第10話 忍バザル恐怖


 とても暑い一日だった。

 日差しが苦手な私は一日中窓を閉め切って、いつもよりエアコンの温度を下げて布団にくるまっていた。じとりと足先に汗をかいてもその隠れ蓑から出ようとはしなかった。刻々と迫りゆく恐怖に怯え、私はぎゅっと目をつぶる。この掛布団だけが私の味方だ。


 ガサリとビニール袋の擦れる音がした。

 ビニール袋といえば恐らくゴミ箱の中でくしゃくしゃになっているコンビニの薄いビニール袋だと思うのだが、布団にくるまっている私には確認のしようがない。ただこの自室には私一人だけだったはずなので、あのビニール袋が音を出すはずがない。私は奥歯を噛み締めて、じっと恐怖に耐えた。


 きしっと天井が鳴った。

 この自室は二階にあり、上に部屋はない。それでもいま確かに天井のきしむ音がした。この部屋が微かな悲鳴を上げるように、誰かに助けを求めるように、天井が鳴いた。言うまでもなく私はこういう状況なので、天井を確認することができない。


 みしりと床が音を立てた。

 確実に何かが足を踏みしめたような音がした。重ねて言うがこの部屋には誰もいないはずなので、私以外の誰かの足音がするはずはない。


 いま私の周りはすっかり暗闇なので全ては憶測にすぎないが、きっと外界では大きなゴキブリがゴミ箱を漁り、毛むくじゃらの蜘蛛が天井に巣を張り、鋭い牙を立たせたチュパカブラが今にも私の血を吸おうとしているに違いない。


 きっとそうに違いない。


 しかし、ずっとこうしているわけにもいかない。ここがそうした化け物たちの巣の真ん中で私は格好の餌食になっているというのなら、今すぐにでもここから逃げ出さなければいけない。不意に布団を払いのければ化け物たちは驚くかもしれないが、拍子にその毒牙を私の体内に喰い込ませるのだろう。そして、絶命。ここから逃げ出すことは、できない。それなら静かにここから出よう。足をそろりと突き出して、まずはベッドから降りてみよう。いや待てよ。チュパカブラは体温に敏感だというから、布団から出るわけにはいかない。くるまれたまま芋虫のように移動するしかない。


 ああ、情けないな、私。いつも逃げることしかできないなんて。


 「何やってんの、アンタ」


 私を包んでいた布団がはがされた。

 母体の中で小さくなっている胎児みたいな恰好で私は床に投げ出された。


 「お母さん…」

 「こんな時間までなにやってんの、アンタ」

 「いや、それは」

 「アンタ明日―――――」

 「それは言わない約束なので」

 「何を訳わかんないこと言ってんの。とりあえず掃除したいんだから。どいてどいて」


 そうか。ゴミ箱も、天井も、床の足音も、すべて母のせいだったのか。


 「入ってくるならノックしてほしい」

 「はいはい。分かった分かった。ノックするわよ」


 母は私を適当にあしらいつつ、掃除機の電源を入れた。

 グォ―――――ンと長い排気音が部屋中に響く。


 「なんでこんな時間に掃除始めるの?」


 母は確か今朝から掃除をしていたはずで、昼間リビングにいた間に私の部屋も掃除していたはずだ。どうして今この時間になって掃除をし始める必要があるのだろうか。それも掃除機までかけ出して可笑しなことだ。


 「―――が―――た―らよ」

 「なんて?」

 「だか――も―――た―らよ」

 

 掃除機切ってよ。私は母の手から掃除機の持ち手を奪うと、電源を切った。威勢よく吠えていた犬がクマに遭遇して怯むみたいに、きゅぅんきゅぅんと可愛い声を上げながら掃除機は静かになった。


 「なんて?」

 「だから蜘蛛が出たからよ」

 「蜘蛛?」

 

 ああ、私は大事なことを忘れていた。母はきっとゴミ箱の中身をチェックすることはできるし、床を踏みしめることはできる。しかし、天井はどうだろう。音を立てたのは母ではなく、毛むくじゃらの、それもとびきり大きな蜘蛛だったのではないか。


 「お隣が蜘蛛払いの薬を撒いたみたいでね、こっちに来てるみたいなのよ」

 「じゃあ、明るいうちに退治すればよかったんじゃ」


 こんな夜更けに大きな音を立ててし始めることではないだろう。


 「昼の蜘蛛は殺しちゃ駄目なのよ」

 「夜はいいの?」

 「夜蜘蛛(よくも)来たな、ってね」


 そう言うと母は再び掃除機の電源を付けた。

 ってね、じゃないが。そんなダジャレで通る話なのだろうか。本当に天井をきしませるほどの蜘蛛がいるとすれば、そんな武器でどうこうできるはずがないだろう。


 私はすぐに天井を確認した。


 何もいない。


 「本当に蜘蛛いたの?」

 「いたわよ」

 「殺していいの?」

 「殺しはしないわよ。逃がすだけ」

 「あ、そう。何で」

 「蜘蛛は益虫だからよ。家じゅうの害虫を食べてくれるの」

 「じゃあ、逃がしちゃ駄目じゃん」

 「今はいいのよ。食べてもらっちゃあ困るんだから」


 私は首を傾げる。母に真意を問おうとしたその時、母は私の言葉を制止した。

 指を差して一言。


 「いいから勉強始めなさいよ」

 「え?」

 「明日テストでしょ?寝腐ってる場合じゃないでしょうが」


 母曰く、蜘蛛という生き物は「嫌なものを食べてくれる」らしい。

 テストという目前に迫った恐怖に、私は怯えていた。

 

 私はもう一度天井を確認した。

 



 

 

 

 

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