其之三

 頼義は以前に親孝からこの話を聞いた。

 父親である頼信の武勇伝だけではない。祖父満仲や伯父の頼光や頼親らの活躍を、頼義は幼いころから繰り返し語り聞いてきたのである。

 頼義が射芸に優れることを人に褒められて、頼信はこう言ったという。

「あれの弓の腕はきっと頼光の兄上譲りなのでしょう」

 頼信の長兄頼光には、春宮大進時代に時の春宮(三条天皇)の命により、重くて遠い的には届かないはずの蟇目の矢でもって離れた場所にいた狐を射落としたという、弓技の絶妙による巧妙譚があった。

 頼信の言葉を人伝に聞いた親孝は微笑して頼義に言ったものである。

「こちらの殿とて大変な弓の名手でいらっしゃるのに」

 頼信は若いころ頼光に浅慮を諫められたことが何度もあった。年の離れた長兄に頼信は頭が上がらないのである。

 頼義はこのような優れた人たちを近親に持つことと共に、頼信の嫡男である自分に強い誇りを抱いていた。しかしその誇りには一点の陰りがあった。

 頼義は頼信が宮仕えの女に産ませた子である。母の修理命婦には頼信との間の頼義の他にも子があった。随身の兼武というのがその子どもである。母は兼武の父と進んで密通したということだった。

 自分に父親の異なる同腹の弟がいると聞いてから、頼義は二度と母に会わなかった。ついには母の葬儀にも出なかった。自然、頼信の元からも足が遠のいた。

 頼義が知っているのなら、頼信も母の密通を知っているに違いない。母のことはいい。母のことは構わない。けれど頼信が頼義のことを疎んじていたなら? もし父に疎まれていたなら。

 この考えは頼義を恐怖のどん底へ陥れた。父に疎ましく思われたなら、いったいどうすればいいのだろう。そう思うと頼義は全ての自信を喪失してしまった。

 次に会った時、父はどんな顔をしてどんな言葉を自分にかけるのだろう。

 だがそのような憶測はもはや杞憂に終わったのである。頼義は心の内で父を訪ねるように勧めた親孝や家の者に感謝した。

 間もなく親孝は下がって親子水入らずの語らいとなった。父と二人でこうした時間を持てるとは頼義には思いもよらないことであった。

 やがて夜が更けたので頼信は寝所に入って寝た。頼義も父の警護のため装束はそのままで傍らで横になった。

 一度は弱くなった雨脚は再び激しいものとなり、宵の間中降り続いていた。


 真夜中ごろ、厩の方で騒ぎが起こった。

「おい、おいっ! 昨夜連れてこられた御馬が盗まれたぞ!」

 厩から遠く隔たった寝所の頼信は、この叫びをかすかに耳にして跳び起きた。

 そこで寝ている頼義には何も告げないまま、着物を引き寄せて裾をたくし上げやなぐいを背負って厩に走った。右往左往している警護の者を尻目に馬を引き出し、手近にあった粗末な鞍を置いて飛び乗り、豪雨の中を飛び出した。

 盗人の乗った馬はもはや影も形もない。

(逢坂山だ!)

 頼信はそう判断して逢坂山へ向けただ一騎駆け出した。


 一方、遅れて頼義も騒ぎに気付いて起き上がり、父の姿を確認するまでもなく同じようにやなぐいを背負って厩に走った。

 外は闇夜の上にどしゃぶりの雨の飛沫が水煙となって視界を完全に遮っていた。盗人の行方はおろか頼信の向かった先すらわからない。

 頼義は即座に考えを巡らせた。

 昨日の今日で届けられたばかりの馬が盗まれたということは馬盗人は東国からの道中で馬に目を付けたのだろう。しかし付き添っている武士たちが隙を見せないので京まで付いてきてしまった。そして夜の闇とこの雨音に紛れて馬を盗み出したのだ。ならば盗人が向かうのは東国。そして都から東国へ下るには、必ず逢坂山を越えなければならないのである。

 頼義は馬を逢坂山の方へ向けた。後も先も何も見えない真の闇と、自分の操る蹄の音さえ雨音にかき消されて聞こえない豪雨の中、知覚できるのは馬を叱咤する己の呼気だけであった。

 視界を閉ざされた闇の世界、それは頼義自身の心の内であった。何もない、見えない、聞こえない。頼りになるものは何もない。だが頼義は強く確信していた。

 自分の前方には必ず父がいる。必ず父がいる!

 頼義はひたすら馬を走らせた。

 賀茂川の河原を通り過ぎたころ、ようやく雨が止んで空も晴れてきた。しかし待ち望む月はなかなか姿を見せてくれない。

 相変わらずの闇の中、雨が止んだことを励みに馬を早める間に逢坂山にさしかかっていた。

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