蛇尾さんの気になる
白地トオル
第1話 鍵閉めたっけ
「あ、家の鍵閉めたっけ…」
通学中の電車内、隣でつり革を握る男がそう呟いた。誰に言うでもなく、小さな不安を吐露した。
男はそれから思案したのち、何事もなかったかのようにスマホをいじる。
どうやら、閉めていたらしい。
だが、それはこの男の家の話だ、私の家は閉まっているのか?
この男の中では解決したのだろう。しかし、この男のせいで私の頭の中はまだ鍵のことでいっぱいだ。
閉めたっけ…いや、閉めた。うん、閉めた。鍵の閉まる音を聞いたのを覚えている。でも、この記憶って昨日のかな…、そうだ、昨日も同じように鍵を閉めた。家中、探し回って結局ポケットに入っていたのを覚えている。
あれ、じゃあ今日は閉めてないのか?
「あー閉めてないかも…」
私は周囲に聞こえない程度に(隣の男にだけ聞こえるように)唐突にそう呟いた。全ては復讐のためだ。この男にもこの苦悩を味わってもらいたい。
しかし、男の耳にはイヤホンが刺さっていた。私の声など届いているはずもない。
さて、稚拙な復讐も徒労に終わったところでどうする?
鍵を閉めていないとすれば、閉めに帰らなければいけない。一度、帰るということはこの電車を降りるということ、それすなわち遅刻を意味する。
しかし、鍵の開いたままの部屋を野放しにはできない。そういえば、最近ご近所では空き巣の被害が多いと聞いた。ここは無理を通してでも帰るべきか。
では遅刻の理由を考えよう。鍵を閉めに帰りましたでは格好がつかない。忘れ物を取りに帰ったはどうだろうか…いや、これも鍵を閉めに帰るのと本質的には変わらない。要は忘れたのが行動か、物かの違いだ。
うむ、どうするべきか……?
「あれ、
気づけば後ろにクラスメイトの
なかなか顔が整っていて何をするにしても爽やかな男だが、その爽やかさゆえに却って何の印象にも残らない影の薄い人間である。ただ長年連れ添っている幼馴染の彼女がいるそうなので、それも大したウィークポイントにならない。彼氏彼女を持つとはそういうことである。得てして弱点が隠れてしまうものなのだ。
「蛇尾さん、いつもの癖が出てるよ、何かあったの?」
晴宮の言う私のいつもの癖とは、手を顎に持っていき深く思案する仕草のことだ。その姿を見て周囲の友人は私の名前をもじり『ダビデ像』と呼ぶ。
ただダビデ像とは雄々しく立つ裸体の男を彫ったミケランジェロの作品である。恐らく皆が言いたかったのはロダンの『考える人』だろう、恥ずかしいのであまり人前で言ってほしくない。私は普段からしっかり服を着ているはずだ。
「どうも鍵を閉め忘れたようなので」
私はこの時、ある作戦を思いついた。このまま、鍵のことを話してしまおう。そうすれば、この男は「何をそんな小さいことを…」といって私をなだめてくれるだろう。このままではきっと私は不安に押しつぶされ、家に帰ってしまう。そうなる前に他者から客観的な意見が欲しい。
「一度閉めに帰ろうと思う」
「ええ!ホントに?早く帰らないと……!!」
こいつ……!!
「そういえば、昨日ニュースで空き巣被害のこと言ってたよ!そりゃあ心配だよね……」
私はじっとりと晴宮を睨む。
「え、なに?蛇尾さん」
私はすすすと人影に消え、ドア側の窓に張り付く。それはまるでスターティングゲートを前にファンファーレを聞く競走馬のように。
「あれ?蛇尾さん?どうしたの?」
最早、こいつの言うことなど耳に入らなかった。私は静かに次の駅に着くのを待った。
そしてついにその時は来た。
ホームに降り立った私は急いで階段を駆け上がり、反対側のホームに向かう。先ほど車内で調べた情報どおり、2分後に逆方面側の電車がやってきた。それに飛び込んだ私は揺られること20分して地元の最寄りの駅に降り立つ。そこからバスに乗り換え、自宅のある山を切り開いた集合住宅地へと向かう。そして家の前のバス停に着くと、勢いよくバスから飛び降りる。一瞬、ギョッとした運転手の顔は見ないことにした。
家の前に立った私は玄関のドアノブに手を掛けた。
そして、ゆっくりと引く。
「なんだ…閉まってる…」
鍵は閉まっていた。全ては私の(半分は晴宮の)杞憂だったのだ。
「あれ?」
だが私はそこで気づいてしまった。
バッグの中、財布の中、ポーチの中、そしてポケットの中、どこを探しても鍵が見当たらない。
鍵がないのに、どうしてドアが閉まっている?
私はふと昨日のニュースを思い出した。
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