闇の絵巻

奈月沙耶

其之一

 父の乳兄弟である親孝(ちかたか)が頼義の所へその話を持って来たのは、その日の夕刻のことであった。

「それは良い馬にございます。いかがです。若君もご覧になってみては」

 頼義の父の頼信が以前から求めていた名馬が、今日東国から届けられたと言うのだ。誰に命じられたわけでもないのに、親孝はそれだけのためにこの雨の中をわざわざ訪ねて来たのかと頼義は奇妙に思ったが、名馬と聞いて心が動いた。

 本当に良い馬ならば、是非自分がもらいたい。

 そんな頼義の心の動きを察知して、親孝が穏やかに言い募った。

「せっかくの名馬がつまらぬ者にもらわれては残念です」

「それ程良い馬か」

「欲しがっている者は大勢おります。若君が何も言わずにいればその中のひとりのものになってしまうでしょう。殿はどうするかはまだ決めておられないようですが、いつ何時もらわれて行ってしまうかも知れませぬ」

「まあ、それは大変。親孝殿がこうして知らせに来てくださったのですから、お早くお出かけなさいませ」

「ぼんやりなさっていては先を越されてしまいます」

 周りの者まで一緒になって勧めるので、頼義はもらえないまでもその馬を一目見たい気持ちになった。

「この雨の中をお出でになったとなれば、殿はきっと御馬を下されます」

 これで気持ちは決まった。頼義は重い腰を上げて父の家へ出かけることにした。

 折しも雨が激しく降っていた。雨脚が弱まるのを待ち、頼義は親孝と共に頼信の家へ向かった。

 実は頼義の足は父の家から遠のいて久しかった。長らく父とは顔を合わせていないのである。長い間まるで音沙汰のなかった自分の顔を見て、父は何と言うだろう。

 そんなことを考えていた頼義は、あることに思い至って同行している親孝の方を見た。

「? 何でしょう?」

「いや」

 視線を感じた親孝は怪訝そうな顔をしたが、頼義は何でもないと視線を逸らした。

(そういうことか)

 要するに親孝は、長いこと父と隔絶していた頼義を頼信の元へ赴かせたかったのだ。東国から届けられた名馬の事は頼義を連れ出すための良い口実だったのだろう。父の乳兄弟たる親孝らしい気遣いだ。だから家の者も熱心に頼義に出掛けるよう勧めたのだ。

 すぐにそうと察し得なかったおのれの未熟さを恥じて頼義は密かに頬を染めた。夕闇が表情を隠してくれていることが、この時の頼義にはありがたかった。



 時は平安中期、時の権力者藤原道長の栄華が絶頂を迎えんとしていた頃である。

 このころ、公卿の地位は名門の子息たちで占められ、中級下級出身の者には高位高官など望むべくもなかった。

 皇族出身でも出自が伴わなければそれは同様で、そうした者たちは国司となって地方へ下向し、その土地に土着して勢力の基盤を築いた。

 こうして武力をも備えた彼らは、天慶の乱(将門の乱)における勲功賞を契機に宮廷貴族社会の末端に地位を得ることに成功した。地方に基盤を置きながら都の有力者に仕えて貴族的武士としての足場を固めていったのである。

 こうした動きの中で清和源氏の出である源満仲は、巧みに中央政界に入り込み摂関家に接近してその名を高めた。満仲の子どもの頼光・頼親・頼信らは共に諸国の守を歴任しながら経済力を蓄え、その財を道長をはじめとする有力者に投じて栄進を重ねた。

 満仲の一族は武将としても優れ、その勇名は天下に知れ渡っていた。しかし一方で源氏は始祖経基が地方に基盤を持たなかったということもあって、その点において平氏に大きく引き離されていた。

 経基の長子である満仲は摂津国多田に荘園を経営し強力な基盤を築いたが、平氏から数世代遅れて開始された諸国への勢力扶植は、各地に拠点をつくって土着化するまでには至っていなかった。

 特に東国は天慶の乱を平らげた藤原秀郷と平貞盛の子孫たちが栄えた所であり、藤原秀郷の子の千晴は満仲と並び称される武将であった。

 武士としてその勢力と対抗する必要があると考えた満仲は、千晴を追い落とし中央政界での足場を固めた。地方に強力な基盤を持たなかったため、中央での戦いでは決して負けるわけにはいかなかったのである。

 この状況で東国への勢力拡大は源氏の悲願であった。

 何はともあれ、天慶の乱は武士の地位を上昇させるきっかけを与えた。と同時にこの平将門が起こした反乱は、国家に対抗した者の惨めな末路を彼らの目の前に突き付けたのである。

 権門に追従しなければ満足な官位を得ることはできない。この現状が自ずと彼らに限界を与えていた。いずれ、彼ら武士が時代を大きく動かす時がやってくる。そのような意識をこの頃の彼らが持ち得ようはずもなかったのである。

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