
「俺が木の枝に行く手を
「幼い頃から慣れ親しんだ森だからな。獣道なんぞ知り尽くしている」
「フェイドラ、誤魔化さずに説明してくれ。一体、あなたは何者なんだ? なぜ、見ず知らずのシルルースに関わろうとする?」
『森を勝手気ままに駆け回る
角の王の声に、フェイドラが心底仰天したように目を丸くして首を
『幼い姫を
「角の王! 今、その様なことを言わずとも……」
『ティシュトリアの姫よ。火竜の子が
暖かな光を
『火竜の子よ、姫も色々と含むところあって素直になれぬのだ。こんなだが、この森に息吹く全てのもの達に深い愛情を寄せる心優しい子なのだよ』
「角の王、もう
眉根を寄せて頬を真っ赤に染めながら、フェイドラはつかつかと獣の王に近寄ると、赤褐色の毛皮をぐいっと引っ張った。
「とにかく、先を急ごう……レイスヴァーン、遅れず着いて来られるのなら、お前の問いに答えてやろう」
『ああ、言いそびれたが……愛し子を守護する火竜を
ぶるる、と大きく鼻を鳴らす角山羊の横で、女戦士が小さく舌打ちした。
角の王の言葉通り、足を踏み出す毎に不自然に騒めいていた木々は、眠りに就いたかのように静寂を取り戻した。レイスヴァーンは少し拍子抜けしながらも、時折、さわり、さわりと枝葉を揺らす風に耳を傾けてみた。
精霊達の
「お前が守っているのは、精霊達に愛され、彼らの力を借り受ける恩恵に浴する子だ」
一瞬、森に棲まうもの達の息遣いが聞こえたような気がして、レイスヴァーンは辺りを見回した。
女戦士は振り向きもせずに淡々と言葉を紡ぐ。
「裏を返せば、荒ぶる自然の力を抑え込むだけの強さがなければ、その力に呑み込まれ、やがて心を病み、命までも危険に晒すことになる。精霊の力を欲する術師に魂を縛られたり、無垢な魂を最上の
大きく息を呑んだ傭兵が、腕の中の少女を思わず掻き抱く。その気配に、フェイドラは心が重くなるのを感じながらも、静かに言葉を続けた。
「その子と同じような状態で治癒院に運び込まれた子らを、何度となく
「だから、シルルースを見捨てられなかったのか?」
「それもある」
「……気になる
レイスヴァーンはシルルースを抱きしめていた腕の力を緩めると、ほおっとため息を吐いた。
「理不尽なのだよ」
怒りを吐き出すようなフェイドラの声に、周りの木々が、ざわり、と揺れた。
「『落とし子』に寄り添い
これ以上、感情に揺さぶられて声を荒げないように、フェイドラは大きく一息吸い込んだ。
「精霊の世界と人の子の世界を橋渡す我らを、心の奥底で
ほんの一瞬、振り返った女戦士の横顔に、自らを
「ただの自己満足だよ、レイスヴァーン」
我ら、と。
確かに、そう言った。
短い言葉に秘められた想いを読み取って、レイスヴァーンの中で
「あなたも、シルルースと同じ『落とし子』なのか」
フェイドラはぴたりと歩みを止めて振り返ると、傭兵の腕の中で眠り続ける少女に
「……少しだけ、他とは違う。ただ、それだけのことで、血を分けた者からも
木々を渡る風が、ひょおっと悲し気な音を立てて吹き抜けていく。
『姫よ、火竜の子に怒りをぶつけるのも程々にせよ』
低く穏やかな声が空気を震わせた。女戦士は困惑の色を隠せぬまま目を伏せて首を横に振ると、二人を待ち
「すまぬな、レイスヴァーン。愚かな治癒師の世迷いごとだ。忘れてくれ」
ティシュトリアの民にしては小柄な背中が、荷台の上で身動きひとつせずに座り込んでいた小さな背中を思い起こさせる……そう思うと、レイスヴァーンは言葉を掛けずにはいられなかった。
「フェイドラ」
女戦士の肩がぴくりと震える。が、こちらを振り向く気配はない。
「シルルースやあなたが味わった苦しみは、俺には知る
「
「俺は、エルランシングの砦で生まれ育ったんだ」
ぎょっとした顔で振り返った女戦士に、レイスヴァーンが少年のような悪戯っぽい微笑みを向ける。そのまま、フェイドラの横をすり抜けて追い越すと、何事もなかったかのように先を歩き始めた。慌てて、女戦士が後を追う。
「この髪色のおかげで、幼い頃から色々と難癖をつけられた。『血で染めた』などと
フェイドラはレイスヴァーンの真横に並ぶと、傭兵の妙に整った顔を覗き込むようにして見上げた。
「火竜の……?」
「母は、『
「ああ……だから、角の王はお前を『火竜の子』と呼んだのか。しかし、煤の煮汁などで綺麗に染まるものなのか?」
「いや。赤と黒の
昔を懐かしむような、少しはにかむような微笑みに釣られて、フェイドラも思わず口元を
「……なるほど。確かに『黒のエルランシング』の中で、その容姿では、悪目立ちが過ぎるな」
黒髪の民に生まれながら、異質さを際立たせる燃え立つ炎のような髪を、風の精霊達が優しく揺らしていく。
「……ん? 待てよ」
何か大切なことをさらりと言われたような気がして、フェイドラは傭兵の言葉を確かめるように繰り返した。
「血で染めた……『血染め』の……エルランシング……って、おいっ! レイスヴァーン、お前、まさか、あの……!」
さすがは、優れた戦士を生み出す『東の武装大国』ティシュトリアの姫だけのことはある……戦場での二つ名に気付いて息を呑んだまま唖然とする女戦士をよそに、レイスヴァーンはシルルースの寝顔を覗き込むと、柔らかな頰にそっと口付けた。
少しだけ、他とは違う。
ただそれだけで思い知らされた底知れない孤独も、二人で分かち合えば安らぎに変わる。焚き火の前で二人で過ごした夜が、互いの温もりに包まれて驚くほど穏やかに過ぎて行ったように。
耐えられないんだ。
このまま、お前を失うなんて。
「……早く目を覚ましてくれ、シルルース」
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