其之四
かすかに、ほんのかすかにバシャバシャという水音が頼義の耳に届いた。
(あれは……)
その時、暗闇を引き裂くようにして頼信の声が響いた。
「射よ! あれだ!」
その言葉が終わらないうちに弓の音が響いた。
迷いはなかった。父の声に導かれるように矢を放っていた。
手応えがあった。と同時に走る馬の鐙が人の重みを失ってカラカラと乾いた音を立てた。
その音を聞いて頼信が言った。
「盗人は射落とした。馬の後を追いかけて取って来い」
頼信はそれだけ言って頼義の返事すら待たずに馬首を返した。
頼義は目を凝らして父の姿を探した。
その時になってようやく雲間から月明りが差し、来た道を引き返していく頼信の後ろ姿がおぼろに浮かんで見えた。
程なく頼義が捕まえた馬を引いて帰途に就くと、ようやく郎等共が駆けつけて来た。
こうして頼義は二、三十人の者に囲まれて京へ帰って来たが、その間ああだった、こうだったというようなことは一言も口にしなかった。
父の家に帰り着くと既に頼信は寝所に入って眠ってしまったという。頼信もやはり事のあらましは何も語らなかったようだ。
頼義は取り返した馬を郎等の手に預け、元の場所で宿直した。
明くる朝、頼義は頼信に言われた。
「あの馬を引き出せ」
言われた通りに頼義は馬を引き出した。明るい日の下で見たその馬は、本当に見事な馬であった。
「それでは、頂戴いたします」
気に入れば持って帰って良いと言われていたから頼義はその馬を貰い受けた。
頼義が馬を引いて帰ろうとしていたところへ親孝がやって来た。
「若君。大変なお手柄でしたね。殿からお褒めの言葉を戴きましたか」
「いや、格別な言葉はなにもなかった」
「え、しかし……」
何も言ってもらえなかったというわりに、頼義は実に晴れ晴れとした顔をしている。親孝は彼が引いているかの名馬に立派な鞍が置いてあるのに気付いた。
親孝の視線に気付いて頼義は微笑した。頼信は何も言わなかったが頼義が厩に行った時には既にこの鞍が置かれてあったのだ。
「これが褒美というところかな」
「さようでございましょうとも」
確かに頼信は「よくやったな」というようなことは一言も口にしなかった。「よく逢坂山だとわかったな」とも「よく盗人を射落とせたな」とも。
騒ぎが起こった折に「ついて来い」とも言わなかったし、盗人を追いかけている間にも「そこにいるか」と尋ねはしなかった。それでも頼信は言ったのだ。
「射よ! あれだ!」
父は確かに子に向かって命じたのである。
頼義が父は必ず自分の前にいると信じていたのと同様に、父は必ず頼義が後からついて来るだろうと信じていたのだ。
「射よ! あれだ!」
闇を引き裂く威力を持って自分に向かって放たれた叫びを、子に対する絶対的な信頼に満ちた力強い声を、頼義は忘れることはないだろうと思った。
あのたった一言が頼義にこれまで知り得なかった様々なことを教えてくれた。
源頼信の嫡男である自分に頼義は誇りを持っていた。それは模糊とした、しかも一点の陰りがあるものであった。しかし模糊とした陰りのあるそれは父の一言で見事に吹き飛んでしまった。誰かの名前の付随した誇りなど自己に対する自信となり得るはずがなかったのだ。
今の頼義は何かを払い落としたかのように明るい表情をしていた。
「晴れたな」
「昨夜の雨が嘘のようで」
「まったくだ」
屈託なく笑って頼義は馬に飛び乗った。心の闇も、いずれは晴れるものであると感じながら。
余談ではあるが、この後、平忠常の乱を平定した頼信はその武功によって東国への足掛かりをつかむ。
相模国鎌倉に館をかまえていた平直方は、頼義が武芸に秀で人物も優れているのを見込んで娘を娶せ婿に迎える。こうして生まれたのが源義家である。
頼義・義家父子は続く前九年の役で活躍。この長期にわたる苦しい戦いは源氏と東国武士との絆を強めた。さらに頼義は恩賞問題で奔走し、東国武士の信望を得て武士の棟梁としての地位を獲得した。
頼朝の開府に至るまでの東国への貴重な第一歩は、頼信・頼義父子によってなされたのである。
闇の絵巻 奈月沙耶 @chibi915
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